第4話

「ただいま」


「あら、おかえり。今日は早いじゃない、ちょっと手伝ってほしいことあるんだけど」


「うぃ」


「また気のない返事して、後で下りてくるんだよ」


 入り口からカウンターを抜け、おれは二階へ続く自室へ向かう。


 月田とちんちくりんなトレードをした後、なんだか妙に彼女を意識してしまって、むず痒い居心地の悪さを感じ、そそくさと教室を飛び出してしまった。月田とろくな挨拶もせずに。


月田は「もういくの?」と訝しんでいた様子だったのだが、おれはふわふわと浮つくこの心持ちを、まるで風船が空へ逃げていかないよう手元へ留めておくように、自分と繋ぎとめておくだけで精いっぱいだった。


 制服を着替えようとしたら右半身がほとんど濡れていた。帰り道はきちんと傘をさしたと思っていたが、先ゆく思考に置いてかれ行動はおろそかになっていた。昔から、小難しいことを考え出すと、そればかりに気を取られてしまうタチだった。


 例えば中学生の頃、マイナスの符号が授業ではじめて登場したとき、マイナス同士が乗じられるとプラスになる説明にまるで納得できなかった。あるときは冷房と暖房の27℃で温度の違い方を感じる理由だったり、あるときは量子力学の二重スリット問題で提唱された量子の振る舞い(これは今も分かっていないのだけれど)についてだったり、いったん考え出すと答えが出るまで精神世界にのめり込んでしまう。そして母に怒鳴られるまでが現実世界に帰ってこれない。


 でも、今回はとくべつ頭をもたげる疑問もない——と思う。


「あんた、またぼけっとして!」


「うわっ」


「濡れた制服ずっと着てるんじゃないよ。でも珍しく下りてきたね、手伝いでもしてくれるの?」


 さっそく夢遊病さながら母のところまで来てしまっていたようだ。濡れた身体もそのままにして、気付いたときには少し寒気が走った。


「まあ、今日はやるよ」


「え! なんだあんた、本当に熱でもあるんじゃない」


「親孝行を病気のように」


 おれはバックヤードへさがって、積まれた衣類の山を見上げる。

 衣服、とりわけ洋服というものは、ありとあらゆる種類がありそうに見えて、実は世間一般の大半が同じ洋服を着ているのだ、とクリーニング屋に生まれたおれは思う。

 ファストファッションが台頭しているのだから、それは無理もない話なのだけれど、つまり人間の個性とは、身に付ける衣服で判別できにくい世の中になっているのだ。しかしそれは、一般化されつつある分野において“人と違うこと”を意図的(あるいは本能的)に出来る世の中にもなっているのである。


 月田はその点、どうだろうか。


クラスメイトと静かに溶けこむ傍ら、教室で鳥の絵を描き続けている。彼女の個性はいま、おれらが身にまとう制服に隠されていて、放課後の机の上のさらにA3サイズのノートブックが開く紙面に、一刻一刻しか、この世界に表れていないのか。そう思うと、彼女のもつ才能に、神秘的な世界の秘密を感じざるを得ない。そして月田の顔を思い浮かべると――待て!! なんでおれはまた、あいつのことを考えている!


 はっと我に返ると、仕分けされるための衣服を掴んでいて、どこかの学校の制服だった。女物である。急にいけないことをしている罪悪感が降って湧く。


「母よ、やっぱり今日は駄目だ!」


 掴んでいた制服を放り投げ、すれ違う母の驚くさまも気にしておられず、どたどたと階段をかけ上がった。なぜだ? 顔が熱っぽいのは。



― ☂ ―



 風邪だった。


 今朝、目が覚めると関節にじんわりと痛みを感じ、じわじわと諸症状があらわれた。頭が重いし、なにより自分の身体がほんわかしていた。食欲もないが食卓について、牛乳を飲みながら体温を測ると平熱をゆうに超えていた。


「あんた、昨日騒ぎながら部屋に戻ったけど、濡れたまま過ごしたでしょ」


「たぶん、そうかも」


「まったく! 今日は学校に病欠って連絡しとくから。変なこと考えてないで寝てなさいよ」


 そうした朝のやり取りをしてから、症状も重たくなってきた……


 おれの免疫細胞が戦っている。翼を広げた鳥たちが、槍をもったウィルスたちをついばんでいる。よーしがんばれ、そこだ! シャチはアザラシを三頭で狩る。狩りは個体を複数で囲むのが基本だからだ。いいぞ、一人ずつ潰していけ。囲まれたら駄目だ。おれの体内で飛び回れ! お、待て、なんだ? 人の姿をしているように見える。あれは……翼だ。翼の生えた人間……しかも女の子……見た顔だ……

 月田?!



「呼んだ?」


 覚醒。すっかり眠っていたのだ。


無意識の向こう側で声が聞こえた。天井には照明が光っている。

視線をおもむろに横へ滑らせる。我が高校の制服を身にまとった……月田だ! 月田がベッドサイドに椅子をつけて座していた。


「本当に月田!?」予想だにしていない場面展開ぶりに、慌てて半身を起こす。


「うん」


 たった今まで見ていた、あの謎のウィルスたちと戦う情景は明らかに夢だと分かる。しかし、これもさすがに夢かと思った。息をのむばかりで「なんでおれの部屋に」という言葉ものどに詰まる。


「寝ながら私を呼んだ」


「え?」


「呼んだよね?」


「いや、分からないが……」眠りから覚めてまだ数分とも経たないこの頭を、一刻も早く作動させて状況を整理しなければいけない。月田はこちらなどお構いなしに視線でおれを串刺しにしている。両手を椅子のへりにつけ、徐々に身を乗り出してきた。


「うそ、なんでもないの。ごめんなさい」


「え」唐突な謝罪にまた面食らう。


「風邪だったのに。驚かせた」


「まあ、驚いたのは確かなんだけど」


「今朝、先生が風邪って言ってた。そしたら今日生物の授業で、期末考査に使うプリントが配られたの。狭山君、生物の点数良いから早い方がいいかと思って」


 持ってきた、という言葉の代わりに月田は黙ってデスクに顔を向ける。机上には数枚の紙が置かれていた。


「そうだったのか」季節外れの風邪は、意外にも重たい状態だったようだ。覚えている限り、今朝からずっと喉が乾いたら起きるだけ、というような浅い眠りを続けていた。すっかり放課後になっていたようである。


 それでも、いち、男子高校生の部屋に同級生の女の子がいる理由を見つけられなかった。月田、意外と大胆なのか? と邪な推測はすぐに撤回された。


「狭山君のお母さんがあげてくれたの」


「え?」


「ちゃんと遠慮したのだけれど……」月田は不安を隠すように身をよじって、辺りを見回しながら言葉をこぼす。


 おれは頭を押さえた。「ああ……」


 我の強い母だ。それこそ月田の訪問を邪推したに違いない。冴えない息子を見舞う女子高生を放っておくわけがない。月田は抵抗もむなしく、強引に部屋へ連れてこられたに違いなかった。


「母が悪かった」


「ぜんぜん! お母さんすごく良い人だった」そう言って月田はほほ笑んだ。なんだか彼女の微笑を久しぶりに見た気がする。


 しかし、どうして、また顔が火照る。


「狭山君、さっきより具合悪そう」


「や、大丈夫だ、なんでもない」


 そうして、すり抜けるように、すっと月田の手が伸びてきた。おれのおでこへ手の平が触れると、シルクのような冷たさが体温を交換する。時間にしては一瞬だったけれど彼女の小さい手に撫でられたところは、指先がなぞった軌跡すら感じることができて、さっきにも増して熱を帯びたような気さえした。


「熱い、お母さん呼んでくる」


 手が離れていく。月田が階下へいく音を、おれは呆然と聞いているしかなかった。次に部屋の扉を開けたのは母だった。「お大事に、だってよ。凛ちゃんも来てくれたんだから、早く治しな」


 直前の、驚きの出来事をおれはページをめくるように思い出し、そうして、そういえば月田へお礼を言えなかった、とかけられていたシーツの感触を確かめながら後悔した。

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