第4章 囚人のロジック

 愛知県土岐市土岐西消防署第二分隊所属、救急救命士土井美佳子どいみかこは、普段にない緊張感に苛まれていた。

 警報を鳴らして走る救急車両は、かなり強く揺れる。

 目的地とした横山医大白山記念病院へ最短となる高田山を越える山道の隘路に入っているためだ。五斗蒔ICから国道84号線に降り、山間に五キロ以上入ったこの地域は、かつて鉱山もあった山深いなかにある。

 ストレッチャーに載せた二人の患者は動かない。ひとりは呼吸停止していたが、気管挿管して呼吸器につないで、バイタルは安定した。もうひとりは呼びかけに反応がないが、チアノーゼは軽い。心肺は安定しているように見える。病院まではまず、問題ないだろう。

 そのひとりのパルスオキシメータの数値は奇妙だ。

「酸素量五八パーセント」低酸素になっている。

 鼻カニュラで十分かと思ったが、念のため患者にはフェイスマスクを当てた。酸素流量計レギュレーターの調整ノズルに手を伸ばす。

 国道475号東海環状自動車道で発生したコード2は、呼吸停止ということで心配したが、心停止のようなクリティカルなものではない。すでに消防士として五年、救命士として三年の経歴を持つ彼女には、この状況も心配の要素などない。

 ひとりの患者の着ている草色の上着をめくって腹部を確認する。その服には「峠ノ越」という名前と、「岐阜東刑務所」の文字と番号が記されている。緊張の原因はこの患者が受刑者、つまり罪を犯して収監されている囚人であることだ。

 この受刑者は、豊川市の医療刑務所にしばらく収監されていたが、快癒してもとの岐阜東刑務所に戻されるところだった。医療刑務所にいた原因は重度の鬱病だったと聞いていて、いまの症状との関連はないはずだった。

 めくりあげた患者の腹部には、不気味にあばらが浮き出ていて、そこに数多くの傷痕が、別な生き物のうろこのようにまといついていた。

 経験から分かる。それは自傷の跡だ。

 唾を吞んだ。

 傷など見慣れていたはずだが、それは怖いものに見えた。

 環状自動車道を受刑者移送の途中で突然起こったという事象は、詳細が分かっておらず、症状原因がつかめていない。現場での患者は二名。いずれも意識がなく、刑務官であった一名は、顔面と口腔内、気管にびらんが見られ、明らかな呼吸困難を呈していた。このもう一名の男も弱いびらんが見られたが、極めて軽度だ。

 このもう一名が、移送対象だった受刑者だ。

 暗い夜道に設置されている電灯の光が、ときおり窓の外から差し込んで、社内を薙ぎ払うように過ぎる。

 荒れた道を高速で走るため、路面の段差でずしんと揺れる。

 心配はいらないはずだ。

 囚人は見るかぎりひどく華奢で、背も小さく、暴力的には見えない。

 すぐ隣には警官も座っている。その制服警官は、乗車当初は連続して外部と電話連絡していたが、いまは何もしゃべらない。それに、この車両の後ろにも一台の警察車両がついてきているはずだ。

 あと一〇分足らずで街路に出る。

 そのときだった。

 患者が、突然ふわり、と起き上がったのだ。まるで重さのないもののようだった。

 彼女は悲鳴を呑み込んだ。

 微光に落としたLEDライトの直下で、フェイスマスクのなかの表情は陰に落ち、マスクに映ったライトだけが怪しく光った。

 揺れ止めの拘束ベルトをいつ、どうやって外したのか分からない。

 手錠と腰ひもに結ばれた細い老人のような腕がゆっくりと持ち上がり、彼女のほうへ動く。逃げようとする彼女の背が、壁にかけられたストレッチャーに当たって妨げられる。

 ビニールパックのようなものが顔に押し当てられ、生あたたかい液体とスポンジ状の感触に、呼吸を奪われた。

 刺激臭と、そして汚物臭がした。

 目が、そして喉が灼かれていた。があ、と声と嗚咽を発して倒れ込む。

 この匂いは―――。

 それを考える余裕はなかった。呼吸ができない。

 涙に揺らぐ視界に、警官が男に迫る様子が見えていた。

 男は焦るようすはなく、むしろ腰ひもを引いて警官を自分のほうへ引き込むと、ストレッチャーに背をあずけて倒れ込む。覆いかぶさった警官が、悲鳴を上げて狭い足元へ身を落とすのが分かった。

 彼女は必死にもがいていた。叫ぼうとしたが、声どころか息もできない。

 彼女のその頭上に、ふたたび男が上体を起こす。

 悲鳴は胸の中で凝縮して行き場を失っていた。

 男のそのフェイスマスクが息で白く濁る、顔がほぼ見えないその一部に、細い目がこちらを見ている。

 恐怖が体を震わせ、苦痛が手足を強張らせる。血流が心臓を締め付けている。

 死がその目のまえに。

 目がかすむ。意識が混濁する。

 頭からさかしまに堕ちる感覚に襲われ、すさまじい恐怖に胸をつかまれる。

 黒々とした闇に意識が落ちてゆく。

 彼女はそのさなか、死神の姿を見ていた。

 街路灯の光が差して、その姿を薙ぎ払う。一瞬見えた姿はどす黒く、ひきがえるのような頬の上の細い目は、微笑んでいるように歪む。

 車体はふたたび大きく揺れる。

 天井光を背に、ゆらりと立った肩は細く、そこから差し出された細い腕が枯れ枝のようで、魔法使いの杖のように宙に何かを描いていた。



 かび臭いコンクリートの壁は、俺の爪痕の溝が日に日に深くなってゆく。

 五人がベッドを並べる雑居房の、便所に近い壁際の寝床で、俺は冷たい壁を爪で掻く。

 俺は、愛知県豊川市にある豊川医療刑務所にいた。

 電灯が消された闇の病房に、きいい、と奇声が響きわたる。二つ隣にいる受刑者が、昼夜なく叫ぶのだ。

 俺は黄ばんだシーツを抱え込んで唸った。

 医療刑務所は、普通の刑務所の医療施設で対応できない専門医療を要する受刑者を収容するものだ。この病房は受刑者M指標、つまり精神疾患を持つ者が収容される場所だ。

 俺は、壁を引っ掻く動作をやめて、ベッドから上体を起こした。

 闇に、格子の入った窓の四角い光が浮かんで見える。

 ぶつぶつと呟く声が聞こえる。痴呆の受刑者のひとりごとだ。

 あんな失敗をしなければ、ここにこうしていることもなかった。あんな些細な失敗がすべてを台なしにした。

 俺は何年も繰り返した後悔を、また爪の先で壁に削りつける作業に戻った。


 この医療刑務所に入るまえに、俺が最初に入れられたのは岐阜県岐阜市、御望山の東にある岐阜東刑務所だった。

 日本国内七〇か所以上もある刑務所施設のなかで、禁錮一〇年以上の重罪犯は処遇指標においてL指標とされ、それらが収容される施設は限られる。

 その刑務所の雑居房での俺の生活は、予想したとおりの悲惨なものだった。

 収容されているL指標の者や、さらに犯罪傾向が進んだLB指標の者たちのうちで、殺人のような重犯罪者は日本ではそう多くはない。多くは傷害犯や、暴力犯で再犯を繰り返す者たちで、そういった者の多くは他者への暴力を意に介さない。

 雑居房のそんな者たちのなかで、染みついた卑屈さをぬぐえない俺のしぐさや、物言いは、多くの受刑者から苛立ちを伴って蔑まれ、貶められ、そしてかれらの優越欲求のはけ口となった。

 トイレの掃除は、ブラシはあるが、そのほかに石鹸と雑巾しかない。雑巾はトイレので、素手で洗わねばならない。それは多くは新人受刑者があてがわれると言われていたが、俺以外の者がすることはない。

 居場所がなく、トイレのまえの狭い場所で、壁にもたれかけて眠る毎日が続いた。

 だが、刑務所での行動は、いかなる場所も監視と、統制の対象で、かつての学校や、職場のようなあからさまな暴力はない。むしろ、連帯行動や、共同作業を求められるため、ある程度互いを尊重することが必要となる。

 人間の本能は、優越欲求や、承認欲求欲だけではない。それぞれが勝手に欲を満たそうとするよりも、群れで暮らし、群れを維持することのほうが、外敵や、厳しい自然のなかで、しゅを確実に残してゆくために有利であることを人類は進化から獲得した。

 軍隊など組織に属する者たちは、優越欲求を忘れて、怪我どころか命をもかえりみず、上位者の指示に従った行動をとれる。群れの意思にはだれひとり逆らわない。それは、ひとりひとりの種の保存本能を超えて、群れに殉ずる本能のなせるわざだ。

 行動をしばり、規律をあたえ、整然とした行動をさせることで、群れの本能を呼び覚まし、「社会性」を獲得させようというのが、刑務所というシステムなのだ。

 だが、抑えられた暴力でことが済んだのもしばらくのことだった。

 なにか、得体の知れない悪意が俺を苛みはじめた。

 新しい受刑者の何人かが、あきらかに意図的に俺をいじめはじめた。監視の届かないところで、あるいは自分が懲罰を受けるのも構わぬように暴力を加えてくるようになった。

 さらに、俺が殺人犯であることは知られていたが、子供を殺した快楽殺人犯だという噂が伝わった。おそらくそれも、悪意からくるものだったろう。否定しても無駄だった。

 嫌悪は本能から生まれる。

 どのような粗暴犯にも本能はあって、群れの本能にも強くあるそれは、俺をすさまじいまでに嫌悪させた。

 監視から隠した場所での行為は陰湿で、残酷なものだった。刈り上げた頭や、顔にはあざがつけば目立つので、腹を殴打され、金属の入った安全靴で脛を蹴られる。嘔吐し、血の小便を流した。

 血便が出たときに訴えて、刑務医にかかったときには、俺はなにも言いつけはしなかった。だが、そういったことの経験が豊富な刑務医は、それを察して申告し、何人かが警告を受けた。それがもたらす結果はいうまでもなく、それ以来、医者にかかることもできなくなっていった。

 刑務所では刑務として作業を命じられる。簡単な組み立て作業や、工場作業などだ。機械作業の経験のある俺は、最初は旋盤などを扱えたが、手の震えが激しくなって、単純作業すらおぼつかなくなくなっていった。

 同性愛者は多くなかったが、いないわけではなく、強姦こそされなかったが、手淫、口淫の強制は何度もされ、俺の精神は腐った瓜をすりおろすように、簡単に摩滅していった。

 それら虐待は多くの者たちからで、だれかひとりの悪意を感じさせるものではないように見えていた。だが俺は、それらの虐待行為の裏に、何者か、人の姿をした悪意を感じていた。

 抑えてきた鬱病の症状は、見る間に悪化した。

 刑務医に通うようになり、薬をもらってもよくはならなかった。

 よほどのことがない限り、最初に入った刑務所から別な刑務所に移されることはない。

 睡眠がとれないため朦朧とし、譫妄に我を忘れ、食事がとれずにやせ細り、自傷で掻きむしったからだが血まみれになるころ、俺はやっと、医療刑務所へ一時移送されることとなった。

 その前後からの記憶はさだかでない。

 その医療刑務所にはL指標の収容施設がない。回復すると、もとの刑務所に戻るしかない。その後、俺はわずかに回復し、もとの刑務所に戻され、そしてまた悪化して、医療刑務所のベッドに戻ることを何度か繰り返した。

 俺がM分類受刑者の病房のベッドで、天井を見上げて自我を取り戻したころ、すでに四年が経過していた。

 そうやって、その医療刑務所が俺の居場所になっていった。

 医療刑務所では治療、療養が主だが、刑務や用務がないわけではない。俺は掃除、トイレ掃除などを進んで買って出て、ことさら勤勉に働いた。

 自分を取り戻していた俺には、やらねばならないことが見えていた。

 ここに入れられるまえに計画していたことはまだ、未完なのだ。

 不十分なのだ。

 心を破壊するほどの劣等感は俺に、そこから抜け出す道を、狂うほどに求めさせた。かつて経験した優越の甘露への渇望が、すさまじい勢いで増していた。

 それを達成しないわけにはいかなかった。

 俺は刑務所に収監されるまえに、あらゆる準備をしていた。その準備は周到に隠していた。ダミー会社で長期契約した倉庫だったり、郊外の農地だったり、まず警察や検察が探して見つかるような場所ではなかった。計画の詳細は、デジタルで作成して、海外のクラウドサーバに保存している。世界中何百万の匿名ユーザのなかから、俺のアカウントにたどり着ける者がいるはずがない。

 ところが、あるとき俺は、監督官の目を盗んで、看護用パソコンに触れる機会を得た。そこからアクセスしたクラウドサーバには、あるはずのないアクセス履歴が残っていた。

 検察の捜査であるはずはない。そうならば、とっくに再起訴か、少なくとも審問に訪れているはずだ。それ以外に俺を邪魔しようとする者がいるのだろうか。ファイルは暗号化されている。しかし、もしハッカー、クラッカーの類であったなら。そしてファイルが流出するようなことがあれば問題だ。

 急がねばならない。

 俺の周囲には、精神的な障害者や、痴呆症老人など、重介護を必要とする者が大勢いたが、それらの介助は同じ受刑者が労務としてあたっている。それらはほとんどがA指標、つまり軽犯で、素行の良い者だけだ。俺はそれらにも積極的に手助けしていた。

 そうした俺が、介助担当の労務に就かされるようになったのはむしろ自然なことだった。もとの刑務所に戻すに戻せないL指標の俺の置き場は、刑務所にとっても心労の種で、役に立つ場所でそのまま放置するのが最良だったのだ。

 それは俺の計略の一部だった。

 刑務所では既定のもの以外には手にすることができない。入所時に外部のものはほとんど持ち込めない。日用品、石鹸ですら、既定の業者から買ったものしか差し入れられない。しかし、この医療刑務所では一般の刑務所とは違い、さまざまなものを手に入れる機会があった。

 病院であるから、トイレや、流しの清掃には石鹸ではなく、消毒剤や、漂白剤が用いられる。漂白剤とは過酸化水素と炭酸ナトリウムで、消毒剤は次亜塩素酸ナトリウムだ。エタノールは、患者の世話をする看護師が廃棄していくゴミ箱からわずかずつ入手できる。

 ジップ密封ができるビニール容器を手に入れた俺は、そうしたものを少しずつ隠匿していった。

 医療刑務所でも私物は厳密に調べられる。俺の体には、神経性の発疹が、帯状疱疹のようにいつもできていて、体のあちこちにガーゼが貼られている。俺は巧妙にそれを隠しながらそれを進めていた。

 それをコントロールしていた。

 俺はふたたび、誰の目にも快癒しているように見える態度を示し始めた。食事も、睡眠も、生活態度にもなんら健常者と相違ないものに見えたはずだ。

 そうして、何度目かの俺の通常刑務所への移送が計画された。

 移送の日―――。

 それは予告されることなく実行された。だが、過去と同じ手順、過去と同じ経路で移送が行なわれることは分かっていた。

 移送先の刑務所へ入るときには、尻の穴まで調べられる厳密な検査がなされるが、ここを出るときには検査らしい検査はされない。

 護送車両は、わずか一名の移送のため、大型バス型の移送車両は用いられない。回転灯がついただけの、トヨタハイエースのなかに収められる。運転席と、乗員席は金網でセパレートされている。手錠、腰ひもがかけられ、出口側に刑務官が密着して、行動の自由を奪われる。ハイエースの後ろには、二名の警官を載せた岐阜県警のパトカーがつく。

 護送車両に載せられて一〇分。東名自動車道のピッチをタイヤが通る規則正しい音を、俺は静かに聞いていた。

 東岐阜刑務所まで一二〇キロはゆうにあるが、豊川から東名自動車道を経由して、岡崎ICから東海環状自動車道を経由すれば、二時間ほどしかかからない。

 窓の外に広がる山々を見る。

「このへんは山ですねぇ」横に座る刑務官に話した。

 東海環状自動車道は、名古屋を中心とする都市群を外からぐるりと迂回する、山岳部を割いたように伸びる高速道で、すでに夕方にかかるこの時間には山の色が濃かった。

 俺はおとなしくその時期を待った。

「まえに乗ったときには、紅葉でしたけどねぇ」

「へえ、そうだっけなぁ」

 横に乗った刑務官も、以前と同じ人間だ。俺に警戒感などみじんもない。

 護送車の地図上の位置は、医療刑務所に戻るに遠すぎ、そして近隣に病院も少ない地域だ。

 俺の背中と、腹の発疹に当てられたガーゼ・パッチのなかにはガーゼの代わりにパッキングされた薬剤が入っている。上から手で触ったくらいでは判別はできない。

「ほらあそこ」窓の向こうを指さす。

 俺は焦ることなく、ゆっくりとそれを取り出すと、刑務官の顔に押し当てた。

 消毒剤の濃縮三〇パーセント次亜塩素酸ナトリウムは、酸と混合すると分解し、ph5以下で猛毒の塩素を発生させる。ph3以下で急激に分解が進み、触媒として重金属を混ぜることでさらに促進させられる。

 刑務官は驚くとともに、激しく抵抗した。だが、すでに遅い。

 塩素ガスは六ppmで喉や目、鼻に激しい痛みを引き起こし、十四ppm以上で気道、および肺に出血、浮腫を発生させ、呼吸困難に陥らせる。それを超えれば簡単に死に至らしめる。

 刑務官が声を失って苦悶する。

 俺は運転席に向かって叫んだ。

「たいへんだ! 助けてください!」

「どうした!」運転席から後ろのようすを見た刑務官は、驚いている。

「車を、車を止めてください! 息をしてない!」

 座ったまま意識を失った同僚の姿を見た運転席の刑務官は、明らかな動揺を見せて、無線連絡をするか、車を止めるか迷った。

「早く止めて!」それを煽った。

 目に強い痛みが出ていた。すでに薬液のパックは密封して座席裏に隠したが、塩素ガスは高濃度で充満していた。俺は息を止めて、襟下に隠し持ったビニール袋のなかで呼吸していたが、このまま長くは維持できない。

 車両が路肩に止められると同時に、後ろのパトカーの警官たちが走り寄ってくるのが見えた。

「なんだ、これは」ドアを開けた警官たちは、刺激臭に顔をしかめた。

「早く! 運び出して!」俺は叫んだ。

 刑務官の体とともに、転がり出るように外に出た俺は、激しく咳き込んだ。

「う、なんだ? この匂いは!」

「どうしたんだ! なにをやった!」三人に囲まれた。

「わ・・・分かりません。な・・・、なにか、このひとが持ってたお菓子を食べ始めたらすごい匂いがして・・・、ああ、痛い、ああ・・・」俺はそれだけを言って、倒れ込んだ。

 もとより、これだけでこの護送車両から逃げられるとは思っていない。

 俺は刑務官のとなりに倒れたまま、意識を失ったふりをした。

「おい、松山! おい、しっかりしろ! 松山!」誰かがその刑務官を揺すっている。

「こいつら、なにを食ったんだ?」

 用意してあった菓子の袋には薬液を少量だけ入れてある。

 ふだん刑務官は、服役者と同じくスマートフォンやその他のものの携帯が制限されていて、娯楽が乏しい。菓子や、小説本などをポケットに入れている刑務官は珍しくない。

 俺のことは疑っているだろう。だが、刑務官のひどく口元、残された菓子の袋、異臭。まず最初に思い浮かべるのは食べ物のはずだ。

「おい、待てよ、息してないんじゃないか?」

「救急車、救急車は呼んだのか? 早く!」

「おい、人工呼吸したほうがいいんじゃないか?」

 頭の上で飛び交う会話に耳をすませた。

 ここにいる者はみな、俺がなにかしたのではと考えてはいるだろう。だが、まだ事件と判明してはいないこの段階で、近隣警察に緊急要請はかけられない。まず、俺を拘束したまま、もとの医療刑務所か、行き先の岐阜東刑務所へ応援要請を出すしかない。だが、ここに応援が到着するにはかなりの時間を要する。

 これが俺ひとりなら、医療刑務所へ取って返すということもあるだろう。だが、刑務官が倒れていて、しかも重篤であれば、その選択肢はない。救急車で最寄りの病院へ移送しなければならないはずだ。

「おい、おまえも食ったのか? おい!」俺はそれには応えない。俺の顔の周りや手には、同じような病変が出ていた。

 俺の予想どおり、応援がくるより先に、近隣からの救急隊は五分もかからずに着いていた。

 刑務官と、警官二名だけが残されていたが、彼らに応援を待っている猶予はない。意識のない刑務官と、俺と、そして警察官一名を載せた救急隊の車両は、そこを離れて病院に向かった。現場には一名の刑務官が残り、同行していたパトカーは警察官一名が運転して救急車両のあとを追ってくる。

 応援のパトカーは、やってくるだろうが、それには数十分はかかるはずだ。

 俺は倒れたまま、救急隊の名前や、移送先の病院の名前を注意深く聞き、あらかじめ調べてあった地理の知識と照らし合わせて、位置関係を把握した。

 想定の範囲だった。

 かつて、同じルートの移送で、同じような刑務官の急病があり、救急隊が呼ばれた例があったことを、医療刑務所の同室受刑者から聞いていた。俺はその詳細を聞き取り、そしてそれを完全に再現することをもくろんでいたのだ。

 救急車両は、想定通り高速道路を降りて、国道を走っていた。

 揺れる救急車両のなかは、機材が当たってうるさい音がしていた。

 すでに夕闇が迫り、山間の道は暗く闇に落ちていた。

 救急隊に診られるまえに、俺はわきの下に服の裾を丸め込んで血流を圧迫し、襟下に隠したビニールのなかで、息を浅くして呼吸して血中酸素濃度を下げていた。

 酸素吸入のフェイスマスクがかけられるのを確認して、薄明かりのなかで、俺は体を起こした。

 今度は塩素の吸入を気にする必要はなかった。

 横にいた救命士の顔に、予備として用意したパックを押し当てた。その救命士の反応は見もしなかった。

 すぐに同乗していた警官が俺に襲い掛かってきたが、それは思うつぼだった。俺はすでに塩素の充満した俺のほうへ刑務官を引きずり込み、その顔の近くにパックを持ってくるだけでよかった。俺は安全なフェイスマスクのなかでゆっくり呼吸しながら、警官の苦悶の顔を見ることができた。俺の皮膚も塩素で侵されていたが、それには頓着しなかった。

 刑務官は喉を抑えてのたうち回ったが、それを意に介さず、俺は酸素流量計につながった裸のボンベをつかんだ。

 医療用酸素、そしてもうひとつ、の緑色のボンベ。

 炭酸ガスボンベの流量計への接続を切り、そしてコックを解放した。

 二酸化炭素ガスは気化熱を奪って白くガス化し、一瞬でその場を埋めた。

 救急車両の内部は換気設備があるが、ダクトは天井部にある。比重の重い二酸化炭素は下部から充満し、空気を押し出してゆく。

 まだもがいていた警官の動きがほとんど瞬時に止まる。

 大気中二一パーセントある酸素濃度が、一〇パーセントあまりに低下すると、めまいや失神を引き起こす。八パーセント以下では数秒から瞬時に昏倒し、意識を失う。

 異変を察知した運転手が車両を停車させるのが判る。

「どうした・・・」

 運転席側のセパレータを開けて、中を覗き込んだ救命隊員は、そして二秒で意識を失った。

 低酸素は窒息とは違う。ほぼ一瞬で脳の酸素欠乏を引き起こす。肺で酸素が取り込めなくなるというだけではない。肺で血液へ酸素を取り込んでいたガス交換が、逆に濃度の低い空気のほうへ血液から酸素が奪われるのだ。

 ここにいる者たちは数分を待たずにみな死ぬ。

 横の窓から、後続のパトカーのヘッドライトの明かりが差すのが見える。

 俺は、運転席側のフロントウィンドウに現れた警官に、入ってこいと手ぶりを示す。

 車両の後ろに回った警官が、ハッチドアを開いて中を見たとき、俺は叫んだ。

「おい! 大丈夫か!」俺はそう言いながら、倒れた警官を抱え上げていた。

「手伝ってくれ! 早く!」手招きをして、俺は害意がないことを示すために両手を挙げた。

 警官は逡巡したが、倒れ込んでいる二人のようすを見て中へ入ってきた。

 ドアが開けられたために、濃度は下がったが、車室の奥はまだ十分な濃度があった。

 彼が奥へと足を進めるそれに合わせて、俺はバルブの開度を広げていた。

 炭酸ガスは無臭だ。同僚警官のもとへしゃがもうとして、そのまま崩れるように失神した警官を見て、俺はほくそ笑んだ。警官の腰から尿が流れ出す。失禁しているのだ。

 あとは、こいつらの体から手錠の鍵を見つけるだけだ。

 うまくいくかは賭けだった。だが俺はそれに勝った。

 達成感と、優越感が俺を甘美な愉悦で満たしていた。

 あと少し。

 そこに届くだろう。

 こんな細い道はふだん通る車もない。停車した車のライトが照らすだけの森に囲まれた漆黒の場所。

 じめじめと湿気がこもり、夜に近い場所。死が満ちている。

 山をひとつ超えれば住宅街に出られるはずだ。

 ここから近い名古屋にも、過去に俺の用意した拠点がある。

 俺はもう一度、自分を壊せる場所に向かうため、そこから歩き出した。

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