第3話 夜は静かに過ごしましょう

 俺のヒタキって名前はご想像の通りヒタキって鳥から取った名前だ。


 翁と鳥を合わせた漢字の「ヒタキ」が、俺の公的な書類には記されている。

 普段、学校のテストなんかだと画数多くて面倒いやいや難しいから平仮名かカタカナでヒタキ表記するが。そこは学校の先生達も認めてくれていた。初見で読めない先生もいたからかもしれない。だが外部模試の時はきちんと漢字で書く。

 ただ、残念ながら異世界転移したこの世界じゃ漢字は使わない。


 英語じゃないがアルファベットに似た文字で発音も似た言語が使われている。不思議にもな。


 因みに俺は魔王睡眠学習でこの世界の標準的な言語を幾つか習得しているおかげで人間領でもペラペラだから、逆転移方法を探す旅も楽しめそうだ。……なーんて現実逃避してる場合じゃないか。


「はあ、明日からどうすっかなー。勇者として注目されたら顔を広く知られるのは避けられない。そうしたらこっそり逃げられなくね? テレポートしてもそこかしこに俺の顔を知る人間がいたならどこに行ってもワッショイ勇者様って騒がれて無意味だし、目立ちっ放しじゃ帰る方法を探せなくなるよなー」


 行動を怪しまれた挙句に実は魔王だって発覚した日には騙したなって激怒の人間達から血祭りに上げられるな。おおぅ想像しただけで震えるわ。

 なら俺の行動は決まっている。


 今のうちにトンズラするがベスト。ベストトンズラニスト賞を狙ってやるぜ。


 幸いまだ俺の顔を見た奴らは少数だし、会わないでいればそのうちこっちの顔の造りなんて曖昧になるよな。俺も髪の色変えたりして変装すれば尚バレにくくなるだろうしな。

 凡人の記憶力なんてそんなものだ。あの兵士達の中に絶対記憶能力者がいない事を願いたい。


 まあそこ以前に、そもそも俺は魔王なのに姿は普通に人間なのが結構解せないでいる。


 地球人の俺がそのまま転移しただけだから人間姿なのは当たり前だが、仮に魂だけで魔王城のあの召喚魔法陣に召喚されていたら一体全体どんな肉体を与えられてオギャーッて生まれたんだろうな。有り得ないもしもを考えたところで詮ないが興味は多少ある。今度魔王城戻ったら歴代魔王の姿絵でも探してみるか。

 ……あの魔物椅子になってくれた魔牛族のトップみたいな姿かもな。


 まあだからこそ魔王とか魔族ってバレずに兵士達にもあのケモミミの若い男にも受け入れられていたりするんだが、考えてみたらラッキーな話だよ。

 逆に、魔王城の配下達は俺が人間姿な点を誰も指摘してこなかった。召喚魔法陣から現れたから見た目はどうあれ我らが魔王様ぞやーって疑問も抱かなかったんだろうか。そこも今度城に帰ったら誰かに是非質問してみよう。


「ってそうだった、考えるべくはあのオレンジ頭のウサ耳男だよ」


 さっきは暴行されて思考が回らなかったのか、自分が勇者だって主張しなかったが、実際自らで聖剣を抜いたんだし冷静になれば手柄横取りかって怒るよな。

 たとえ獣人のくせにって文句を言われようと彼が当代勇者なのは変わらないんだ。我こそが勇者なんだーって開き直った彼が聖剣を掲げてしまえば周囲も渋々だろうとその厳然たる事実を認めないわけにはいかないだろ。


 やや脱線したが、当面の懸念事項としては、勘違いされたままはまずいだろって点だ。


 現在聖剣もホントの勇者の手にあるわけだし、剣を手にてめえよくも勝手に従者扱いしてくれたよなって乗り込んで来られたら、俺うっかりしたら新米勇者から討伐されちゃう可能性大じゃねえ?


 人間達は魔王討伐万歳だが、俺は魔王死亡で日本にも帰れず終わるわけだろ。手違いで魔王にされた挙句そんな末路って理不尽過ぎるだろ、なあ。んなの冗談じゃねえ。


「よっし、一秒だって無駄にはできねえな。神殿のお偉いさんが来ても厄介だし今すぐ逃げるぞ」


 思い立った俺はここに案内してくれた兵士からの説明を思い出し、バルコニーに通じている上から下まで全面格子ガラスだって言うガラス扉に急ぎ近寄ると、夜で閉められていたカーテンを大きく横に引いた。


「んっ?」


 それが何者かを認識するまで僅かなタイムラグはあったが、窓ガラス一枚隔てたすぐ向こうにいた相手とバッチリ目が合ったのはわかった。


「…………」


 窓にへばり付いて、たぶんカーテンの隙間から中を覗き込もうとしていたんだろう相手は、その赤と金の左右色違いの瞳をぱちくりと瞬かせた。

 俺は心底からの仰天のあまり瞬きさえ忘れたよ。


 え……なに……?


 何でさっきのウサギ男がいんの?


 しかもバルコニーに。ここ、一階じゃないんだが。


 魔法とか優れた身体能力って理由がこの世界では通用するからここが何階かとかはともかく、どうして勇者が俺の泊まる部屋のよりにもよってバルコニーにいんの?


 普通に廊下側の入口から入ってくるならともかく。いやそれよりも神官に切れた口の手当てしてもらってからは彼が泊まる部屋に案内されているはずだろ。俺は何の疑いもなくそう思ってたんだが?


 向こうもよもや俺がカーテンを開けるとは予想もしていなかったんだろう、ビックリしてピンと白く長い耳を立てた楽しい絵面になっている。


 妙な状況に固まる俺の中には急激にとある疑念が膨れ上がった。


 これは俺には気取られないように侵入しようって魂胆だったんじゃないか?


 なのに予期せず悟られた。しかし何のためにそんな行動を?


 ああ、俺を魔王って気付いていて、不意打ちで俺の寝首を掻くために……とか?


 だってほらほら~、ご丁寧に聖剣まで持ってきてますがあ~?


「……っ」


 辛うじて硬直を解いた俺は何も見なかった事にしてシャッと音を立てて勢い良くカーテンを閉めた。

 ガラス向こうから微かに動揺の声が上がった気がしたが、どうでもいい。


 すぐに回れ右をして廊下側の入口へとダッシュする。


 この時俺の脳裏には何かのホラー映画かゲームで殺人鬼に追いかけられる主人公が浮かんでいた。しかも人間そんな時は大体平静を欠く。聖剣の間に降り立った時にも使ったテレポートって魔法をすっかり失念していたくらいにはな。


「ろろろ廊下に出て外に出て誰に呼び止められても全力疾走するしかない」


 神殿の兵士も神官も、勇者に比べたら可愛いもんだ。まだ俺を人類期待の星だと思っている彼らが危害を加えてくるとは思えない。

 逃げる姿を見られてもトイレとか適当に言っとけば厄介なくやり過ごせるだろう。


 俺の耳にガチャリという音が入ったのはその決定を脳みそがしたまさにその瞬間だった。


 え。は?


 俺は音の出所とそのどう考えてもガラス扉の開閉の音だろう音が信じられなくて反射的に振り向いていた。


 だって鍵は閉まっているはずじゃないのか?

 ……いや、掛けられていなかった可能性は捨て切れないか。いやいやだからって勝手に入ってくるか普通!?


 見開いた俺の目に急いたような気配と共にカーテンが外から盛り上がったのが見え、それが滑った向こうからオレンジの髪の毛そしてオッドアイを湛えるかんばせが現れるのを見た。当然ウサギ耳も。


 彼はやや焦った顔付きで室内をキョロキョロして廊下に近い入口傍に立つ俺を見つけると、それまでとは別の気まずげな焦りと安堵のような色を浮かべ、にこりとした。


 勇者を、いや不法侵入者を、いや暗殺者を、俺は愕然とした面持ちで見据えたままごくりと唾を呑み込んだ。急激に乾いて張り付いた咽が少しピリリとした。

 だって勇者は魔王を見て笑った。

 キラキラと目を輝かせているように見えるが単に動転した俺が実際はギラギラとした鋭い眼光を錯覚しただけだろう。

 彼は聖剣を渡すなど何という愚かな魔王かと嗤ったに違いない。これは本格的にやべえっ。獲物を屠る強者の笑みだ。


「あ、あの、勝手に鍵を開けて入ってすみません。兵士の方がまるで聖剣を見張るように廊下にいたもので、そちらからは何となく出たくなくてバルコニーから来てしまいました」


 は、鍵開け!? そこまでしたならやっぱり目的は俺の殺害だ。


 人畜無害そうなモフモフ耳だからと油断したら終わりだ。


 何より、青年は聖剣を手に俺の方に歩いてくる。ひいいっ来るなっ!


 悪意はないんですっていくら訴えたところで、あれを持参している時点でもう何を言い繕おうとも説得力はない。武器が必要な何かを行うつもりだろって感じだからな。


「とっところであんたどうして俺のいる部屋がわかった?」


 足を止めさせるための時間稼ぎに努めて冷静な声で質問をしたら幸運にも相手は立ち止まった。俺としてもそこを知りたかったのもある。でないとこの先も付け狙われるかもしれない。


「ああそれは僕は獣人なので、嗅覚が多少人より優れているのであなたの匂いを辿ってそれで……」


 おいおい何故にそこで恥じらうようにする!? 意味がわからん!!

 まあ何であれ、これ以上ここにいたらマジで魔王と勇者の最終決戦開始で悪目立ちした挙句、神殿連中にも正体が知られていい事無しだ。


「はは、そうか。んじゃな!」


 俺はもう彼には取り合わずに踵を返した。

 下手に刺激を与えないように走ったりはせずスタスタと歩いて入口扉前まで行く。


「えっあのっそうですよね怒りましたよねすみません! もう匂いを追ったりしませんから待って下さい!」


 待つかーっ。


「用が済んだらさっさと僕が退室しますからお願いです待って下さい――マスター!」

「マスター?」


 思ってもなかった呼びかけに、ドアノブに手を掛けていた俺はついつい不可解な顔で青年を振り返っていた。追いかけてくる素振りを見せていた彼はホッとして力を抜いたように動きを止める。だるまさんが転んだかよ。


「何だよ、俺の事?」

「あ、はい。僕はあなたの従者ですし、マスターとお呼びするのが適切なのでは?」

「は? んなのいつから……ってああそうか、でも何でそうなるんだ? 聖剣の間でのはあの場を丸く収める方便だって。俺もさすがに獣人を取り巻く環境は知ってるし、ああ言っとかなかったら色々と長引いて面倒だった。あんただって見ず知らずの俺からいきなりお前従者なーとか言われてさ、いい気しなかっただろ。だからその設定はもう無しだ」

「そんなっ、僕は全然嫌ではなかったですっ。むしろあなたがマスターになってくれるなら、いっそその方が良いんですっ」

「その方が良いって、それはどういう……?」


 何か含みのある言い様だ。怪訝にすれば彼は失言でもしたようにハッとなって取り繕う笑みを浮かべた。

 次に何を意図してか両手で聖剣を捧げ持つようにして俺へと差し出してきた。あ、それ近付けないで下さる?


「今の言葉は気にしないで下さい。それであと、僕が思うにあなたこそがこの聖剣の本来の主でしょうし、やはり勇者が待つべきと、そう思い立ち渡そうと思って持ってきました」

「はは、またわけのわからない事を……。どうして俺がその剣の主なんだよ。実際に抜いたのはそっちだろうに、勇者様」

「ええと、たとえ抜いたのは僕でも、あなたが握っていた間は聖剣がバチバチしていて自然と勇者の魔法技を出しているように凄かったのでそうかなと。現に僕がこうして手にしていても何も起こりませんし」

「あー、あれ」


 全部俺起源の力だよ。聖剣は内側から相容れない俺を拒絶してグリップ部分をかなり高温にしただけだ。あの時はマジであっつかったなーははは。そんなに熱いのが好きならどっかの溶鉱炉に放り込んでやろうかって正直思った。もう一回刀鍛冶に打ってもらってこいってな。


 彼が持っていても何も起こらないのは彼が攻撃の意思を示していないからだろう。というか、その聖剣が錆一つなく剣身が透き通って現役感半端ない姿なのは彼が持っているからだろうしな。


 それよりも頭痛がしてきそうだよ。こんなヘタレ勇者じゃ騙されていつか聖剣を盗られるぞ。勇者以外が持ってもガラクタ同然だろうがその手の代物を集める好事家はいるだろう。勇者が存命なうちは勝手に台座に戻ったりもしないだろうしな。


 にしても、台座から抜いた者が勇者なんだから他の奴が勇者とか言う発想は普通出ない。このウサギ男はどんだけ自信ないんだよ。兵士達に何か言われようと勇者は勇者だろうに。


 しかしメンタル弱いだけの男が夜中に一人でこっそり聖剣の間に忍び込むのかは疑問だ。


 実はこれは演技で、気弱な奴だなーって油断させて聖剣でグサッとやる気なのかも。

 その可能性は否定できない。油断は禁物だ。

 逃げる好機を逸したし、なら敵の観察をしようと警戒心は解かずに獣人の青年を凝視する。


「ハッキリさせとくと、聖剣はあんたの物だ。あのバチバチは俺の力を剣に走らせただけなんだよ。その方が兵士達の手前説得力あるし箔が付くだろ。演出だよ演出。そもそも聖剣は俺には一切反応しなかった。だから俺は勇者じゃあない。勇者はあんただよ。だから早いとこその剣持って部屋に戻って休んでくれ。な?」


 聖なる剣からは反応なしどころかめっちゃ敵意を孕んだ反応をされたが、敢えて身バレのリスクを冒してまでそこを言ってやる必要はない。


「す、すみません早とちりして。……あなたは優しい人ですね。そういえば聖剣の間でのお礼もまだでした。あの時は庇って助けて頂き本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。僕の生涯をかけてお返しします!」

「いや、気持ちだけ受け取っておくよ。あんたには有意義な勇者としての日々を過ごしてほしい」

「そんな、マスター!」

「いや何で。従者とかその話は終わったはずだろ」

「そ、うですけど、でも僕は、勇者には向いていません。獣人ですし、勇者として認めてもらえないと思います。できればあなたの従者として過ごしたいです。どうか僕に変わって勇者になって下さい」

「断る」

「……っ」


 青年は項垂れると鼻を啜った。

 え、マジ? 俺が泣かせたの? たぶん俺よりは年上の男を泣かせちゃったの? だがしかし俺は何も心に疚しい事はしてないぞ。

 だって駄目だろ、成り済ましとか。

 本物がいるのにどうして偽物やらんとならない?

 勇者が獣人だから? んなもん筋が通らない。

 そもそも魔王が勇者やるとか前代未聞だし。


「あんたさ、もっと自信持て。勇者としてそれ相応の装備身につけた日には見栄えするだろうよ。背も高いし誰もが憧れの勇者になれるって。な?」


 まあ魔王は殺させないがな。ふははは。そこは気の毒だが魔王討伐できなかったが魔族に負けはしなかった勇者として余生を送ってくれ。勿論俺が地球に帰った後で新たな魔王が出てきたらそいつは自由に倒してくれていい。


「うう、どうしても駄目ですか? 僕は死ぬまで真実を伏せますし、勇者として享受できる全ての富と名声、権力や財物はあなたに捧げます。あなたのような人が勇者なら、国民は何の失望もなく勇者を勇者として歓迎してくれるでしょう。悪い話ではないと思うのですが」


 両目をうるうるさせながら、自分弱い草食動物ですって顔しながらも案外上手に提案してくるなこの男。……やっぱ食えない奴なのかもな。


 ウサギ特有の赤い目は頼りない印象を受けるが、ぶっちゃけ金色の方の目は夜闇に底光る肉食獣みたいな印象を受けるんだよ。


 ウサギ耳だから彼はウサギの獣人のはずだよな?


 それとも何か普通と違う秘密があるとか?


 俺はふー、と溜息をついた。


「何であれ、勇者関係は断る」


 俺には俺の目的があってこの人間の地に来た。

 それに、獣人だから勇者ができない、しない方がいいってのが気に食わない。

 目の前の男の主張も、先の兵士達の認識も。


「……俺だって不本意にも――」


 その先はぐっと唇を引き結んで黙した。


「あんた、やらないうちから無理とか決めるなよ。そのタコ、いや剣だってあんたならやれると判断したから勇者に選んだんだろ」

「そ、それでも僕には勇者なんて大役は無理です。魔王と戦って勝てる自信なんてありません。誰かを、魔王を殺すなんて恐ろしくてできませんっ。聖剣の力が必要なら僕が引き出します。そしてあなたにそれを託しますから、ですからどうか……っ」

「そんなに怖いなら、魔王なんて倒さなくていい」

「え……?」

「勇者して各地の悪い魔物を懲らしめて回れよ。人々の希望の星になってやれ。それだって立派な勇者だ。そう思わねえ?」


 ふへへそうしてくれれば俺も心安らかに世界を動き回れる。

 俺の言葉に何か感じ入る部分があったのかもしれない。顔を上げた彼は瞳を揺らした。お、これはあと一押しか?


「獣人だからって卑屈になる必要はねえよ。聖剣を受け入れてやれよな」

「マスター……」


 いやだから何でまだそれ!? ま、まあ水を差したくはないから今は指摘しないが。


「……本当の本当に、どうしても、駄目、なんですか?」

「ああ。あんたならできる! イエス アイ キャンって言ってみろ!」


 しかしどうしたのか、ウサギ耳君は悲しそうにした。


「や、いや、これふざけた訳じゃねえよ。気に障ったなら謝る」

「いえ……もし、僕が勇者として立ったなら、僕をあなたの従者にしてくれますか?」

「もう主従から離れようなッ?」

「でも、あなたはそのままどこかに行ってしまうのですよね」

「あーまあそりゃそうだよ。元々俺は、えーとそうだ、観光に来ただけなんだ観光に。俺は俺で人生の目標があるから行かないとならない。あんたとは短い奇縁だったが、勇者たる覚悟を決めれば何とかやっていけるって。だから達者にやれよな」

「そぅ……ですか……」


 青年のウサちゃん耳がしおしおと垂れる。ごっごめんなウサたん!……っていやいやいや、励ましたのに落胆するとか何故だ。

 彼がじっとして暫し俯いたままなのは余程しょんぼりしたからだろうと、俺は何か掛ける言葉を探して遠慮するように彼を見つめる。


 ふと、ウサたんが酷く思い詰めたような顔を上げた。


 え、何か……雰囲気がおかしい気がするが、何だ……?


 不覚にも油断していたと悟ったのは、聖剣を無意識なのか故意かは知らないが床に落としてぐんと距離を詰めた彼の手が、俺の頬を包み込んだ時だった。


「はっおい何する!?」

「――勇者になって、下さい」

「は? いやだから断るって、――!?」


 言葉を呑み込んだのは、相手の様子が明らかにおかしかったからだ。何しろ彼の金色の方の瞳が底光りしている。その瞳は俺を映し込んであたかも呑み込もうとしているみたいに思えた。


「すみません、あなたにこれをしたくはなかった。けれど……――あなたが勇者です。あなたが、勇者、です」


 彼はこうまでして執拗に俺に勇者になれと言う。

 そんなに嫌なのか?

 だがこれは人にものを頼む姿勢じゃあないだろ。


 なら何なのか。


 その問いへの答えはすぐに俺の魔王育成睡眠学習知識の中に見つけられた。


 この男、――アルファか。


 金色の瞳が光ったのはアルファのフェロモンを強く放出したからだ。そうなると彼はただの無害なウサギ獣人じゃない。


 この世界には元の世界にはない、魔族や獣人、魔法とそしてもう一つ――オメガバースって理が存在する。


 アルファは言うなれば王様体質でその絶対数は決して多くない。実際に国や貴族のトップがそうだったりするようだ。アルファはその気になれば特有のオーラというかフェロモンで一般人たるベータと、同性でもアルファの子を産めるオメガを虜にでき意のままに従えられる。望めばハーレムだって作れるってわけ。


 だから例えば相手を暗示にかければ、そいつは自分を勇者だと疑わなくなる。


「あんた、本当に何のつもりだ? 目的は何なんだ?」


 しかしながら俺の変わらない、いや目付きを鋭くした様子に相手もようやく異常を悟ったらしい。

 焦った顔付きで俺から離れようとした。


「え? な、何で効かないんですか!? あ、まさかあなたもアルファ!?」


 俺は逆に距離を取ろうとする相手の顔を両手で挟んでやった。若干イラつきながらもにごぉ~って感じの笑みを浮かべる。


「さあな、理由は知らんが、俺はアルファじゃねえよ」

「けっけれど僕のフェロモンの影響が全くないのは同じアルファだからでは? しかも僕よりも強いアルファだからこそ少しの影響もないんじゃ……?」

「あー……たぶん俺は何にも当てはまらない」


 何せ元はこの世界の住人じゃない。


 とりあえず凄んだものの俺はもう彼から手を離した。有効な札を全て失ったように彼は蒼白になって所在なさげに突っ立った。

 まあそりゃアルファフェロモン頼みで他者を言うがままに従わせようなんて悪手、本人にバレた上に通用しない相手だってわかったんだからな。焦燥と羞恥心も甚だしいだろ。俺ならそうだ。


「僕の力が、通じない……」


 青年は何故だか闇の中で大きな光明を浴びたかのように表情を明るくした。え、嘘、恥じ入らないの? 開き直り?


「ならご自分を勇者だと思ったりは……」

「当然してないな」

「で、ですよね。はは、あはは、あなたは心底不思議な人です。僕の力が効いてないなんて奇跡みたいです。変な真似してごめんなさい。やっぱり僕はあなたの従者になりたいです。お願いです偽でもいいので勇者になって僕を従者にして下さい」

「はー、どうしてそこに戻るんだよ」

「このアルファ力を使えば世界征服もお手の物、僕はきっと必ずあなたのお役に立ちますからどうかお供させて下さい」


 ほー、そこはポジティブ思考なのか。感心感心……ってそれ以前にさ、世界征服って悪の親玉が企むものじゃん。勇者がやらないだろ。その言葉を敢えて俺に向けてくる辺り実は俺が魔王だって気付いてますよーって臭わせ? なあどうなんだ?

 ……とは俺からは訊けない。それこそ墓穴だ。


「連れは要らない」

「そんなっ、後生ですからっ」

「嫌だってー」

「雑事は僕が一切合財引き受けますから! お願いしますマスター!」

「だっから俺はマスターじゃないって」


 身を引いたが一歩と言うか足のリーチの差で腰に縋り付いてこられて泣き付かれた。マスターマスターと懇願の声で連呼されて室内は騒々しさが増すばかり。聖なる剣は床で沈黙している。そのまま錆びろ。

 ああああ早くトンズラしたいのにがっちり両腕で腰をホールドされてろくろく身動きできない。この男はウサギのはずなのにタコか!?


「こんっのタコがっ、放せっ!」

「嫌ですーっ」

「放せったら放せ! さもないとあんたのウサ耳もふもふしてすりすりしてもっみもっみしてやるからな!?」

「――っ!? ののの望むところです!」

「マジにするからな!?」

「マ、マスターのお気の済むまでどうぞ……っ!」

「拒めよ!」


 ぐあーっもふもふケモ耳の誘惑! 彼のウサギ耳は獣人仕様だから動物のウサギの耳よりもでっかいんだよ。猛烈にもふりたいっ。しかし心底勇者には関わりたくないっ。何と言うジレンマ!


 揉んではないが揉めてはいる間に部屋のすぐ外に複数の足音が集まってきた。


 そういえばすっかり夜中なのを忘れて騒いでしまっていた。音が響くのは道理だった。


「勇者様っ、先程から言い争う声が凄いですがまさか侵入者ですか!?」


 刻一刻を争うと思ったのか、こっちが何か返事をする前に兵士達が武器を片手に慌てたように部屋に駆け込んできた。後方には神官達の姿もある。どうやら一緒に駆け付けたらしい。


 そんな彼らは目撃する。


 涙を浮かべるウサギ獣人と、その彼を今にももふりそうに手を掲げてハアハアした勇者の、つまりは俺の姿を。


「えっ? はっ? 皆して何事……っていやいやいや違う誤解だ!」

「じ、従者の誉れです。マスターもふもふしてどうぞ!」


 これみよがしだった。

 このっ無害な顔してしたたかなウサギ男めえ~~~~っっ!


 その日から当代勇者はウサギ獣人がお好き、と広まった。

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