第1話

 「まあ。目覚めたのですね、良かった。これ、何本に見えますか?」

 男が目覚めると、見たこともないような美しい女性がこちらへ笑いかけていて、しかも自分の手を握っているもんだから、男は一瞬、自分が死んだのかと思った。でも手を握られてる感覚や、視界にちらつく自分の髪や、先程から漂っている自分とは違ういい匂いが、これは現実だと教えてくれる。男は残念がりながらも女性の問いに答えた。

 「……さん」

 「ふふ、意識もはっきりしていますね。わたしはマリアと言います。あなたの名前を教えてくださるでしょうか」

 「か、らす。みんな俺のこと、からすって言う」

 ぱちくり。女性、マリアは目をまんまるにして男を見る。カラスの化身と思っていた男は、本当にカラスだった。

 「こっちじゃ烏のことクロウって言うんだっけ。じゃあ、クロウって呼んで」

 「クロウさま」

 「なあに、マリア」

 マリアの声は蜂蜜みたいに甘くて、つい男も甘い声で返してしまう。昔からの癖だった。相手の言葉を、相手の話し方を真似して、「ことば」を自分のものにする。そうしなければ、男は「ことば」を話せなかった。

 「クロウさま、あなたはどこからいらっしゃったのですか?行く宛は、あるのでしょうか」

 マリアは男の甘い声に顔を赤らめながらそう尋ねる。男は今朝、教会の前で倒れていた。もし彼に行く宛があるのならば、傷が癒えるまで教会に泊めさせよう、と思ったからだ。

 「……行く宛は無いよぉ。俺、悪い奴らから逃げてきたんだあ」

 するり。男はマリアの手を繋ぎ直し、にへら、と笑う。そしてマリアの耳に顔を寄せて、内緒話をするように言った。

 「ねえマリア。しばらく泊めてよ」

 マリアの瞳が、大きく開かれた。


 こんなはずじゃなかったのになあ。男はそうぼんやりと思った。男の想定では、このまま彼女を誑かして、教会をいい隠れ蓑にする予定だったのだ。彼女を2、3回抱いて、自分の言いなり人形にする予定だったのだ。男にはそれができる美貌があったから。それに、修道女というものはおめでたい頭をしているから、可哀想な、迷える子羊、自分が救えそうな人間を演じれば、すぐに絆されて男を庇ってくれるのだ。そこに漬け込んで犯してしまえばこちらのもの。快楽を知らない修道女たちは、すぐに堕ちていった。過去にそうやって何人か堕としてきたから、今回もいけると思ったのだ。

 …………なのに。

 「クロウさま、こちらがあなたのお部屋です」

 「クロウさま、お身体を洗うときはこちらをお使い下さい」

 「クロウさま、お腹が空いたときにはこちらの果物をお食べ下さい。食べ過ぎちゃだめですよ、お夕飯やお昼ごはんが入らなくなりますから」

 「クロウさま、こちらでご飯を食べます」

 「クロウさま、わたしは大抵ここに居ます。御用がある際はわたしにお尋ね下さい」

 マリアは男の手を引いて、教会内を案内してくれている。彼女は男の囁きに驚きはしたものの、大して顔を赤らめることもせず、すんなりと男の要求を受け入れてくれたのだ。いつもは要求の所で難色を示されて、そこで男が相手を犯して(男も女も)、要求を受け入れさせるのに。いつもと違う状況に、男はぼんやりと、こんなはずじゃなかったのになあ、と思った。


 「クロウさま、お召し物を洗いたいのでその間こちらにお着替え下さい」

 「こんなに上等なの使っていいのお?」

 「ええ。これはクロウさまのものです」

 教会の案内を終えて、一番最初に紹介した男の部屋に戻って。マリアは、簡素なリネンの服を男に渡した。教会では贅沢は禁止されているため、その服だけしか用意できなかった。傍目から見てもあまりいい品質のものとは言えない服を、男は目を輝かせて受け取る。その様子がなんだかおかしくて、マリアは小さく笑ってしまった。

 「わたしは扉の前で待っていますので、着替え終わりましたらノックして下さい。2回、ノックです」

 「分かった。2回、だね」

 「ええ」

 では、失礼します。マリアはそう言って、部屋を出た。

 ぱたん、と扉が閉められた。

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