ヘルヴァティア―――銀白の連峰、魔導立国

雲矢 潮

第1話 生まれた世界と魔導学

ーーラテン暦1849年6月10日 ヘルヴァテイア連邦インテルリア州エクスキの谷ーー


 自分が二度目の生を受けた世界は、生前では想像もつかないようなものだった。世界政府どころか、産業革命も起きておらず、強力な国家体制さえ確立されていない、自分にとって歴史の中の世界だ。大陸西端のこの地域には封建制の跡が色濃く残り、小国に分裂して半島のこまごまとした勢力均衡を保っている。

 その混沌の小国群の一国、ヘルヴァティア連邦が、第二の人生の母国だ。弱体化した北方の「帝国」から独立したのは比較的近年であり、建国時の英雄が未だに口を利いてすらいる。急峻なアルプス山脈の山麓にその拠を構え、谷間でのほそぼそとした移牧と農業を生業とする人々の国である。同時にこのアルプス越えの要所を複数抱える、交易の拠点でもある。

 気候は年中冷涼で年較差が小さい割に高山ゆえ昼夜の寒暖差が大きい、いわゆる高山気候が広がっている。ともかく、険しい山々の斜面アルプには、低地では見られない草花が続いている。


 風が吹き通るその斜面に立ち、幼い自分はその父の手をしっかりと握りしめて、眼下の村を見つめた。

「行くぞ、マイア」

 今世での父イゥリウスが左手で「杖」を掲げるのに倣って、自分が右手に持つ、その小さな手には少々似合わない銀色のそれを持ち直した。螺旋になった細長い鉄の板は美しい曲線を描いていて、その表面はびっしりと細工が施されている。内部に格納されている純白の小球が微振動し、杖の細工がチラチラと白く光りだす。

 握る手の力を強め、「起動」する。純白の小球―――杖の魔導核の辺りから銀色の筋が何本も飛び出して、杖と右手を包み込んだ。


 父は自分を振り返ると、手を引いて走り出した。転げないよう、父に合わせて斜面を駆け下りる。冷たい空気が耳を切り、伸ばした髪をはためかせる。

 そして、地面を踏む感覚が消えた。

 身体が白い光の筋に包まれて、父と自分は、空を飛んでいた。

 谷間のエクスキの村の上空を通りすぎ、向かいの斜面が近づいてくる。

「ぶつかるっ」

 衝突する直前で、父が自分を引き上げた。そのまま斜面すれすれを飛びながら、分水嶺まで上がっていく。


 風の強い頂上で、再び地面に足を降ろした。

「掴めたか?」

「まだ、完全ではありません」

「それでいい」

 そうしてイゥリウスは南の連峰に顔を向けた。氷河に侵食されて刃のように鋭利な尖峰が連なっている。

「完璧であろうとするな。最初から完璧など不可能だ。敢えて言えば、こと魔導学において完璧は存在しない。創始されて間もないのだ。協会の重鎮のような手合いでさえ、未だヘルヴァティア学派の目的を達成できてはいない」

 この半島で広く用いられるフランク魔術の学術派閥ヘルヴァティア派の目的の一つは、魔術発現の外部化であった。ヘルヴァティア連邦の独立以前に水魔導核が発明されたことでこの目的は達成された。魔導核の発明は正しく革命であり、個々人の魔術の才に依らない魔術発現を実現した。これは更に、人の手を借りずして魔術発現する機関の発明にも繋がった。

 一方、ヘルヴァティア学派のもう一つの目的は、「普遍的な魔術の記述」である。魔導現象はこの世界の隅々にまで存在しているため、魔導学は果てなき道を辿ることになる。

 一人の人間には、魔導学を完璧にすることはできない。

 そう分かっていても、旧来の性質はなかなか抜けない。いっそ無邪気な子供の方が吸収が早いのではないかとも思えてくる。

 彼の言葉は自分にとって重要な規範となるだろう。

「完璧であろうとするな、胸に刻んでおきます」


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ーー同日 インテルリア州都クルの街ーー


 帰宅した二人を待っていたのは、不機嫌を隠そうともしない壮年の男だった。

「州領侯殿、またご息女を連れ出してのお勉強会でありますか」

 父の古くからの友であり、側近である彼の問責に、イゥリウスは軽く返す。

「そうさ。優秀な彼女にちょっとした手助けをしてやるだけだがね」

「貴方には州領侯としての仕事があるでしょう」

「それは私でなくてもできることだ。アウルス、君も牧童の出身なら長い目で見たまえ。優秀な若者を育てることは、州の、ひいては連邦の利益になる。この国は能力主義に依って産まれたんだ」

 彼の言葉は、確かに正しい。しかし、根本的な問題を無視していた。側近アウルスが、それを指摘した。

「ご息女は、女です。女に学問ができても、どうしようもない」

 生前の世界であれば、アウルスのその言葉は飛び出してこなかっただろう。残念なことに、ここは別の世界で時代も異なる。女は社会の要職に就くものではなく、それは男のものだ。ヘルヴァティア連邦の制度も、女が人の上に立つことを認めていない。

 魔導学協会の学徒としてスタニスの街へ出ることも、街の職業組合に入ることも許されていない。まして、盟約騎士団に入ることも、州領侯の跡継ぎになることもできるはずがない。

 どんなに優秀で、能力があっても、である。

 アウルスが性差別主義者なのではなく、そういう文化、そういう時代、そういう世界にいるからなのだ。彼は当たり前のことを述べたに過ぎなかった。

 魔導学を学んでどうこうしようという気はない。自分にとってあまりにも不自由で歯がゆい第二の人生の、数少ない慰めだった。


 クルの街を見下ろす、小さな塔状の城の一室で、父が内密に譲ってくれた魔導書を開く。活版印刷技術が確立しているとはいえ、識字率の低さゆえに、本という情報媒体は絶対数が少ない。貴重であるので、その管理は厳重だ。酸化防止処置、防腐処置を施して、虫が付かないよう清潔な環境に保管する。毎朝、状態を確認し、損傷があれば丁寧に保管する。開く場所は埃を払った所定の机。油の入ったランプは少し遠ざけて置き、ゆっくりと重たい紙の束を捲る。

 この本は、ヘルヴァティア学派およびその後を継いだ魔導学研究の集大成であり、重要な事項が所狭しと並んでいる。自分の、独学の魔導学履修はまだまだ道半ばだ。魔導学が根を下ろす世界は広く、古代ヘレンの数学から、東方の医学までを網羅的に取り込んでいる。これは古今東西の魔術を統合したヘルヴァティア学派の成立に由来している。世界各地の魔術はその依拠している理論が様々で、幾何数学を元とするものもあれば、言語化が困難な音の技術に支えられるものもある。ヘルヴァティア学派は、そこまで踏み込んで魔術の共通点を探ろうとしたのだった。

 同時に、魔術発現の外部化成功で新たに創始された魔導学以降の、技術的な内容も落とし込まれている。原始的な水魔導核から、高度な製鉄技術に支えられる杖の構造と製造過程、あるいは巨大で複雑な魔導機関の原理と応用まで多岐に渡る。

 それは、世界の全事象を記述しようとする無謀な試みの成果であり、魔導学という無限の街道の最初の道標である。

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