第5話

 半ば強制的に月田が我が家の玄関を跨いだ翌日に、おれを蝕んだ季節外れの風邪はすっかり良くなった。そうして、何日かの放課後が過ぎ、夏の気配はあっという間に近づいて来た。

 受験生の体調など自然は気にしてくれない。母でさえ放っておいたのだから、この地球上でおれを気にしてくれたのは、唯一、月田だけだったかもしれない。


 と、そんな誇大妄想をしていることにおれは気付く。

 ふと雲間から差し込む陽射しが顔にほとばしり、眩しい。「妄想散らかすねえ」と、見えざる者に心中を見透かされているようで、羞恥心を揺さぶられた。

 ……なにが唯一だ! 自分を買いかぶりすぎている、とてもアホらしい。おれは高校までの道のりを足早に進む。

 しかし、季節が変わっていくことを感じた何日かの放課後というのは、病み上がりということもあって、おれは珍しく無駄な居残りもせず帰ったり、あるいは月田がいなくておれが教室にぽつねんとしていたりして、とにかく月田とあれから会話という会話をしていない。


 それだけはやはり、日課で読んでいた小説が突然空白のページになってしまったような、急な日常の物足りなさを感じてしまうのだった。



― ☂ ―



 商店街のアーケードを抜け、さらに大通りに面してくると、付近に通う高校生が多くなる。駅前を通ると制服をまとった同年代が一定の塊で降りてくる。おれと同じ制服の者もいれば、違う種類も二三ある。地方都市とぎりぎり呼べるだろうこの場所は、一八歳人口も多い街かもしれない。


 そんな群れの一員になって登校していると、隣から声をかけられた。沙村だった。


「おはす、狭山」


「おう」


「風邪は良くなったか」並んで歩く上背のある沙村は、顔を覗かせて聞いてきた。


「すっかりと」力のないグッドサインをおれはつくる。


「月田に会ったからか」


「がほっ」


 死角からフックを打ち込むような沙村の発言で、思わず咳き込んでしまった。なぜこいつがそのことを知っているのか。風の噂、もとい風邪の噂にしろ、学校内でありもしないことを騒ぎ立てられると月田に迷惑がかかる。それだけは避けないといけない。


「なんでお前がそのことを」おれは囁く。


「あ、本当に行ったのか」


「なんだと?!」不意な大声に周囲に訝しがられる。


「お前なあ、不純異性交遊は校則で禁止だぞ」そう言う沙村は、おもちゃを見つけた子どものような笑顔を向ける。


 起床してから一時間弱、まだ頭も回っていないかもしれない。おれはあっけなく嵌められたのだ。


「このことを知るのは?」


「無論、僕だけだよ狭山。そんな話、どこにも出ていないから安心しろ。ただし火のないところに煙は立たないが」


「……何が望みだ?」


「力を」


「ならばくれてやる」


 おれは沙村に向けて手をかざし、これ以上ない憎しみの念を送った。


「なんだか邪なスピリットを感じたが」


「気のせいだろう。茶番はいいのだけど、沙村、朝練はどうした?」


 会話も素振りものらくらした男だが、現在はボクシング部に所属する体育会系である。見た目は着痩せするタイプだが、上背と無駄のない体躯は柔軟な強さを醸し出し、ヒョウのように思わせる。


「中間考査で休みなんだ。まあ部活は無かったけど、海辺をひとっ走りしてきた」


 ……なんという男か。部活に通う連中は、こういう公式な休部をとてもありがたがると思っていた。が、その前提は沙村に通じない。常識を自ら外れていくこの男の原動力を、おれだけが知っている。


「お前、そういうときは勉強する方が学校の意図として正解だぞ」


「僕は狭山の命を救わないといけないんだ。きっとな。だから余す時間は、体力にすべて注がないといけない」


「はあ」


 沙村と話すと、最終的にこの台詞に行き着いてしまう。もう‟あのこと”は気にしなくていいのに、かれこれ5年以上こいつはこの調子だ。


 もうなんでもいいけどさ、と沙村に呆れていたら、学校までの一本道に入った少し先のところで気になるシルエットを発見した。自分に正直に――そう、彼女は月田だ。住宅の壁面を背にして、彼女は道の脇に佇んでいた。こちらが歩を進めるにつれ、表情もよく分かるようになる。


「狭山、あれ」この男も目ざとく見つけていた。


「うん、月田だな」


「なんか険しい顔してない?」


「確かに……」


 沙村の言うとおり、彼女は眉間に力が入っている表情だった。月田はいつもの冷静さが消え失せたように、肩にかけたスクール鞄を固く握りこんで神経質そうにうな垂れたり、そうかと思えば首を振ったり、聞こえもしないが何かを呟いているようにも見えた。


 そうして前を歩く彼女を観察していると、ぶんぶん首を振っている瞬間に、ぱちりと目が合った。

 はっとしたような表情の後、困ったようにすぐにまた顔を伏せた。


 驚いたのは、その状態から足早にこちらへ向かってくるではないか。スクール鞄をさらに握りこんで、前傾姿勢のまま肩を揺らす。デンプシーロールをしているかこの子は。

 学校から逆走する彼女を不審がる人もなく、月田はおれたちの目の前にやって来て、すぐさま顔をあげた。朝日のきらめきを宿す強い眼差しがおれを捕らえた。


「狭山くん」


「お、おう」


「おはよう、月田さん。いいデンプシーだね」沙村が割って入るように声をかけた。この男と同じ思考をしていたことを反省しないといけない。


「でん、ぷし?」月田はきょとんとして首を傾げる。


「沙村、黙れ。どうした月田?」


「あ、そう。あの、今日調理実習があるの、私、家政系選択したから。実はとても困ってる」


 おれの高校は今どき珍しく調理実習が課程にある。ただ全員というわけでなくて、同じクラスでも家政系を選択した者のみだから、月田はそれを言っているのだろう。


「なにが困るんだ?」


「とにかく困る」


 いつにも増して月田は頑な様子だった。表情にはさらに力が込められた。「今日の放課後、必ず、来て」それだけ告げると、月田はすぐに踵を返して学校へ向かった。


 とても真剣な申告であったと思う。


 いったい何なのか?! 行かなかったらどうなる? いや、もちろん今日も一人教室に居残る予定だったけれど、別に言われるまでもなくだが、こんなことがあった後、おれはどういう心持を準備しておけばいい?

 すでにやきもきしていることを隠せない。


「現在進行形で困ってるのは狭山だな」


 沙村の含み笑いをどついて、おれたちも月田の後を追うように登校を再開した。

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