ウイニングラン


「別れましょう」


 出発前。こんな日でも、朝食は用意する私。これが最後だからこそ、いつもと変わらない一汁一菜。


 ただし、デザートとして『数馬さんの浮気現場』を添える。証拠の数々を提出すると、九くんが鼻歌まじりに作ってくれた。私にとっては面白くはないものだけど、昌代さんは『またこれか』みたいな顔をし、数馬さんはわかりやすくうろたえる。


「別れるって、そんな」


 あ、そうそう。これも必要だったわね。離婚届。あとは数馬さんが書いて提出してくれればいいわ。もし提出しなかったら裁判ね。


「数馬さんはこの人を愛しているのでしょう? なら、この人と再婚なさればよろしいじゃないですか。ねえ、昌代さん?」


 数馬さんではなく昌代さんに振る。昌代さんは私の味方ではなくて数馬さんの肩を持つだろう。浮気について、私に『数馬を愛しているんだったら、この件は大目に見てやりなさいよ』と言ったこと、忘れてないわよ。


 もう愛していないのよね。

 私は。


「みづきはその、仕事の関係で」

「異性の同僚とラブホテルに入るんですね」


 写真を突きつける。ぐぬぬ、と数馬さんが口ごもった。


 みづきさん。最初見かけた時は左手薬指に指輪をしていたが、最近はしていない。向こうがサヨナラしたのなら、こっちだって、ねえ。


 私は、数馬さんを寝取られたことになるのかな。出会いのきっかけはアプリだから、そこまで運命的って感じでもないにせよ。それなりに尽くしてきたはず。なのに、こんなにショックじゃないのは、私には九くんがいるから。


「おもんない言いがかりをつけてくるような嫁とは別れたろ。な、数馬」


 数馬さんはまだ何か言いたそうにしていたのに、昌代さんがさえぎった。それから昌代さんは、数馬さんに向かって『いかに陽葵さん使だったか』を説き始める。


「みそ汁はうすくてぬるいし」

(あなた方の健康を気遣って減塩の中でもそこそこ味のいいものを使っていたのに)

「米はかたいし」

(何度も『やわらかすぎる』っておっしゃるので調整したのに)


 などなど。私の努力、何も伝わってなかったようね。なんだか悲しくなってきたわ。


「この魚なんて見なさいな。こげこげよこげこげ。がんにさせたいのかっての」

「で、でも、離婚までしなくとも……」


 何よ。籍は入れたままで、この家から出て行けっての?

 なんだか図々しくないかしら。


「確かに、君を蔑ろにしてしまったのは悪かった」


 私ににらみつけられて頭を下げる数馬さんの隣で、昌代さんが「数馬は忙しいんだからしゃあないやろ」と言い放つ。台無しよね。


「これからは君にも向き合っていく」

?」

「みづきは、その、シングルマザーで、娘さんがいるんだ」


 へえ。そうなのね。知ってますけども。……その娘さんとも会ったこと、あるんでしょう?


「孫か。ええな、孫」


 昌代さんがうなずいている。数馬さんとの子じゃないのは確定的に明らかなのに、いいのかしら。まあ、孫ではあるからいいのか。数馬さんと私との子は、数馬さんが「子どもはいいかな」って言ったせいでいないのよね。いたら今頃大変なことになっていたから、いなくてよかったわ。親権争いはいつの時代でも荒れるもの、ってドラマで学んでいる。我が身には降りかかってほしくない話よ。


「みづきとさきちゃんを支えながら、君とはこれからも」

「嫌です。お断りします」


 みづきさんもその娘のさきちゃんも残念ね。数馬さんの預金はゼロよ。彼女たちに恨みはないけど、数馬さんを狙ったのが運の尽きだったわ。


「なんや、これ。細かくて見えへんよ」


 お断りします、でご丁寧に印刷してきた預金残高を見せてあげたってのに、昌代さんは老眼が入っているから読めないのね。あらまあ。もっと数字を大きくしてさしあげたほうがよろしくて?


「置いていくので、あとでじっくり見てくださいな」


 時間だ。私はそのコピー用紙をテーブルに叩きつけて、キャリーバッグと共に家を出る。最初の目的地は、有楽町よ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夫の貯金を使い果たしたいのですが 秋乃晃 @EM_Akino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ