第3話

― ☂ ―


 月田と初めて話した日の帰り、おれは書店に足を運んだ。この時間に自宅へいると店番をするはめになるので、時間潰しもかねていた。

 向かった書店は大通りに面した小さな店舗だが、老若男女問わない客層がちらほら目に入った。ビニールカバーに差し込んだ傘に気をつけながら、おれは店内をうろつく。


 しかしつい先ほどの月田は、いったいどうしたのだろうか。


 やはり、なにか機嫌を悪くさせる行動をしたのかもしれない。そう考えて、ほんの数十分前の記憶を掘り起こそうとするも、もうすでにおぼろげなものになっていた。こういうときに役の立たない頭だから、本当に困る。テストで良い点が取れても、クラスメイトの気持ちが分からない人間なんて駄目駄目な野郎だ。うすらとんかちのナメクジ野郎だ。いや、ナメクジは長期記憶も可能と聞いたことがあるから、おれはナメクジ以下で——


 と、菌類でも寄生できそうなくらい湿気た反省をしながら本棚を流し見していたとき、視界の端に入ったその書籍はおれのなにかを刺激させた。


『世界の美しいトリ』


 トリ。鳥か。


 棚から抜き取ったその書籍は、パステルカラーに近い蒼の羽毛を纏った鳥が虚空をみつめる表紙で飾られていた。カラー写真集のようだった。


 表紙から数ページ先を開いてみる。その鳥は見開きに鎮座していた。

 くちばしの先から、インクの桶に突っ込まれたのか? と馬鹿なイメージが想起されるくらい、その鳥は極彩色を身体全体に染め上げていた。腹は赤、目の周りは黄、羽は緑。なぜここまで、あらゆる色彩を操ることができるのか。不思議さが先行したけれども、いつの間にか目を奪われていた。タイトルに偽りはなかった。「綺麗だな……」


 はっと顔を上げる。無意識に感嘆がついて出ていた。

 周りを確認する。横には他校の制服を着た女子高生がいぶかしそうに視線をよこしていた。これは、ち、恥辱!


 冴えない男子高校生が近所に数店しかない書店で「綺麗だなあ」などとほくそ笑んでいる図は、ほぼ非常事態宣言ものである。

 とりあえず隣の彼女に、おれの顔が長期記憶されないうちにこの場を立ち去る必要があった。手にしていた本を閉じ書棚の隙間に戻そうと背表紙を押し込む寸前、「月田」と、また突飛な単語が頭に浮かんだ。


 月田はこの本を持っているだろうか。もし、これを贈呈すれば、今日崩してしまった機嫌を取り持つことはできるだろうか? 喜ぶ顔が目に——浮かばないけれど、まあいいか、まずは店内から脱出しよう。


 おれは戻しかけた『世界の美しいトリ』を抱えてレジに急いだ。


― ☂ ―


 翌日。昨日と変わらない雨模様だった。

 放課後まで雨は続き、今日も早々と教室は月田とおれだけ残された。昨日の今日で話しかけることも少なからず躊躇いを覚えたが、まずは様子を伺おうと思った。


「月田」


「ん」


「また勉強してるのか?」


「まあね」


 月田は昨日と同様、ノートへ向かったまま返事をした。声音からはとくべつ怒っている感じはしなかったことに、とりあえずほっと胸をなでおろして、間を置いて話題を探してみる。月田が座る正面の席に腰を落ち着けて、今回は勝手ながらノートを遠目に覗いてみた。昨日の続きを書いているようだった。キレンジャクだ。


「やっぱりうまいな」


 すっ、と紙面を滑らせる右手が止まった。硬直している。今度は返事がない。線が予想以上に伸びてしまったのか、慌てたように消しゴムを取り出して図面を修正した。


 なるほど。


 彼女の作業に触れないほうがいいということが、今さらだが分かった。それはそうだ、ずぶの素人に褒められることは、捉えようによっては屈辱かもしれない。


「悪い」


「なにが」今度は顔をあげてこちらを見つめる。きょとんとしたような表情をしていた。


「いや、邪魔してるし。昨日から素人の意見ばっかり言って失礼だった」


「……違う」か細く呟くと、また俯いてしまった。「そんなこと、ぜんぜん大丈夫。み、見るなら見ていい。ほんとに」


 しどろもどろに答える月田は取り繕うようにノートを差し出した。「ん」と伏し目がちにノートを押し付けてくる。やけに力んでいる。


 そろそろ潮時と思い、おれはおもむろにわきの鞄から書籍を取り出した。昨日購入したものだ。


「月田、ノートは大丈夫だ、ありがとう。それと詫びの品、みたいなものとして、よかったらこれいらないか?」


「あ」月田は目の前に出された『世界の美しいトリ』を見て言った。


「これ……持ってる」


 そして月田は鞄からまったく同じ表紙の本を取り出した。寸分違わぬ表紙が上下逆さまに互いへ向けられた。


 昨日たまたま購入したものが、このタイミングで出てくることに驚きを隠せなかった。毎日鞄にいれているのか? と、その疑問はすぐに解決した。


「狭山くんも読むかと思って、持ってきたの」


 二人してまったく同じ表紙の本を手渡そうとしている姿は、傍から見れば珍妙な光景に違いなかった。けれども、すでに月田が持っていた本を良い人ぶって提供しようとしている恥ずかしさや、彼女がおれを気にかけた行動をしていることなどがない交ぜになり、呆気にとられていた。


「お、おう。悪いな、じゃあこれはいらないな。また余計なお世話だった、ごめん」おれはわずかな理性を振り絞り、もう取り返しもつかないが自ら出した本を仕舞込もうとした。


「だめ」月田はそう告げると、もう片手でおれの本を掴んだ。「これは私がもらう、そしてこっちはあなたに」


 ぐい、と月田から渡される本に力が込められ、戸惑う暇もなくそれを受け取るしかなかった。おれたちはまったく同じ本を交換した。


 彼女の私物だった本は少しだけページの折り目がついているみたいで、愛着のようなものを感じる。

 月田を見れば両手で抱えるように本を持っていた。極彩色の表紙が、締め付ける細い腕の色白さを際立てた。


「ありがと」


 月田の微笑は、クラスメイトになって始めてのものだった。


「月田、同じものならわざわざ交換しなくても」


「駄目よ」月田は言い放つ。


「狭山くんは私にくれると言ったじゃない。それに同じものを狭山くんにあげるから、いいよね?」さっきの微笑はどこへやら、月田はいつもの凛とした雰囲気をさらに高めて、ほとんど断定するかのように言った。


 流し目でこちらを射抜くさまは、まるでこちらが難癖をつけているかのように思えてきたので、おれは「うん」と子犬のような返事をした。


 その間。月田は肌身から一度もその本を離すことはなかった。

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