第3章 知能のアルゴリズム

 神脳戦、第二局―――

 その朝、坂田源次郎は、初日とよく似た濃い茄子紺の着物姿で現れた。このようなハレの場に喪服に近い濃い色の着物、羽織も羽織らない姿は、和装の最低限のマナーを逸脱しているのだと白井が言っていた。

 初日と同じように、坂田が北美川涼音のブラックスーツを従えて、センターホールを横切るさまを、私は二階のせり出しから見下ろした。

 それはまるで初日のできごとを巻き戻して再生したかのようだった。

 同じように、同じ会場である最上階の料理屋の席に坂田は正座し、同じように白いロボットアームと対座し、そして対局が開始された。

 そして、先手AIビーナの初手。

 先手3八金―――。

 メディアブースがどよめく。

 そのあと、初日と同じというわけではなかった。続く後手坂田の初手も含め、初日とは違っていたが、同じ空気、同じどよめきで満たされていた。

 初日と同じように、ばらばらに見える盤面が展開されてゆく。

 初日と大きく違っていたのは、差される手の意図や、その後の趨勢を話し合う多くの周りの声がなくなっていたことだ。大盤解説では解説番が言葉を探しながらしゃべってはいたが、そのほかの誰もが黙っていた。

 その胸に忍び込むのは、初日に感じたあの冷たいものだ。

 予定通りのことが予定通りに起こるときの虚無。期待や、情とかそういったものを薙ぎ消してしまう沈降感。

 そうして、その沈んだ空気のまま、坂田の圧勝で第二局も終わった。

 一五時三〇分。初日を超えるわずか九二手だった。


 私のなかにある違和感は増すばかりだった。

 その後、初日と同じに橘は記者会見し、そうして同じに、なにも解らないと答えた。

 ビーナの不良バグの可能性を指摘した記者がいた。過去の対局の例でも、飛車角の『成らず』にうまく対応できないというソフト不具合が事前に発覚し、それを突いて棋士が先勝したことがあるのだ。しかし、橘はそれを否定した。

 私は初日と同じように坂田に詰め寄ろうとして失敗し、橘に再度質問を浴びせようとして、またしても踏みとどまった。橘の懊悩がさらに深まっていたためだった。

 私は三日前の初日のあと、坂田についてさらに調べていた。

 坂田は、勝つことに異常にこだわる男だった。いまでこそ、生活の一端も垣間見せない隠遁者だが、かつてはその姿をオープンにしていた時期がある。天才と、超人と呼ばれながら、自他ともに許す将棋界の頂点に君臨する者でありながら、なお寝食を惜しみ、その生活、人生の全てをかけて将棋の研究に没頭する毎日を送っていたという。

 テレビや雑誌の古い記録を手繰りながら感じるものは、その歪さ、不気味さ、常軌を逸した、妄執ともいうべき勝つことへの執着。

 そうまでしなければならない戦いに、なにを求めて。


 その夜、私はどうしても違和感の気が晴れぬまま、行動を決意した。

「あの、なにしようっていうんスか? もう二〇時過ぎてますし帰りたいんスよねぇ」

 私と白井は会場ホテルの客室廊下の薄明りの下に立っていた。

 第二局の喧噪はとうに去り、投宿している関係者たちの会食なども散会しはじめる頃合いだった。

「あなただって気になるでしょ、坂田の謎」

「いや、だからってどうするんスか? こんな廊下の隅の暗いとこで、かがんで頭を寄せ合って、まるで悪だくみしてるようにしか・・・」

「ここの階にビーナが置いてあるんでしょ」

 この『神脳戦』の開始前、ビーナは坂田に貸与されていた。そのビーナは複製されたもので、スタンドアロンマシンにインストールされたものだ。坂田から返却されたその後、公正を保つため、東神大学には返送されず、中立的な場所としてこのホテルの一室に保管されているのだ。

「対局が始まったいま、坂田はもちろん、橘もこのビーナのコピーには近づくことは許されない。そうよね。でも中立的な立場の誰かなら? 例えば海外の雑誌記者で、専任取材をスポンサー企業から許されている私とか」

 私の掲げた右手には、許可者パスと、ルームキーがぶら下がっている。

「冗談じゃないっスよ。そりゃムチャっス」白井の声は小さい。

「坂田の勝ち方は普通じゃない。不正の可能性があるって言ったら、スポンサー側から特別に調査許可が下りたのよ」ふんと鼻で笑った。

「嘘つけえ。それ撮影許可パスじゃないっスか。調査なんか、この短時間で許可されるわけないでしょ。嘘ついて機械触るつもりなんでしょ。起動するだけでもヤバいのに、ログとか調べる気でしょ。ダメですよ」

「いいから行くのよ」白井を無理やり追い立てた。尻を蹴りこそしなかったが。

「ドロンジョかよ」

「誰?」

 廊下の先、宿泊者のためのビジネスブースとして、ネットワーク設備と机だけを設置した三畳ほどの広さの個室が用意されていた。その一室のまえに、少年が立っていた。

「え、彼もっスか?」それはさきほどの神脳戦のあいだ、橘とともにビーナの分析をしていた学生のひとりだ。

「取材のための大学側の公正立会人よ」

「あ、あの、こんな時間でいいんですか?」学生はうつむき加減におずおずとしゃべった。縁の太いロイド眼鏡が橘によく似ている。

 にっこり笑顔だけを返して、ドアを開ける。

 狭い部屋に、これまで何度か見たAIビーナをインストールしたワークステーションの銀色の筐体が収まっていた。

「あの、撮影って、これも研究室にあるやつといっしょですよ。見たって違いはないんです」彼の疑問も無理はない。

 白井がなにも知らせてないことを咎める目つきでにらんでいる。

 構わずに、青いクロスシートのオフィスチェアにどっかり座って、学生のほうへ手のひらを差し出した。

「キーを貸して」

 汎用マシンにはハードキーが付属しており、キーがないと起動はできない。

「え、で、ダメですよ。起動はダメです」慌ててポケットを隠す。持っていることを明かすも同然だ。

「ドアを閉めて」後ろの白井に命じる。

 ドアが閉じられると、狭い部屋にそれぞれが立っている場所を動けないほどに密集した状態になる。

「ダメですよ、ダメですよ」

 私は、彼が落ち着くのをちょっと待ってから告げた。

「負けてもいいの?」

「え」

「今日の対局見たでしょ。次はひっくり返せると思う? 仮にも科学者の端くれだったら、状況の類似性から予測される未来はどれ?」

「いや、でも・・・」考える顔になった。

「このまま三タテで負けたら、橘センセイのビーナはどんな評価を受けると思うの」

「だけど、不正はダメですよ。対戦自体がキャンセルされてしまいますよ。それこそ評判以前の問題です。不正ってなったら・・・」

「坂田が不正してたらどう」

 学生は息を吞んだ。

「坂田が正常な将棋をしていると思う? あれが公正な将棋だとはとても思えない。なにかが隠されている。そう思わないの? それが明らかになれば、この対局がキャンセルされたって橘は構わないはずよ」

 学生の目が泳ぐ。

「少なくとも橘は正しい科学者よ。不正なことはなにもない。真摯な研究者だわ。それを裏切られていたら、どうするの?」

「いや、しかし」この学生の姿はこれまで研究室ほかで何度も見てきた。明らかな橘の信奉者、いや信者だ。

「もういちど訊くわ。科学的に、今日の結果から予測される次の対局の結果はどう。彼を助けられるとしたら、いましかない。この五分間を見送るか、否か。さあ、どうする」

 一分ほど彼は黙った。そしてゆっくりとポケットから鍵を取り出した。

「五分間、知らなかったことにして、トイレに行ってていいわ」

「いいえ、ここにいます」

 私は再び微笑みを返してあげて、キーをマシンに差し込んだ。

 ライト機能のついたキーボードのキーが青く光を縁どらせて浮き上がる。キーボードキーを叩いてパスワードを入力する。

「なんで、パスワードを・・・」白井が唸るような声を出す。

「何日研究所に出入りしたと思ってんのよ。これは研究所のやつのデッドコピーなんでしょ」

「パスワード変えてねぇのかよ」個人研究者など理系の連中の多くが驚くほどセキュリティに無頓着だ。ひどい簡単なパスワードを平気で使いまわす。

「ああ、もう」私の指先で開かれてゆくフォルダの列を見ながら、白井が頭を振る。

「ついていけませんよ。あなたには」白井はドアにもたれてぐうと唸った。

 学生がぐっと顔を突き出した。

「おかしいですね」

 フォルダをいくつも開いたが、ログらしいファイルが見当たらないのだ。

「ビーナの操作ログはこのフォルダ下にあるはずです」

 そのフォルダは空だった。

 学生は身を乗り出してキーボードに触れると、検索コマンドを打ち込んだ。

「ないですね。もしかして消されているのかも」

「ログを消したってこと」

 それは坂田がなにかを隠そうとしたということで、重要なサインだ。

「任せてください」学生はもういちどキーボードに触れると、いくつかのコマンドを打ち込んだ。

「ミス削除はよくやってしまうことなんで、サルベージツールがあるんです」

 画面に出力された大量のパスリストをグレップして、ログフォルダ下のファイルを抽出し、再生させてゆく。

「ああ、ダメです」

 再生させたファイルはすべて文字化けしていた。

「記憶域をコンデンスして、初期化した形跡があります」

「さすが坂田っていう感じスねぇ。抜かりがない」

 三人はため息を吐く。

 白井がうなだれる姿が、ディスプレイの黒背景に映って見えた。

「ダメってことだねぇ」

「そうですね」

 坂田ほど頭の回る男が不正をしたとするならば、痕跡など残すはずもない。予測の深さ、準備の周到さでは病的と思える男が、なにかを残すことなどありえない。それは想定できることだった。

「インデックスは一部、残ってるんですけどねぇ」

「インデックス?」

「データ本体の記憶域とインデックスエリアの記憶域は分けてあるんですよ。データは初期化されましたが、インデックスはサルベージできる部分がある。でも肝心のデータはまったく・・・」

「ああ、そうね」それは、さきほど画面に表示されていた膨大な数のリストのことだろう。一覧があっても中身がなくてはどうしようもない。

 

 私はマウスをつかんで、彼がサルベージしたファイルリストをクリックした。もしかするとそれは・・・。

 その瞬間、勢いよくドアが開け放たれた。

 全員が振り返った先に、黒い女が立っていた。

「なにをしているの、あなたたち」鈴の音が鳴った。

 ドアの勢いで舞う風に、長い黒髪がメデューサの蛇のように蠢いた。廊下の明かりを背景にシルエットになった姿のなかで、ディスプレイの明かりを映しこんだ大きな黒目だけが光って見えた。

「なにを調べているの?」

 私は、北美川涼音のその目を正面から見返した。

「データは消されていたわ」

「不正はかまわないわ。でも不実は許さない」黒い影が応えた。

「不正? 不正はしていないわ。事実を調べたいだけ。あなただって、ここにくるのは許されてないはずよ。不正ではないの?」

「出てきて」彼女は廊下の陰にすいと身を引いた。

 マウスを捨て置いて、席を立って廊下に出た。

 あっと、声が出た。そこに橘と、あと二人の男女が立っていた。

「困るよ、高坂さん。こんなことは」橘は、対戦のときに着ていたスーツ姿のまま、この一二時間あまり、休んだ様子もない疲れ切った顔色だった。

「すみません!」私がしゃべるより早く、学生が進み出て頭を下げた。

 なにか言い募ろうとする彼を、北美川が制した。

「関係者同席ならば、私たちにもこの部屋にくることは可能よ。あなた、あなたはここ数日、坂田の生活のことを根掘り葉掘り聞きまわっていたそうね。そして、こんなところにまで、それがどういうことなのか分かっているの」彼女は私の顔を、今度こそ三白眼で睨め降ろした。

 私はかつて、研究室で彼女となんども対峙したときのことを思い出した。研究の見解の相違、データの解釈の相違、フィールドワークの意見の違い、たたかわせたその議論のなかで彼女は、悪意をもって主張を押し通そうとする小俗ではなく、偏りをもたない、真摯な論客だった。

「不正はしていない」私は言った。

「もう一度いうわ。不正はかまわない。不正をして坂田に勝ったとしても、坂田の心を傷つけられない。彼に勝ったことだけの虚栄が欲しいならあげるわ。坂田はそれを必要としない」

「そんなものは、私たちも求めては・・・」

「だけど、不実は許さない」こちらの骨格に響くような強い声だった。覆いかぶさる影が廊下の明かりを消し去った。

「坂田が知られたくないと思っていることを、彼に隠れて報じようとするなら、どんな手段を使ってでも・・・」

「不正はあなたたちだ!」

 私たちの後ろから、白井の裏返った声がした。

 そこにいた全員が振り返った。白井はいつになくしっかりした態度で胸を張って前に出た。

「そのビーナのシステムを調べた結果、異常なことが分かりました」

 白井のその言葉に、橘が反応した。

「異常? ビーナのシステムに異常が?」

「いいえ、ビーナに異常はないっス。そうではなく、ログに現れていることに異常の、そして坂田名人の不正の証拠があります!」

 そう言って、白井は部屋に駆け込むと、ディスプレイ画面をこちらに向けた。そこには、ログファイルのインデックスが、その一覧が表示されている。

「見えますかこれが、これは二週間のあいだ、坂田名人がこのビーナを使って対戦を行っていたログっス。分かりますか、この膨大なログの数が。

 橘が息を吞むのが、そばにいても分かった。

 白井が気づいたそれに、私も気づいていた。それは数十万回もの対局を、ビーナを使って行ったということを示している。二週間という時間のなかで到底、人間にできる対局数ではない。

「つまり坂田名人も使ということか」橘がつぶやいた。

 人間にできないということは、つまり人間以外が行ったということだ。坂田はもともと、AI技術も研究のために重用してきた。自らプログラミングを行うほど技術的に精通しているのだ。つまり坂田は、自分が持つ別なAIプログラムをビーナに用い、AI同士の対局をさせていたということしかありえない。

 AI、いわゆる人工知能をSFに登場するロボットのような、人間に近い知能と誤解する者は少なくないが、実際には人間の知性にはまだまだはるかに届いていない。いまのAIは例えていうと、膨大な経験知識をもつ赤ん坊のようなものだ。1+1が2であることを、AIは正しく回答することができるが、それは教えられた数学の論理を理解して、足し算をして答えたわけではなく、1+1という問題の答えが2であるということをからに過ぎない。AIは理論を教えられて理解する論理知能まではまだ持っていないのだ。

 そして、与えられたこと以外を知り得ないプログラムである以上、学習し損なった知識や解釈の希薄なところがどうしても残るのだ。人間が相手とする場合なら、相手の弱みを何回かの対局だけで明らかにはできない。しかしソフトなら、自動的に数十万回の対局を繰り返すことができるだろう。坂田は、相手AIのをさせるため、そのために数千、数万回の対局を繰り返すAIを作ったに違いなかった。

 橘のAIは、将棋のルール以外のことで異変に気づくことも、扱う人間の別な意図を汲むこともできはしない。

「ビーナの弱点を学習するAIを・・・作ったってことですか? 坂田名人が?」

 学生が橘に詰め寄った。橘といっしょにいた関係者とみられるほかの二人はなんのことか解らず、両者を見比べるばかりだ。

「いや、しかし、それは不正ではない」橘は顔に手を当てながら応えた。

「AIを使おうが、なにを使おうが、二週間になにを行おうとも制限があるわけじゃない。対局自体は坂田名人自身が行っているんだ。不正とは言えない。たとえ、メモにそれを書きこんで対局に臨んだとしてもだ」

「そんなことが知りたいんじゃない!」私は声を荒らげた。全員の視線が私に移る。

 私はゆっくりと息を吐いた。

 不正かそうでないか、手段はなんなのか、そんなことが知りたかったわけではない。初日から苛まれ続けてきたこの違和感は、そういうことじゃない。

「北美川、あなたは、不正はかまわないと言った。不実は許さないと。じゃあ、なんのために戦っているの? 初日の対局以来、テレビ報道やネットサイトじゃ、名人の勝利を観た多くの人たちが、人間がAIより優秀だってことを証明したと喜んでいるって言ってる。でもその裏で、AIを使ってAIに勝って意味があるの? それは不実ではないって言うの? そうしてまで勝つことに、坂田名人にとってどんな意味があるの?」

「それでも勝てればいいのです」

 暗闇のなかから声がした。それは耳の奥に差し込むような高く、鋭い声だった。

 振り返る先の廊下の明かりのなかに、黒洞がぽっかりと開いていた。

 光のなかへ進んで、着物姿が形を成すと、蓬髪の下から大きな目がこちらを睨みつけた。

 坂田源次郎の声を聴いたのは、それが初めてだった。

「名人、ここに出られては・・・」北美川涼音の言葉を、坂田はその手で制した。

「涼音の言葉は私が訂正しましょう」

 進み出てきた彼の肩は、思っていた以上に小さかった。ただでさえ、病人のような異様な雰囲気をもっていることに加え。ひとならざるものと誰もが言うその世評は、見るものに潜在的な畏怖を与えずにおかない。だが、実際に近づくその体躯はあまりにも華奢で、その虚ろな目は神経的な弱さを感じさせるものだった。

「不正も許しません。どんな形であれ、私は勝つことを望みます。私はどのような手段をもってしても勝たねばならないし、たとえ不正な手段でも敗れることは許容しません」

 その言葉は、私のなかの苛立ちをそれまでになく強くした。

「なんで、そうまでして・・・」私はふたたび声を荒らげようとした。

「私は特別な人間です」坂田は静かにそういった。

「いや、特に優秀だとかそういう意味ではなくて。あなたたちを健常者とするなら、私は特別な病をもつ者だということです」

「どういう・・・、それは病気ってことなのですか」私は尋ねた。

「あなたが言うように、私は勝たねばならない。なにがなんでも。そう、勝つことに異常に執着する者です。私は優越欲求のモンスターなのです」

 それは数日前、私が橘に言った言葉と同じだった。

「橘先生の本や研究は多数拝見しました。ですが、その本能にも、背が高いひとと低いひとがいるのと同様に、個人差があるものと私は考えています」

「なにを・・・、おっしゃりたいのですか」

「私はほかの誰よりも、その本能が突出して高い、特別な人間だと言っているのです。そのために長い間苦しんできた」

 そんなことがほんとうにあるだろうか。誰よりも突出して、病的に勝利を願わずにいられない人間がいるのだとしたら。

 優越欲求を「優秀さを求める」「向上心」と表するのは、それは適した表現ではない。ほとんどの競技や勝負は、ひとりの勝者とそれ以外のすべての敗者で成り立っている。米国の心理学実験では、勝者と敗者のあいだで、勝者の得る幸福度と、敗者の得る不幸度の総量は等しくないという結果が示されている。不幸の量が遥かに大きいのだ。「優れたい」と願う向上心よりも、その裏側の「劣っている」と思われたくない意識の方が実際にははるかに深い。「優越感」は甘露だが、「劣等感」はそれの単なる裏がえし以上の厳しい辛酸なのだ。

 だとすれば、突出した優越欲求を抱くものは、すべての勝者であり続けなければならない。さもなければ常に、他の誰よりも強い苦痛に苛まれ続けることになるだろう。

「そんな、そんなことは・・・」

 声を高めようとした私の肩を橘がつかんだ。

 振り返った私の後ろで、橘が意を決した面持ちで唇を噛んでいた。

「坂田名人、あなたがどのような方であれ、彼女がどう言おうと、不正ではないし、対局はこれまでどおり進めてください」

「で、でも」

「AIを使って、ビーナの弱点となる棋譜をいくつか手にすることは不可能ではないだろう。ビーナにも学習の穴はいくつかあるだろう。だからいって、ビーナに全勝するなんてことはありえない」

「あ・・・」私の声が消える。

 ある盤面をひとつの弱点としても、無限に近い棋譜パターンから、そこへ確実に誘導するなど不可能だ。何万とある手筋の可能性のなかで、思い通りに相手に打たせるよう誘導するなど、できるわけがない。そんな不可能を行っているのが超人坂田なのだとしたら。

「先生」学生が、やはり苦しそうな顔で橘の渋面を見上げている。

 私にも分かっていた。橘は切羽詰まっているだろう。第三局を負ければ敗北だが、坂田がビーナの弱点をすでに学習し、対策することを可能にしているのだとすれば、いまさらわずかな調整を行っても効果は期待できない。AIのロジックそのものを根本から違うものにするしかないが、それは許されない。

 そんな橘に向かって、坂田は言い放った。

「第三局、弱点を利用する戦術は使用しないことにしましょう」

 そこにいる全員の視線が再び揃う。

「なにを・・・」

「AIを使った解析は効果的でしたが、あなたたちが不正かどうかで悩まれるというのであれば、それをやめてもいいです」

「やめる・・・」白井の声がまた裏返る。

 使う、使わないと言っても、それは超人坂田の頭のなかでの出来事だ。誰にもそれを検証はできない。だが、あえてそれをここで言い放つとするなら重大な意味がある。坂田が嘘を吐かねばならない理由などないのだ。

 坂田はくるりと背を向け、肩をゆすると、袖先から紙束を持った手を出した。

「それでも私に勝てるというなら、試してみるといいでしょう」

 そのまま滑るように去ってゆく黒い影に、そこにいる誰ひとり、押しとどめる言葉を持たないままだった。


 三日後、第三局―――。

 坂田はそれまでとは明らかに違っていた。

 序盤から定跡にそって守りを固めるオーソドックスな手順にて進めてゆき、中盤にかかると何度も長考をする姿が見受けられた。

 頻繁に紙束を取り出しては書き込みを行い、砂糖を多くしたコーヒーを何度も口にした。

 メディアブースや、大盤解説の周囲でもその変容は驚きをもって受け取られ、それについての評論があちこちで交わされ、その場の熱量が次第に上がっていった。

 解説者たちが予想する棋譜の流れに沿って、坂田とAIの手順が進むことがしばしば現れるようになり、会場の者たちが身を乗り出して見守る姿が目につくようになっていた。

 どよめきと、歓声が上がる回数が目に見えて増えていた。この戦いが、人間のものに戻ってきたような安ど感が、誰しもの胸の底に湧いてきつつあったのだ。

 中盤以降、趨勢を表す数値レートが、坂田優位とAI優位で均衡し、悪手と思える坂田の手でレートが大きくAI側に傾いたときには、会場全体に、これまでにない失意のどよめきが上がった。画面には、これまで見せることのなかった坂田の苦悶の表情が映し出され、せわしなく指先で着物の袖先を揉むようすが、その頭脳のなかの激しい葛藤を表していた。

 大盤解説の声が高くなっていた。こうすべきだ、こうあってほしい、という解説者の説明や、ああしろ、こうしろと話し合う観客たちの声が同じ熱を持って坂田に向けて放たれていた。

 これまでにない長考の末、坂田が妙手でこれを挽回すると、歓声が高らかに上がり、大盤解説者が、感嘆の叫びをあげんばかりに手を振り上げていた。

 坂田がその顔を紅潮させ、額に汗し、食い入るように盤面を凝視しながら必死に有効手を探す姿は誰の目にも、神ではなく、人間坂田源次郎の姿にほかならなかった。

 そして終盤、わずかな優位をついに奪った坂田は、時間切れ一分将棋のさなかを、指先を激しく震わせ、すべてを出し切ったマラソンランナーのようにぼろぼろになりながら、ビーナを投了に追い込んでいた。

 投了のその瞬間、盤の横に倒れこむようにうつぶせた坂田の姿を見て、北美川涼音がすさまじい勢いで駆けだすのを、私はメディアブースで見送った。


 そののちの騒ぎはもの凄いものだった。メディア関係者たちの顔も紅潮していた。

 なんらの小細工なく、正攻法とも思える戦いでAIビーナを退けて見せたことは明らかだった。私も、そして橘も瞠目せざるをえなかった。

 この時代の最先端のAIがよもや敗れるとは、しかも三連敗で惨敗するなど、誰が想像しただろうか。そのニュースはおそらく世界中で、一般のみならず多くの科学者にとって、大きなニュースとなって伝えられることだろう。超人坂田はまさに、人間を超えた能力を示したことは疑いがないのだ。

 橘に落胆の表情はなかった。三日前と同じく、なにか決意をあらわにした厳しさを滲ませ、口を一文字に結んだまま、微動だにしなかった。

 そうした橘を、これまでと同じく、多くの報道関係者たちが囲もうとしていた。

 そのとき、メディアブースの入り口にどよめきが起こった。

 多くの者が振り向いた先に、坂田と北美川の二人が立っていた。

 初日に着ていたものと同じ紺藍の着物しだったが、羽織を肩からかけていた。

 それまで見た坂田の、痩せてはいたが毅然とした立ち姿は変わり果て、明らかに憔悴した様子で肩が大きく落ちていた。北美川涼音がその手を取り、背を支えていた。

 周囲の多くが、取材のマイクを向けるべきかと迷うさなか、橘が駆けるように進み出て、坂田の前に立った。

「ありがとうございました。名人」右手を差し出した。

 坂田はそれを握り返し、その瞬間に、多くのカメラフラッシュがその二人の姿を射照らした。

「私はあいさつにきたわけではありません」カメラの音で坂田の声は消された。

「お静かに願います」北美川の通る声で、音がやむ。

「私はあなたに話しておかねばならないことがあります。認知心理学者としてのあなた、科学者としてのあなたに」その声は静かで、大きくはないのに、メディアブースの高い天井に響いて、部屋のなかにあまねく届いていた。

「私に?」

「私は病をもっています。昨日の話とはちがう。私のもつ病は『前向性健忘障害』と呼ばれるものです」

「健忘障害?」

「私はこの病のため、六年まえからほとんど人前には出られなくなりました。涼音がいなければ日常成生活もままならず、将棋を続けることもできなかった。私は・・・」そこで坂田はうつむいて膝を折った。

 慌てた北美川がその背を支え、近くの椅子にいざなって座らせた。心身ともに疲れ切っていると見えた。

 彼女が代わって言葉を継いだ。

「実は、坂田名人は六年前に遭われた事故が原因で、数時間まえまでの記憶しか保持することができません」

「え・・・」

 その言葉を、その場の誰もが理解できなかった。

「坂田は、数時間経つと、それ以前の記憶をすぐに失ってしまいます。明瞭なのは六年ほど前までの記憶だけです」

 そして、北美川涼音は説明を始めた。

 前向性健忘障害は、記憶障害の一種であるという。

 物語によく登場する記憶喪失は、過去のある期間の記憶を失うことを指すものだが、これは後向性健忘障害と呼ばれる。これに対し、前向性健忘障害とは、新しい記憶を保持することができず、まるで重度の老人性痴呆症や認知症患者のように、少し前のことを完全に忘れていってしまう障害である。

 認知症と違うのは、思考力、判断力などの認知機能が損なわれるのでなく、記憶だけが保てないことだ。そして記憶が失われるのでなく、あらたに獲得できない。したがって、発症するまえまでの記憶はそのまま残り続けるのだ。

 坂田の場合、六年まえにこれを発症し、六年より以前の記憶は明瞭に残るが、それ以降の記憶がない。そして最近の数時間ほどしかあらたな記憶を維持できない。

「坂田は、最初のころは、数日の記憶が維持できたのですが、次第にそれが難しくなり、この数年では四時間ほどしか記憶を保てません。坂田はそれまでの記憶をメモに残し、毎朝起床すると、それをすべて読み直し、自分がしてきたこと、そしてこれからすべきことを完全に理解します。彼の携帯電話には、過去六年間の膨大なメモが保存されています。そして坂田は、頻繁にメモを書きます。数時間後の自分にむけてのメモを書くのです」

 その突然の、そして壮絶な告白に、その場の誰もが呆然とし、言葉を失っていた。

 そんなことが可能なのか?

 坂田ならでき得るのか、そういう思いが誰の頭にも浮かんでいただろう。朝にそれまでの記録をすべて読み直し、記憶を取り返したとしても、それも数時間で失われる。坂田は数時間ごとに、してきたこと、そしてその日にすべきことをメモに記し、数時間後の自分に向かって手渡す。そして坂田は、そのメモのわずかな情報で、自分がそのときすべきことを完全に理解する。

 私も声を発せないでいた。

 そんなことはできるはずがない。それでうまく生きていけるわけがない。

 坂田は、あたかも盤面をすべて読み切っている棋士のごとくに、自分や、自分に対する周囲の行動を予測し、それをメモに綴っているというのだろうか。そして驚くべきことに、六年もの間、周囲にそれを気づかれることなくほぼひとりで生活し、それだけでなく数々の対局を制してきたということになる。

 椅子にしなだれるように座ったままの坂田はなにも言わず、諦観をあらわすような静かな面持ちで、北美川を見ていた。

 沈黙したままの大勢の衆目のなか、緋色の絨毯の上に立つ黒羽の鳥のような北美川は、それとは違って苦しそうに眉根を寄せている。

 毎朝、棋戦で地方に寝泊まりするときも含めて、起床と同時に記憶を失っている坂田に、それまでの記憶を読ませているのは、おそらく彼女だ。でなければ、坂田ひとりでは到底それを実行はできまい。坂田はあらかじめ橘のAIに対抗するためのAIソフトまで準備していた。どれほど能力が高かろうとも、数時間しか記憶のない人間ひとりでそんなことができるはずがない。周囲が想像するより多くのことを、北美川が助けてきたことは間違いない。

 そうして、坂田が声を発した。

「私は、この病気によって、普通の人間がおこなうことが、ほとんどできなくなりました。日常世界のことを見聞きしても忘れてしまうので意味がなく、他人との付き合いもできず、もちろん小説を読んだり、ドラマを観たりするような娯楽も、著作や、解説のような仕事の依頼もありましたが、不可能でした。私は人間として生きてゆくすべを失いました」

 坂田はゆっくりと、上げていた顔をうつむけた。

「しかしただひとつ、私にできることが、それが将棋でした。たとえ数時間の記憶しかなくとも、盤面のうえの駒さえ見えれば、私は戦える。そして勝てる。それだけが可能でした。生きてゆくには、それしかできなかった。私に足りない記憶は、涼音がおぎなってくれていたので」

 その言葉に、北美川が両頬を手で覆って下を向いた。

 その凄絶な、その告白のあいだ、場の誰もが驚愕し、立ちすくむのみだった。

 とくに橘は、坂田の病状よりもなお、それが意味する別なことに戦慄していた。

「ありえないことだ。棋士は常に勉強し、対局を重ね、棋力を上げてゆくためにたゆまない努力を積んでいるものだ。重要な対局前には対戦相手の棋譜を研究し、対策するのがあたりまえだ。しかし、坂田名人にはそれが一切できないということになる。であるのに、どうして、どうやってあの超人的な強さを、あのAIをしのぐ思考能力を顕せるというんですか?」

 私もそれに驚いていた。私にもわかる。それがいかにありえないことなのか。

 坂田の知能は異常だ。

 人間の知能の高さ、頭の良さとはどういう仕組みなのか。

 野生動物の知能と、私たちの知能とを隔てる違いとはなにか。認知心理学者である橘は、それをこれまで研究してきたはずだ。

 人類学者ケーラーの実験で、チンパンジーが高い場所にある果物を取るために、近くにある箱を移動させて利用するという行動が示されているが、その行動に到達するには何度も箱を見ながら気づくことなく、何度も諦め、何度も試し、かなりの時間を要してようやくたどり着く。人間はそれに難なく到達でき、そして、犬や猫ではまったく到達できない。

 私たちはその記憶、なにかを登ったり、物を移動させたりなどの数多くの「経験知」から、それに類似する「箱の移動」やそれに似た行動をとることにすぐたどり着くわけだが、人間のその能力は他を圧倒するものだ。

 私たちが思考するとき、その幼年期から見聞きし、感じ取り、学習して獲得した膨大な「経験知」のなかからつながりの強いもの、関連のありそうなものを検索し、そのなかから答えを見出す作業を繰り返している。認知心理学で意味認知や、意味記憶ネットワークといわれるものだ。

 われわれ人間のなかでも一般にといわれる者は、このネットワークを探る速度が早く、そして探す範囲が広いのだ。その結果、ほかの者より理解が早く、答えへの到達が早く、ふつうの者が思いつかないような突飛な発想ができたり、一見関連のないものごとにまで考えがおよび、それを結びつけて独創的な答えにたどり着いたりできる。

 犬や猫では意味記憶ネットワークは人間のように多くは記憶されず、関連をたどる検索がほとんどできない。チンパンジーでも人間のそれには遠くおよばない。

「坂田名人は、おそらく短期記憶、中期記憶能力を失う代わりに、常人をはるかにしのぐ知識ネットワークの検索能力を獲得していたとしか考えられない。そう、それは知能が高いと一般に言われる人間をはるかに超えるレベルのものだ」

 橘は頭を掻きながら、目線を左右に揺らして考え込んだ。

「そのとおりだ」椅子にもたれたままの坂田が応えた。

「六年前、A級棋士に達していた私は、すでに十分な将棋に関する知識と経験知を持っていました」

「そうか、そういうことか」橘の顔がエウレカを叫ぶ研究者のそれに変わっていた。

「先生? なに?」私はそれを訊かずにはいられなかった。

「普通の人間は、経験知や記憶のネットワークを常に新しくしながら、古いものを失いつつ生活している。しかし坂田名人の脳では増える記憶がない代わりに失うものがない。それはあたかもAIの深層学習ディープラーニングのように、その一定の知識記憶を延々と何度も学習し続けることに等しいことだ」

 私にはその詳しい仕組みは理解できない。だが、確かなことは、坂田の頭脳には、将棋の最高度の経験知が、そしてそれまでに生きてきた人生のあらゆる記憶と経験知が残されていた。それは失われることなく、六年にもわたって繰り返し反芻され、そして凝集された将棋に関するロジックが、ビーナをも凌駕しうる神のロジックが構築されていったのだ。

 そのとき、坂田が再び立ち上がった。

 周囲の者が駆け寄ろうとするのを坂田は制し、橘に向き直った。

「橘先生。あなたにお願いがある。あなたがいま開発している『クピディタス』と戦わせてもらえないだろうか」

 橘の顔には驚きはなかった。

「それをご存じで・・・」

「もちろん一局だけでいい。この棋戦の第四局ということでもいいです」

 私は周囲を見渡した。その話の意味が分かっていそうなのは、白井と学生たちだけだった。白井のそばに寄って、足を軽く蹴った。

「なんだって?」

「橘先生が開発している次世代のAIと戦いたいと言っているみたいっスよ。名前までは僕も知らなかったっスけど、もちろん、将棋用のAIじゃあないですよ。神戸にあるご存じ世界最高速のスパコン、『カルマ』を使った汎用AIだと聞いてますよ」

 坂田はよろめく足のまま、背を伸ばした。

「それはいまのAIをはるかに凌駕する、人間の知能の領域、神の論理を組み入れた新しい人工知能だというのでしょう?」

「神などと言ったことはありません」橘ははにかむように微笑んだ。

「私の一存でお答えできることではない。ですが、私自身は歓迎です」

 そういうと、坂田に歩み寄り、その手をもう一度握った。

 大きな歓声が上がった。カメラフラッシュが激しく焚かれ、一斉に動き出した報道関係者の足音で、メディアブースが小刻みに揺れていた。

 橘が快諾したことで、再局は決したも同然だろう。坂田の三連勝が世界的なニュースであるだけでなく、坂田の病気と、その能力の謎が開示され、メディア報道がそれを大々的に報じるだろう。世界最新最速のAIと人類最強の頭脳との対決を、メディア系のスポンサーがスルーするはずがない。

 そうして一ヶ月後の、異例の第四局の開催が決定されることとなった。

 私は、その戦いへの興味を抱きながらも同時に、なにかしらの不安、そして違和感を持ち続けていた。

 それは予感だったのか、そのあとの日本全体を揺るがすあの事件のことは、そのときは無論、想像もしていなかった。

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