第一章4 お気に入り
「――ふぅ……、今日はこれくらいでいいかなぁ……。お疲れぇ、お兄ちゃん」
「ぅ……うぅ」
満足したのか、長い息を一つ吐いてラッセルは額の汗を拭う。まるで、一仕事やり終えたような清々しい顔を、眼下で床に這いつくばるラルズに向けていた。労いの一言など、まるで嬉しくない。
「三日ぶりだったからか、思いのほか精が出ちゃったよぉ……」
・・三日に一度。それが最低頻度。二日に一度の日もあれば、連日呼び出される日も珍しくない。三日以上は衝動に耐え切れないのか、それ以上間隔を空けたことは一度も無い。
三日の猶予時間もバラバラで、いつラッセルが部屋を訪れるか、その直前になるまで把握し切れず、毎日怯える日々。気分や機嫌によって左右される趣味に、理由や法則性という概念は通用しない。
時間は最低でも一時間。ここも気分によって上限は釣り上がる。飽きるまで、己の心が満たされるまでラルズは仕打ちを受け続け、その身に傷を増やし続けられる。
切り傷や刺し傷から始まり、火傷に殴打、水責めに爪はぎ。首を絞めて苦悶の表情を愉しんだり、身体を冷水でずぶ濡れにして長時間放置したりと、他人を苦しめ実行する手段は千差万別。
「大丈夫、お兄ちゃん? 歩けそうかぁ……?」
どの口が言っているのか。誰のせいで、歩くことも厳しい状態になっていると思っているのか、問い質してやりたい。・・もっとも、問い質したところで理解ある真面な解答など返ってこない。
四肢はズタボロ。裂傷に刺し傷、鈍器で殴られた部分は変色して腫れ上がっている。所々削がれた皮膚は肉面が曝け出されており、空気に触れているだけで神経が痛みを訴える。
身体全体に負傷を抱え、生きているのが不思議なくらいに損傷具合が酷い。悲惨な個所を探す方が苦労しそうな状態であり、いつ命が事切れても可笑しくはない。が、
「無理そうだから、また俺が連れてってあげるよぉ……。大好きな妹ちゃんたちの所にねっ」
――ここでラルズが死ねば、この狂人の次なる獲物はシェーレとレルに移り変わる。死んでいる暇なんて、ラルズにはない。
ラルズの服の襟に手を伸ばし、部屋へと連行しようとするラッセル。が、途中でその手がピタリと止まり、床に腰を下ろした。
「・・・・・・」
「ぅ、ぅぐ……っ」
ラッセルはラルズの背中に手を伸ばすと、転がすように身体を回転。雑なやり方でうつ伏せの状態から仰向けに体制を変えられる。体を入れ替えた拍子に再び咳き込む。
彼は無言でラルズの身体を上から下まで眺めると、うっとりとした表情をし始めた。そして、
「・・俺ってさぁ、想像つかないかもだけど、昔はいいところの仕事場にお世話なってたんよぉ……」
突然始まった、ラッセルの自分語り。この話を、ラルズは何度も耳にしてきた。
「歴はそれなり、地位はそこそこ。腕前も中々。世間一般の奴らが言うにはぁ、順風満帆、軌道に乗った人生って言うのかねぇ」
語り始めも、話す内容も全て同じ。語る相手からの反応も無いのに、ラッセルはそれでもお構いなしと舌を動かす。語る速度は緩まれず、むしろ熱が伝播する。
「でもよぉ、どこか心が満たされなかったんだよぉ……。仕事に不満があったわけでもねぇし、むしろ好きな部類だったんだぜぇ。なのに、変だよなぁ?」
ラルズは呼吸をするので精いっぱいであり、相も変わらず反応は返ってこない。それをラッセルは把握しているからなのか、何も言わずにただ独白を続ける。
「けど色々あってなぁ、その仕事を辞めたんだよぉ……。・・今にして思えば、あの事件には感謝しかねぇ」
何があったのかは聞く気すらない。ラッセルの過去に微塵も興味は無い。何より……ここから先の過去話は、胸糞悪いエピソードばかりが口から紡がれる。
先の内容を知っているだけに、耳にしているだけで吐き気が浮かび、際限ない非情さに怒りが湧き上がる。
「退いた後はよぉ、世界各地を歩き回っててなぁ。目的もなぁく、ぶぅらぶぅらって。開放感っつぅのかなぁ……結構気分が良かったんだよぉ」
耳を塞ぎたいが、腕は動かない。ラッセルの口を遮ることはできず、過去話は最後に到達するまで止まるところを知らない。
「んである日よぉ、半年前みたいに森を歩いてたんだぁ。適当になぁ……。そしたら、道に人が倒れてたんよぉ」
自身の指で頭を小突きながら、頭の中の回想を言語化していくラッセル。
「偶然、怪我をした男性を発見したんだぁ。そいつぁ旅人らしくてよぉ……。息はしてたし、致命的な傷とは違ぇ。けど、どうやら両足を魔獣にやられたみたいで、動きたくても傷が深くて厳しい様子だったんだぁ」
「・・・・・・」
「偶々だぜぇ、本当に偶々、その場に俺が居合わせた。んで当然、男は俺に助けを求めたんだけどよぉ、俺は手を差し伸べなかった」
そうだろう。この男が、誰かを助けている図は想像がつかない。
その逆――男がどうなったのかに関しては、話の内容を知らずとも想像が及ぶ。
「別に殺人衝動に駆られたわけでもないぜぇ。人殺しの願望を抱いてたわけでもなぁ。・・まぁ、結果的に殺したんだから、この言葉は説得力ねぇだろうけどなぁ……。あっはっはぁ」
殺人という大罪を犯したことに対して、あっけらかんとした態度。反省の態度が欠片も感じられないどころか、挙句の果てには話の種――否、笑いの種にしている。
殺人のどこに面白い要素が含まれているのか。ラルズには永遠に理解できないだろう。聞いているだけで嫌悪感が積み上がる。
「魔獣なんかは、職務上何度も殺してきたんだぁ。特別殺人意識が強いわけでもねぇ。ただ、人はまだ殺したことがなくてさぁ。遊び半分っつうか、ちょっとした好奇心……ってやつが芽生えてよぉ」
好奇心、遊び心。そんな下らない理由で人の命を奪ったこの男は、心もそうだが、頭のネジも常人と違って外れているとしか思えない。
「実験体としてそいつを連れ去って、少しずつ手を加えていったんだよぉ。丁度、お兄ちゃんにしているみたいになぁ……」
「――っ……」
「結果として、そいつは一日も持たなかった。そいつは簡単にぶっ壊れて、最後は自分で舌を噛み切って死んじまったぁ……」
ラッセルの凶牙の的となってしまった男に、ラルズは同情する。一体、どれほどの絶望を抱えて死んでしまったのだろうか。自ら舌を噛み切って死んでいることからも、味わった絶望の深さが話だけで察せられる。
そして――、
「けど俺、気付いたんだよぉ……。弱い人間を虐げる悦びも、成す術なく従わざるを得ない哀れな弱者を支配する感動がっ――」
そこでラッセルは一度言葉を区切ると、ラルズの顏に自身の顏を近付ける。不潔な印象を抱く黄ばんだ歯が覗かれる。顔面が直ぐそこに迫り、そこに映っていたのは、
「さいっ、こう――……だったんだよぉ!」
・・人の形をした、化け物。他者を痛め付け、迫害し、そこから得られる快感が、ラッセルという化け物を作り上げた。
最初の衝動。最初の起源。つまらない好奇心が種となり、その殺人が栄養となって、ラッセルを本当の意味でラッセルとしたんだ。
「魔獣なんかとは違ぇ! 人の叫びが、痛みの嘆きが、感情がそのまま言葉に、態度に表れる『人間』が、神経を激しく揺さぶんだよぉ!」
ラッセルは頬を赤く染め、自身の身体を抱き締めて悶えていた。激しい激情が身体の仕草に興され、言葉は加速していく。
彼にとって人間は玩具でしかない。そして、玩具と人の命を同列視している。愉しむだけ愉しんで、飽きたら――死んだら、次の標的を探して各地を渡り歩く。
ラッセルは殺人を――玩具遊びを続けた。彼が人を玩具と見定めるようになったのも、そもそも論、根っこの部分が腐っていたからだ。人の理解の範疇を超え、無理解を纏った化け物でしかない。
「山ん中で平和に暮らしている老夫婦もいたなぁ……。親元離れて行商人やってる若い男もいたなぁ……っ!」
指を一本一本折っていき、過去の玩具たちを挙げていく。その数は両手の指だけでは事足りず、両方の足の指を含めても足りないほどに。
「一番気持ち良かったのはぁ、子連れの夫婦だなぁ……! 親の目の前で子供を嬲っていたときの叫びは、興奮しすぎて意識が飛びそうだったよぉ……っ!」
「――っ……!」
下劣で不愉快極まりない話の数々。傷の痛みもそうだが、それ以上に沸々と怒りが煮え滾ってしまう。
語る言葉に熱が乗り移り、下種な内容が永遠と続いていく。人の心など、道徳心など、とうの昔に失われている。吐き気を催す邪悪、人間の負の部分を煮詰めて練り込んだような悪意の塊。
もう、ラルズは理解を諦めていた。誰も、こんな異常者の考えなど、理解できないだろう。
どんな善人の言葉も、どんな聖職者の問いかけも、この男には一生届かないだろう。狂気に支配された人間は、二度と元には戻らない。
「けどよぉ、今は少しそのランク付けが変わったんだぁ……! 今は――」
熱を帯びた話の途中、ラッセルの視線が一際細められて鋭くなる。すると、
「――がっ!?」
ラッセルは両手を伸ばし、ラルズの首を締め上げる。容赦なく力を込められ、呼吸軌道が閉鎖。徐々に息苦しさが立ち上り、視界がチカチカと明滅する。
「お兄ちゃんが一番だっ! 半年間もの間、玩具としての役割を全うしてくれているっ! どんだけボロボロになっても、どんだけ血ぃばら撒いても、お兄ちゃんは壊れないっ!!」
「ぁ、ぇぇ……っ、ぁ」
口の端に泡が浮かぶ。危険な状態であると肉体が警告を発っする、冷や汗が生まれ、血の気が一気に引いていくのを実感する。
「人が寄ってこねぇ環境! 両親が死んで守ってくれる奴がいねぇ最高の家族状況っ! いつまでも遊び続けられる玩具!!」
――息が、もう……!
「いつまでも、いつまでも遊んでやるよぉ、お兄ちゃん――!」
首を絞める両手の力加減は緩まることなく、やがて意識は段々と奥へと吸い込まれ、
「――ぁ」
掠れて呟かれた声にも満たない声。それが皮切りとなり、ラルズの意識はストンと、暗黒の世界に引きずり込まれた。
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