第5話 「 トマト 」

 Bさんと云うその初老の男性は、待ち合わせ場所となった駅前の喫茶店でいかにも落ち着かない様子で私の前に座っていた。挨拶を簡単に済ませた後、その彼から聞いた話。

 Bさんはトマト農家。従来の品種に加え、最近は新しい塩トマト栽培にも挑戦していて、普段は半日以上ハウス作業に追われる毎日とのこと。そんなBさんの子どもの頃からの知人にOさんと云う人がいて、その人が今回の主人公。或る日OさんがBさんのビニール農園を突然訪ねてきた。最初誰だか分からなかったBさんも、Oさんの少し引き摺る右足を見てはたと気がついたと云う。

「もう十年は会っていなかったと思います。最後の時も偶然会って立ち話したぐらいで」Bさんは続ける。久し振りに見たOさんの姿は一見子どもの頃と変わらず生来のやんちゃさが垣間見えて元気そうだったが、その実何かBさんの感性に引っ掛かるものがあったと云う。

「どうした、今日は?」

「相変わらずだなあ、お前は」

 Oさんは微妙にズレたもの言いだったと云う。聞いてみるとOさん自身相変わらず県内有数の建設会社の営業部に勤めているらしいが、その日はたまたま近くを通りがかったので気が向いて立ち寄ったのだと云う。

「今度大きな仕事があってな、それが終わったら一緒に旅行でもするか」

 Oさんは言った。その顔を見ながらBさんは、昔からOさんが前以って決まっていたかのような喋り方をするのを思い出し苦笑した。

「いいね。考えとくよ」

 Bさんが気さくにそう応えると、Oさんは鷹揚に頷き、そして小一時間Bさんの畑を見て回ったと云う。そして別れ際Bさんが差し出した新種のトマトを手に取ると、躊躇なくその場でかぶりついた。

「おう、いいな。美味いな、これは」

 その飾りのない言葉にBさんもその時はいたく気を良くしたらしい。それからしばらくしてBさんは新聞で駅前の再開発の記事を読んだ。

「あいつが言っていたのはこれか」

 BさんはOさんの油ののった顔を思い出していた。そしてそのひと月後、Bさんは同じ小学校時代の同級生からOさんの失踪を知る。最初は他の誰かと勘違いしているのだと思った。しかしそれがどうやら間違っていないと分かると、今度は逆に突然自分のことを訪ねてきたOさんの行動に今更ながら不審なものを感じるようになった。

「昔の友だちにふと会いたくなった、と云うことではないんですか?」

 私が訊くとBさんは静かに首を横に振った。

「あいつはそんなロマンチストではありませんよ。多分あいつは私に何か言伝(ことづて)したかったんだと思います」

「言伝?」

「残された家族のこととか、知り合いへの義理。それに…、そうだ」

 Bさんはそこで急に表情を変えた。「そうか、多分そうだ」

「どうかしたんですか?」

「あいつは多分、まだ私のことを許していなかったんだと思います。あいつが右足をケガしたのは私のせいなんです」

 それは小学四年生の夏休みの事だったと云う。運動が好きだったBさんはOさん同級生たちを誘ってよく川遊びをしていた。当時はまだ近くにも水遊びのできる場所が残っていて、Bさんたちはよくそこで川魚やカニを採ったり、石投げ競争をしたりして楽しいひと時を過ごしていた。そしてその日も変わらず、子どもたちは心躍るひと時を共に過ごすはずだった。

それを誰が言い始めたかはもうBさんは覚えていない。

「あそこから飛び込もうぜ」

 そこは確かに格好の飛び込み場だった。河川堤防の脇にあったコンクリでできた出っ張り。そしてそのすぐ下には深い水の溜まり場が在った。Bさんたちはそこを「温泉」と呼んで、夏場は皆でゆらゆらと身体を浸して遊んでいた。しかしその年は例年より雨が少なく、数メートル上からの着水でも「ひょっとしたら」と云う危険な印象があった。そして実際子どもたちは皆それぞれにビビっていた。それはBさんも、そしてOさんも同様だった。

誰からともなく「言い出しっぺが先だ」の声が上がった。しかしその言い出しっぺが誰だかは分からなかった。臆病者にも卑怯者にもなり切れない子どもたちの間に微妙な空気が漂い始めたその時、Bさんは不意に口走ってしまった。「Oちゃんが先に言ったんやろ?」

 それはいつも我先に駆け出す、Oさんの性格からの想像に違いなかった。そして同じく思い当たった皆は一斉にOさんの顔を見た。

「おう、ええよ」

 Oさんは一瞬真顔になったが、次の瞬間にはもうコンクリの端けを飛んでいた。


「案の定やった。川床はまだ整備前やったし、皆より身体が大きかったのもあるかも知れん。Oは右足に大怪我をしてしまったんです」

 Bさんはまるで私に詫びるように言った。

「Oがそれでも誰のせいにもせんで、足を悪くしてからも普通に接してくれたことが、嬉しい半面私らには居た堪れない気持ちのもとにもなりました。Oは人一倍負けん気の強い奴やったから尚更で」

 Oさんは高校卒業後地元の大手建設会社に入り、順調に出世もしているとの噂だった。Bさんは実家の農家を継いだ。たまに連絡が入ることはあったが、BさんにとってOさんはいつの間にか距離をとっておきたい、そんな存在になっていた。

「Oさんの失踪の原因とかは?」

「分かりません。ただ、Oの会社はどうやらうつせみ神社周辺の立ち退きに関わっていたようで、どうもそれが難航していたと聞きました」

 うつせみ神社の名を聞いて、私はしばし考える。知人から以前聞いた話を思い出したのだ。うつせみ神社の敷地内には大昔から使われていた古井戸が今も残されていて、それは地下深くうつせみ山と水脈が繋がっているらしい。その事を思い出した。

「人によっては神社の障りって言う奴もいますが、私はあまりそうとは思いません。第一Oはそんなことには全く頓着しない人間です。それよりも私がやはり驚いたのは、あいつが残していた私物の中に例のチケットらしきものがあったってことです」

 Oさんの奥さんからそれを手渡されるまで、実はBさんは「青いチケット」の噂を全く知らなかったと云う。だから俄かにはそれを自分の幼馴染みと結びつけることができなかったが、奥さんの話ではOさんはどうやらそれらしい話を以前から口にしていたらしい。

「Oは最初それをだれかのイタズラだと思ったらしい。勝気なOは社内でも敵が多くて、おそらくその手の者が噂にかこつけてからかっているのだろうと。もちろんいい大人がそんな事をするわけもないでしょうけど」

 そう言うとBさんは苦笑した。

今でもOさんの失踪は謎のままだ。しかしBさんにとってはそれが或る意味Oさんらしいと云う。

「残されたご家族には申し訳ないんですが、Oには昔からそう云うところがあったような気がします。どこかいつも自分を演じていて、素の部分は絶対に見せない。あいつ独特の矜持だったのかも知れません」

 そう言うとBさんはすっと立ち上がった。そして傍らから包みを取り上げると、その中からトマトを二つ私に差し出した。

「あまりご期待に添えたかどうか分かりませんが、これはほんの気持ちと云うか、お土産です。よかったらどうぞ、食べてみて下さい」

 私はそれを有難く頂戴した。そしてBさんの少し猫背な後ろ姿を見送ってから、そのトマトを掌に載せて眺めてみる。

「本当は恨み事の一つでも言いたかったんじゃないかって思います。こっちだってその方がどれだけ気が済むか」

 私はBさんの去り際の言葉を思い出しながら、何だか彼のやり切れなさがその色艶に浮かんでいるような気がして、そのまま自分の手提げ袋に仕舞った。

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