第5話 葬送の鎮魂歌
郊外の外れにある美しい紅葉に囲まれた葬儀場で小さな通夜が終わって数時間が過ぎていた。
祭壇には故人の最高裁判所長官を務めていた写真が飾られていて、微笑みを湛えたその表情は、個人の優しい人となりを偲ばせている。祭壇に飾られた花々は白い花々で飾られているが小さく整えられていて華やかさはなくいけれど、されど気品を失うことなく凛として、それが故人を偲ばせているようであった。
「うぅん…、少し寝てしまっていたみたいね…。あや、まみ、どこにいるの?大丈夫?」
真っ白に黒い文字盤の掛け時計の針が午前0時を指し示していた。
絹子もうつらうつらとしていて、目を覚ますと膝の上で寝ていた愛娘達の姿がないので思わず心配になる。
視線を上げた先、焼香台に立てられた背の高い線香が煙をゆったりと漂わせて燃えているのが見え、その先に安置されている棺の上にその姿を見つけた。
開かれた小窓の真下で2人は身を寄せ合いながら、棺に縋りつくかのようにして横になって柔らかな寝息を立てていた。傍まで寄るとその目元にはしっかりと泣きはらした跡が見て取れるほどだ。
「おとうさん、大好きだったものね」
1人ずつ抱き上げては用意された家族に用意された簡易ベッドの上に寝かせてゆく、2人とも泣き疲れてしまったためだろうか、触れられても起きることは無く、小さな寝息を湛えている。
「2人ともありがとね」
愛娘達のお気に入りであるお父さんからプレゼントされた厚手のタオルを鞄から取り出して、そっとその身に掛けた。
病院のベッドの上でなくなるその時まで離すことなく彼と手を触れ合わせていた3人は、旅だった後に静かに病室で泣いていた。梅雨が降る様に涙を落としながらその安らかな顔をただただ見つめ続けていた。
愛娘となった2人は絹子の両ひざの上に座って手に持っている小さなハンカチで涙を拭いながら、時より羽を震わせて全身で悲しみを表している。
「そろそろ、お体を綺麗にしてもよろしいでしょうか?」
良く尽くしてくれた若い吉川看護師が部屋の扉を開けて尋ねてきた。
「そう…ね、お願いします」
外科医でもある絹子は涙をハンカチで拭い、再度しっかりと長年連れ添った愛しい人の顔を眺める。そして愛娘達を両手で包み込むようにして抱えて立ち上がった。
「失礼します」
部屋に一礼して吉川看護師が入ってくると同時に数人の妖精も室内へと飛んで入ってくる。夫の看護を吉川看護師と共にしてくれた妖精達で涙を必死に堪えたり、中には泣き出してしまっている者もいた。
「この子達も一緒にエンゼルケアをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、大歓迎よ、私も手伝おうかしら」
「先生は座っていてください、私が緊張しますから」
少し困ったような微笑みを浮かべた吉川看護師がそう言うと、絹子は少しだけ顔を綻ばせて笑みを見せる。看護学校へ通っていた頃、2人は教師と生徒であり、そして一番の問題児であったのか吉川だ。深夜遅くまで国家試験の勉強を教えていたのが懐かしい。
「ふふ、そうね。じゃあ、外で待っているわね」
「そこまでなさらなくても」
「いいのよ、少しだけ風に当たってくるわ。あやとまみはどうする、一緒に行く?」
2人の娘達はそれを聞くと首を振って絹子の手から飛び立っていく。そして吉川看護師と一緒に入ってきた白いスクラブを着ている妖精達と混ざり合って囁くような言葉を交わし合うと、白いスクラブを着た妖精の1人が吉川看護師の耳についているインカムを指さした。
「うん、いいよ、私から伝えるからね」
妖精言語通訳装置、あれからすぐに開発実用化された機械だ。それによって互いに意思の疎通の度合いは格段に進歩を遂げていた。それが結果として妖精の能力の高さを人間に思い知らせる結果となったのは言うまでもない。
「あやさんとまみさんも、エンゼルケアを手伝ってくれるそうです、よろしいでしょうか?」
「あら、いいわよ。2人とも気を付けてね」
頷く愛娘に微笑み返して、絹子は病室の外へと出て同じ病棟の中庭へと向かった。
あの判決から1年後、ちょうど、「妖精の日」と命名された日に夫は彼方の世界へと旅立っていった。天国と言わないのは、夫が生前から「天国にはいくことは無いだろう、閻魔様のお仕事を地上でしてしまっているからね」と口癖のように言っては笑っていたからだ。
でも、妻としては天国へ旅立っていて欲しいと願っている。
妖精裁判以降、日本は劇的に変化を余儀なくされた。
法律が制定され、妖精には戸籍も、人権も、それ以外のすべて人間と何一つ変わることのない権利が与えられた。妖精の無料奉仕によって支えられていた経済は一刻、失速して不況となってしまったが、その後は持ち直し、今では判決後より株価も円も格段に良くなっている。だが、妖精の扱いは隠れたところでは劣悪を極めているところもあり、警察も対応しているが現状、かなり後手に回っている様相で連日マスコミを賑わせている。
最高裁判所長官を引退するまで夫の元にはかなりの非難の手紙やメールが届いていた。
妖精で家の工場はやっていけていたのに閉業しなければならなくなってしまった。妖精を駆使して営業していた店が潰れてしまった。人工物に権利などを与える判断は間違っている。人間も同様に救え、などなど、数多くの罵詈雑言を目にし、実際に街中で浴びせられることもあった。ただ、夫は何も言い返さず、詫びることもなく、話を聞いたり、乱暴者には無視を決め込んだりしていた。昔っから頑固者でもあったから、自分の意見を述べることはもちろん、それに対して反論することが言い訳がましく聞こえることを嫌ったのかもしれない。ヨーチューバーの青年に追い回されたこともあったが、夫はずっと無視を決め込み、何を言われようとも、職を辞する最後の日まで無言を貫き通した。
夫のがんは医師だからこそ分かるほどに、進行していて、妻が医師なのに何をしていたのだと叱責されても返す言葉がない、でも、夫は緩和ケアを受けながら一緒の時間を最後まで妻と一緒に過ごしてくれた。
そして戸籍を得た直後、すぐに我が家の正式な愛娘として迎え入れたあの時の妖精達は、夫の介護をする私を見てそっと手を差し伸べてくれた。それはもう献身的なほどでどんな優しい子たちだろうと感謝してもしきれないほどの心の籠った介護であった。
「私が死んでも絹子に迷惑をかけるかもしれない。すまないね」
ついに介護限界と治療限界へと至り病院の緩和ケア病棟へ入院してすぐのこと、私が、あやとまみとお見舞いに来ていた時、夫がいつになく真剣な顔で私を見てそう言った。
「判決のこと?いいのよ、この子達が救われたんだもの」
膝上で大人しく座っている愛娘が私の視線を見て可愛いらしい笑みを見せてくれる。
「ああ、だが、あの判決と法律で不幸になってしまった人々もいることも事実だ。それもまた背負っていかねばならないことだからね。その妻である絹子も恨まれることがあるかもしれない、でも、それを守ることもできずに死んでしまうことが悔やまれてならないよ」
「大丈夫よ、私は娘ができたもの、しっかりこの子達を育てていくわ」
「それは頼もしいね、でも、本当に気を付けてくれよ。死んでも化けて出て傍に居てやる」
「やだわ、怖い人」
2人でそう言って笑い合ったのがつい昨日のように思えて体が身震いがする。やがて涙がスッと一滴、頬を滑り落ちていった。
通夜の翌朝、かつての部下だった高林さんが弔問に姿を見せた。
互いに話し合って家族葬で済ませることでこの式場を頼み、誰一人に亡くなったことは知らせていなかったのに、どこから情報を掴んだのか、高林さんは花束と香典、そして1人の妖精を伴って葬儀・告別式が終わり出棺の頃に突然に現れたのであった。
「奥様、どうして知らせてくれなかったのですか?」
少し責められているような気持になるが、高林さんはそれを言ってから激しく後悔したような表情を見せて詫びるように頭を下げた。
「失礼しました。奥様、すみません、ご焼香とお顔を拝ませて頂けないでしょうか?」
出棺間際であったけれど、高林さんが居たから夫はあの大変な業務を務めることができ、そして、最後まで夫を支えてくれた恩人でもある。
「こちらこそ、ごめんなさい。あなたにだけはお伝えすべきだったわね…。どうぞ、会ってあげて下さい」
深々と頭を下げると同じように愛娘達も頭を下げた。
「そんな、いえ、不躾に申し訳ございません。その、失礼します」
葬儀会社の職員の方が花束を受け取って棺の上に置いた。そして小窓が和尚の読経が続く中で職員の手によって開かれてゆく。
「お久しぶりです、長官」
高林さんは夫を昔のように呼んだ。その言葉には尊敬とも敬愛とも受け取れるほどの温かみに満ちていた。
「なかなかお見舞いやお伺いすることができず申し訳ございませんでした。そういっても長官はきっと笑いながらいいよって言ってくださる気がしますけれど…。あの判決に至るまで私は傍に仕えさせて頂けたことが大変勉強になりました。どうしてもお礼をお伝えしたく駆けつけてしまった次第です、お許し頂ければと思います」
窓から話しかけている高林さんの目元からポタポタと涙が落ちていくのが分かった。それを支えるかのように隣に居た妖精がその身を寄り添わせていく。
「長官が去ってから、色々考えるところがございまして、今は、厚労省の妖精局に務めております。精一杯頑張りますので出来ましたらお見守りください。隣に居てくれるのが恵美子さんです、妖精局の同期で一緒に仕事をしております。長官の下された決断のように世の中は変わっていきますよ」
恵美子と名前を呼ばれた妖精が棺に深々と一礼して、私達の方に向くと再び深々と一礼する。するとあやとまみが羽を広げて飛び上がり素早く恵美子の元へと駆けていった。
「あや、まみ?」
「恵美子さん?」
3人は何かを妖精語で話し込んだのち、それぞれが口を開いて声を上げた。
そよ風のように柔らかで、小春日和のように温かく、小川のように心地よい、声。
それはもはや歌だった。聞くものすべてが思わず止まるほどに美しい歌声だ。
「素晴らしいですな」
先ほどまで経を読んでいた和尚が3人を見つめてそう言った。
「すみません」
思わず謝ってしまった私に和尚様は首を振って答えた。
「私は先ほどまで心を込めてお経を上げさせて頂きました。ここからはこの清らかな真心の籠った鎮魂歌で故人様を送り出して差し上げましょう」
両手を合せて棺へ一礼したままで袈裟を着た和尚様がしっかりと両手を合せて拝んでいる。その瞳の筋には涙が浮かんでいた。葬儀会社の職員さん達も涙ぐみ女性スタッフさんに至っては声を押し殺して泣いているのが垣間見える。
私もいつの間にか涙を流していることに気がつく。
今まで聞いたこともないほどに、美しくて、優しくて、切なくて、悲しくて、とても言い表すことができないほどの、葬送の鎮魂歌。
「あなた、きっと大丈夫よ、未来はきっと明るいわ」
私は棺に眠る夫へと自信を持ってそう声を掛けていた。
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