第6話 「 回遊 」

「そりゃあ、生きてれば何とも嫌になることもありゃあね。ワタシなんか良かった事の方が少ないわ。と云うより嫌な事、辛い事ばっかりじゃあ。それでもまだ、こうやって生きてはおられるんやけどなあ」

 いつもの駅前の喫茶店。手短な自己紹介を済ませた後、老婆は早速私の顔を見ながらこう捲し立てた。ああ、これは失敗したかな。私は即座にそう思った。

私はサイトや知人伝手で「青いチケット」関連の取材インタビューを随時募集しているが、時折その趣旨を取り違える人がいる。中には頭ごなし、噂の批判・論破を目的とする人からの接触もある(所謂アンチオカルト)。この老婆=Zさんもそのタイプかと私は思った。

「紙切れと云えば、やっぱり赤紙かいね。あれが来た時はワタシの家族も普通じゃおられんかった。なんせ一家の大黒柱がいなくなるんやもん。母親なんて、それにもまして、じゃったろうけど」

「と云うと?」

「姑と仲が悪かったんよ。それをなんとか亭主が取り持っとった。それが居なくなったらって思ったに違いないよ」

「実際はどうだったんですか?」

「帰って来たよ、まあとりあえず生きて。でもそれから五、六年は人間として使いもんにならんかったわ。人が変わったって云うか、何か抜けてしもうたって方が分かりやすいかも知れんな。母親も姑どころじゃなくなった。自分が稼がにゃならんのやから」Zさんはそう言うと虚空に目を泳がせた。「とにかく一日じゅうボーッとしとったな。ワタシも中学ぐらいになっとって、扱いにえろう困ったわ。そのうち父親って云う実感も無うなって」

私はその遥かな回想にどう対処すべきか思案していた。これでは「青いチケット」がらみの話は出てきそうにない。と云うより、思い出話の聞き取りボランティアと勘違いしている。いや、ひょっとするとこの人は既に痴呆が入っているのかも。私はそう思いかけていた。その矢先…。

「孫がさ、その時の父親とそっくりなんよ」

「え?」私の、コーヒーをかき回していたスプーンの手が止まった。「お孫さん、ですか?」

「ああ。もう三十過ぎなんやけど独身者(ひとりみ)で、半年ほど前急におらんようになってしもうた。仕事もなんもほっぽり出してな。警察にも届けを出したけど、結局なしのつぶて。ところがもう皆が諦めとった頃にひょっこり帰って来たんよ。ワタシの父親みたいに呆(ほう)けたようになっての」

 Zさんの話では、帰って来た時お孫さん(Jさんとしておく)は想像していたよりさっぱりした様子だったと云う。娘夫婦は大騒ぎして家に迎え入れたが、本人はケロッとして、翌日から元職場に顔を出しに出掛けたりしていたと云う。ところがそれ以降は特に何をするでもなく、一日中家に居て気が向くと散歩に出歩く程度らしい。

「それでな、知り合いからあんたの事を聞いて、一度会ってみるかってことになったわけさ」

「私に、ですか?」

「あんた、詳しいんやろ?この噂話に」

 そう問われて、私は応えに窮する。「そうなりたいとは思ってますけど」

「連れて来とるんよ」

「え、どなたを?」

「だから、その孫をよ」

 そう言ってZさんの視線の先を見ると、遠く離れた席にまだ青年らしさを窺わせる背中が見えた。


 ここからはその人、Jさんの話。

「ばあちゃんが暇なら来いって言うものですから。どんな事を話せばいいんですか?」

 私はJさんの様子を見て、これならイケると思った。会話に問題はない。時間と辛抱さえ掛ければ、これまでにない話が聞けるかも。私はそう踏んだ。何せ当の本人なのだから。

「青いチケットの話は聞いてましたよ。でも自分が手にしたものがそれだったかどうかは分かりません。一人一人形や色も微妙に違うって云いますからね。それに僕の場合、本当に普通のチケットでしたから」

「と云うと?」

「僕、船に乗ってたんです。気がついたら。そして手に持ってたのが青い乗船チケット。ただそれだけですよ」

「でも、それからもあなたは不思議な旅を続けたんでしょう?」

「まあ、そうなりますかね。でも医者からは断続的な記憶喪失状態だったのだろうと言われました」

 なるほど、そう云うこともあり得るのか…。「じゃあ、自分では一連の噂とは関係ないと?」

「分かりません。第一、家出とか失踪とか、何処でだって起きていることでしょう?この辺が田舎で、その分目立つだけですよ」

 確かに。これが東京だったら話題にも上がらない。当たり前とまでは言わないが、人がいなくなること自体、今や気づきもされないことも多い。「そうですね。でも私には、この『青いチケット』に関しては何か別の共通項があるような気がしてならないんです」

「そう言われてもなあ…」

「あなたは自分の失踪が自分の意思に因るものだと思いますか?」

「う~ん。今から思えばですが、やはり僕は当時いろんなことに行き詰まっていたとは思います。仕事にも何となく身が入らなかったし、ましてや人間関係なんて面倒なことばっかりで」

「ご家族には?」

「当時は全然。家の親は過保護ですからね。帰って来てからの方が良いですよ、適当に放っといてくれますから」

 そう言うJさんの顔を見ながら、私は不意に自分のことを振り返る。私も小さい頃から甘やかされて育った方だろう。家は裕福だし、娘は私ひとりだったから欲しいものは必ず手に入れることができた。唯一厳しかったのは母方の祖父で、私の時折出る思い上がった物言いには必ず苦言を呈した。「それが当り前かどうか、ようく考えてごらん」大人になるにつれ、もらったものはどんどん失くしていくのに、その祖父の口癖だけは今も私の胸中にある。そして折々に私を優しく叱りつける。「本当に、それでいいのかい?」と。

「ばあちゃんに言わせると、生きてる事自体有難いことなんでしょうけど、今の僕にはまるで余生を過ごしているようで」

Jさんは苦笑する。「自分でも分かってるんです。せっかく帰って来たんだから、頑張らなきゃなあって。でも分からないんです。その頑張り方が」

「頑張り方…」

「僕のそう云うところが、どうにも祖母には我慢できないみたいですね」

「それだけ心配されてるんですよ」

「まあ、そうですけどね」

 私はJさんの話をそこまで聞いて、案外彼は大丈夫だと感じる。外見はともかく、彼は彼なりに悩んでいる。それに失踪の原因が何であったにせよ、彼が帰って来たこと自体が何より重要であるに違いはないのだ。

「大丈夫。Jさんは自分で動ける人だと思います。その時が来たら動けばいいんですよ」

「もし、それが来なかったら?」

「その時はその時です」

「無責任だなあ」

 私たちは笑い合う。そこにZさんが近づいてくる。

「やっぱり若いモン同志だと話も弾むわね。どう、何か分かったか?」

「そう簡単には分からんよ、ばあちゃん」Jさんは少し呆れた様子で応える。「でもまあ、来て良かったよ。知らない人とも普通に喋れたからね」

「そうか。なら来た甲斐があったな。そう云えば思い出したことがある」

「何?」

「お嬢さん。さっきワシ、赤紙の話、したやろ」

「ええ」

「あれな、赤い紙とは違うねん」

「え?」

 私とJさんは顔を見合わせる。

「あれな、本当はピンク色やねん」

 そう言ってZさんはにんまりと笑い、それからぐふっと一つ咳をする。「桜色とも違う。今から考えたら、何か卑猥な色やったな」


 二人は喫茶店を後にした。正直聞き取り作業としての肩すかし感は否めなかったが、不思議と私の中には爽快なものが残った。そしてこの「青いチケット」事件の奥深さが、また一つ垣間見えた気がした。私はその余韻に浸るべく、一人喫茶店に残りコーヒーのお代わりを注文する。

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