そしてゼロになる。

「相変わらず、一切のが見えないなあ」

「そうなのね」


 競馬の時とは、見え方がぜんぜん違うらしい。とはいっても、私には違いがわからないのよね。


 九くんが謎のに気付いたのは小学校に入る前――物心ついた時から違和感はあって、でも、本人としてはよくわかっていなかったのだと。具体的に他人との見え方の違いを意識したのは、視力検査のおかげ。私にとっては結構昔のことだから「そんなのあったっけ?」と思ったのだけど、小学校に入学する前に『就学前健診』というのがあって、それで。


「さんきゅ」


 九くんのノート型パソコンの隣に、マグカップを置く。普段何を食べているのかと訊けば「んー。カップラーメン」と答えられてしまったので、簡単なスープを作った。台所を片付けて、冷蔵庫の中身を整理して、ゴミをまとめてからだったけどね。本人の申告通り、カップラーメンの空き容器でゴミ袋はいっぱいになった。元がなんだったのか見当もつかない野菜の成れの果てや期限切れの調味料など「一人暮らしを始めたから自炊をしてみようとしたけどもうまくいきませんでした」みたいなラインナップだったわね。冷蔵庫の中身。


 若いからと思い込んでいそうだけど、このぐらいの年齢から気をつけておかないとダメよ。私の父親も、若い頃は細かったんだって、お母さんが嘆いてたっけ。今となってはすっかり中年太りで太鼓腹。


「……何?」


 ジロジロとお腹を見ていたら気付かれちゃった。


「九くん、おいくつ?」

「前に話さなかった? 二十歳だよ」


 あれこれ事情を根掘り葉掘り聞くのも、と自重していたつもりだったけども、前に聞いてたか。前に聞いてたのにまた聞くのは興味があるのかないのかわからなくなっちゃうわね。


「二十歳になって、競馬の動画を上げて、私と出会って、こうなったと」


 馬券は、というか、この国においてギャンブルは二十歳を過ぎないと認められないものね。に導かれて当たりがわかる能力を持っていたとて、それこそ学生時代の試験ぐらいでしか活用できてなかったんだとか。もし悪い大人が九くんの能力に気付いていたら、と考え始めるとゾッとする。だから、この国から逃げ出すのよね。私と二人で。


「こうなっちゃったねえ」


 パソコンの画面を二人で見つめる。取引画面だ。数馬さんに気付かれてしまった時に何の言い訳も思いつかないので、一千万を一気に突っ込むのはやめて、この一週間で地道に減らしてきた。今日の注文で、ゼロになる。このボタンひとつで、私は夫の貯金を使い果たしてしまう。


 今頃、数馬さんは昌代さんを連れて温泉に出かけたかしら。数馬さん、稼いで積み上げてきた貯金を嫁が湯水のように使っているなんて、夢にも思っていなさそうだった。ここまでやってきたくせに、最後の最後で手が止まる。


「どしたん?」


 数馬さんとの出会いは、アプリだった。私の両親は特に結婚を催促することもなかったけども、周りが恋人から家族になっていくのを見届けていたら、自然と「自分も結婚しなきゃ」という焦りが生まれてしまって。


 あの自由奔放な芦花から「相手を紹介されたから、わたしも結婚することになってん」と報告されたのはびっくりしたなあ。ちょっと照れてたのが可愛かった。元から可愛らしい子ではあったけどね。この間のパンケーキ会をセッティングしたのも、自分が結婚して東京に来る、というのを高校時代の友だちである私に伝えたかったから、らしい。こっちは離婚したいっていう話をして、あっちは結婚するって話をした。


 数馬さんは私より年上だし、しっかりしてそうだったし、私の両親に挨拶しに行くときも、まあ、おかしなところはなかった。ただ、数馬さんが自分の実家で暮らしてほしい、と譲らなかったのだけ……。今考えるとそこで「じゃあ嫌です」と断るべきだったのよね。結局、私は姑と夫のお世話係を押し付けられちゃったわけで。二人とも、私に全部やらせて、家でゴロゴロ、外でイチャイチャ。


「今更、数馬さんへの同情心が邪魔してきちゃったんだけどね」

「遅くない?」


 そうよ。もう遅いのよ。全てはこのワンクリックで終わる。明日は九くんと九くんのパスポートを窓口で受け取って、その足で空港へ行くのよ。私の両親には、お土産を山盛り買って帰国したのちに九くんを『新しいパートナー』と言えば納得してくれるでしょう。


「これまでやられてきたことを思い出したの」


 あの愛人さんとお幸せになればいいのだわ。あちらにもご家庭がありそうなのだけど、そんなの私の知ったことじゃなくて。


「このぐらいされても仕方ないわよね」

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