第2話 精霊と足りない世界

ーーラテン暦1849年6月11日 インテルリア州クルの街トゥーレス・トゥレス城ーー


 一日の内で最も気温が下がる早朝、その寒さに起こされた私は、寝巻きの上に外出用の防寒着を重ね、厚い靴下とブーツを履いて、小さな窓の外を見ると、真っ白な動物が空を横切った。銀色の杖を掴んで部屋を出る。石積みの城の壁は灰緑色の緑色片岩で硬く、城内の寒い朝を更に冷たく静まり返らせる。使用人が使う木戸から城を出ると、ちょうどその奥の石畳に「彼」が着地するところだった。

 全長は3m程、純白の羽毛に覆われ、広い翼を持つその起源の雪ウールシュネオは、この世界での唯一の友人だった。

「アンデオトーネ」

 彼は長い鼻先を私の顔に近づけて、フゥと鼻を鳴らして挨拶した。

 この世界では未だ発見されていない、中生代の肉食竜―――この世界には存在しなかったかも知れない―――にも似た、一見恐ろしげな容姿の起源の雪ウールシュネオは、実際には他の者を喰らう存在ではない。古くからの伝承によれば、アルプスの全ての生命の起源であり、その生死を司る神的存在だ。あるいはこの急峻な山々の神々の化身であるとも言い伝えられる。その姿は目撃されることすら稀だ。

「久しぶり。なんで一ヶ月も会えなかったの?」

 かくも人間社会とは縁遠く、畏怖の対象にさえなり得る存在が、私の小さな手の触れるのを許していた。その翼は起源の雪ウールシュネオという名の通り雪のように冷たく、手の熱を奪っていった。

 ―――生命の<律>が乱れていたからだ。

 「暗示アンデオトーネ」とはインテルリアの言葉で、この一帯を司っている彼が、九十年前のある伝承に繰り返される「暗示アンデオトーネ」という言葉がそのまま彼の名として呼ばれるようになったものだ。

 アンデオトーネは私の身体を包むように身を降ろした。彼の首と翼の間に腰を下ろすと、微かに水の香がして私の身体が熱を帯びた。アルプスの美しい純白の精霊が、私を温めてくれたのだった。

「ありがとう」

 おもむろに杖を取り出した私は、まず最初に簡単な魔導式を暗唱して杖を操作した。杖の細かな細工が白く光り、淡く輝く橙色の光の環を作って消えた。杖の細工―――魔導回路に組み込まれた式を用いる、基本的な魔導現象の発現方式だ。


 しかし、杖の金属板に全ての魔導回路を刻み込むことはできない。杖を持ち直して外部術式を起動する。白い筋が手を包み、思念上の術式を読み取っていく。魔導回路のあちこちが光と熱を帯び、外部術式を動的に変化させる。石畳に落ちていたアンデオトーネの白い風切羽を摘んで、術式の依代として指定する。

 風切羽は白く輝く環の中で垂直に立った。その先から一本の光線が走る。その光線を軸に、杖の周囲に畳まれていた外部術式が展開していく。術式は幾重にか重なった大小の環からなり、この光る大小の環が連動して形を変えていく。術式保持のための第二放出系が途切れ、―――白い風切羽の一点に熱を集中させる。

 アンデオトーネの風切羽は小さく煌めき、ボンとくぐもった衝撃音がして、外部術式は霧散した。与えられた熱をものともせず形を留めた純白の風切羽が地面に舞い降りた。

 この世界の現象には、理解の埒外にあるものが多すぎる。この時代に生きる私が、その生涯の内にこの世界を規定する法則を知ることはない。それは、今世とは何もかもが違う異世界を知る自分に定められた運命の一つだった。

 私の身体を包んで目を閉じていたアンデオトーネが首をもたげた。私には気付けない空気の変化を察知した彼が目に見えない風になって上空に去っていった一瞬後、使用人筆頭のアウルスが木戸を開けて私を見つけた。

「マイア様、こんなところにおられたのですか。風邪を引かれでもしたら、イゥリウス様が嘆かれます。お戻りください」

「分かりました」

「恐縮ながら、朝食は冷めてしまっています。新しく作り直しますので、少々お時間が掛かります」

「いいえ、先に作っていただいた朝食を頂きます」

 陽が空に昇り、城内には暖かい空気が戻っていた。


>>


 小さくも豪奢な食堂で一人、冷めたパンを頬張りながら窓の外を見ていた。眼下には赤い屋根が並ぶ小さなクルの街があり、その向こうは緑に覆われた緩い崖だ。高地らしい紺青の空は高い尾根に削られ、見上げなければ目に入らない。

 私は生まれてこの方、ヘルヴァティア連邦でも奥地の故郷インテルリア州を離れたことはなかった。私はこの世界について何一つ知らない子供で、十数年後にはそれが無力な女性になるだけだ。


 数年前、私は自分の生まれた世界を「知った」。人々が国境で隔てられた世界。人民による共和制が存在しない世界。多くの社会設備が欠けている世界。有効な医療が存在しない世界。戦乱が絶えない世界。そして、女が排除された世界。

 当時の私の失望は深く、今もその鬱屈した将来像が頭の中を占めている。


 州領侯の娘とは、この時代において最も恵まれた身分の一つであろう。住民からの支持厚いインテルリア家が没落する可能性は極めて低く、将来に渡って安定した裕福な生活が約束されている。幼い内は父親の庇護化に置かれ、年頃になれば相応の家柄の、国内外の家に嫁ぎ、その庇護を受ける。これ以上に不自由なき人生は望み得ないのだろう。

 しかし、と私は思う。

 この全てが足りない世界で、私は生まれながらにその世界への交渉権を持たない。私の精神そのものは社会の蚊帳の外に置かれ、生涯を通じてインテルリア家の息女に留まり続ける。自分の持てる何かを、第二の故郷に供出したいという願いでさえ、叶わない望みだ。私にとって、。私の世界は、美しい谷々に閉じ込められているのだった。


 一時遅れた朝食を摂った私は、手持ち無沙汰に城内を歩き回った。重い扉の正堂から三本塔の使われていない小部屋、裏口の鳩小屋まで、小さく古い城の全ての場所は随分前に何度も訪れていて目新しいものは何もなかったけれど、自分の家を見て回る他にすることはなかった。

 渡り廊下を歩いているとガラガラと車輪の音がして、木戸から出てみれば案の定、馬車が裏に停まるところだった。荷台には小麦粉の麻袋、豚の腸詰めヴルストの連なり、色とりどりのチーズ、野菜や根菜、栗の籠、砂糖の袋、と城の一週間分の食料が積まれている。

「降ろすぞー、落とすなよ」

「はいよ」

「おぉ、綺麗なワインだ」

「ズーリク州産か?」

「ルテティア産じゃないのか」

「これは……イタリア産だ」

 おぉ、と歓声が上がる。

 木戸が背後できぃ、と開く音がして、鈴のような女性の声が私を呼んだ。

「マイア様、こちらにいらっしゃったのですか」

 使用人の一人、モレーナだ。「主人の娘」として私を扱うアウルスと違い、彼女はインテルリア家の者全員に仕えていた。私と行動を共にすることが多いのは彼女であり、私に対して冷淡な使用人筆頭のアウルスに冷遇されても気丈な、強い女性だ。

「どうしたのですか?」

「コーネリア様がお呼びです」

「母上が?」

「はい。近頃のマイア様の行動は目に余る、と」

「そうでしたか。探していただき、ありがとうございます。すぐに参りますので、安心してください」

「よろしければ、ご一緒しますよ」

「いいえ、だいじょうぶです」

「左様ですか」

 モレーナが不安げな顔で城内に戻る私を見送るのが分かった。

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ヘルヴァティア―――銀白の連峰、魔導立国 雲矢 潮 @KoukaKUMOYA

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