エンドロールが聞こえない。第四話

 一眞兄ちゃんが買ってきてくれたラムネを、廊下側のガラス戸を開けて三人で飲んでいた。あかるとした“あの話”から、どれくらい経って兄ちゃんが帰ってきたのか分からない。ただ、時計の針だけが動いていて、ぼくの時間は動いていなかった。三人ならんで廊下に座り、足を庭に投げ出す。すこしだけ冷えた空気が足の裏から熱をうばっていく。左隣の藤原は目を閉じて微笑み、何か考えているようだった。


「すごいお庭」


 藤原は何にでも感動する。この細長い庭にも、土塀のカビにも、石についた苔にも。何かを発見するたび、シャッターを切るようにまぶたをパチクリさせていた。


「関口くんっ、これどうするの?」

「ラムネ、飲んだことないの?」


 ちいさな手に握られた透明の水色でできた瓶。ふたは栓の代わりにビー玉がはまっている。縁日でラムネを飲む時は、いつもお父さんがやってくれいていた、と、やわらかく笑う藤原に瓶の開け方を教えた。きみが球押しをビー玉に当てて、叩く。かしゅっと勢いよく落ちるビー玉と一緒に、すぐに手を離してしまった。


「あっ、しばらく押さえてないと!」

「わーっ!関口くんっ、関口くんっ!?」


 瓶からあふれ出す泡。きみは縁側から素足で庭に飛び出て、ぱたぱたと泡から液体に戻ったラムネがつま先や地面に落ちていく。


「足………濡れちゃった」

「残念がるところ、そこ?瓶の中、見てみなよ」


 大きく目を見開き、どうして?と潤んでいく瞳。きみの雑な扱いにラムネの約半分が瓶から脱出することに成功したのだ。庭下駄を引っ掛けて、藤原のもとへ行き「それ貸して。こっち飲みなよ」と瓶を取り替えたものの納得していない様子だったから「こっちがいいの?」と聞くと、ちいさく、こくん、と頷き「初めてっ、自分で開けたラムネだから」と笑う。こんなこと……どうして、そんなに嬉しそうなんだよ。


 兄ちゃんが持ってきてくれたタオルで足を拭いた後、どうせ洗濯するのに藤原はていねいに畳み「ありがとおございました」とお辞儀をした。それを受け取る兄ちゃんが「藤原さん、丁寧にありがとう」と言った後、ぼくを見て「眞昼もこれくらい礼儀正しくしないとね」と頭をくしゃくしゃにしたのだ。


 ぼくと兄ちゃんの部屋から、かすかに風鈴が鳴り、部屋の熱をうばった空気がすこし温い風として背中と頬をやわらかく撫でる。一眞兄ちゃん、ぼく、藤原、三人が座る長い板の廊下。ずっと前から、こうしてあるように、やさしく、静かにある光景。細長い庭を眺めながらの夕涼み。


「お庭に桜があるなんて珍しいですね」

「藤原さんは物知りだね。山桜だよ」


 桜が珍しいの?と、きょとんとしていると、兄ちゃんが「桜はパッと咲いて、パッと散る。葉も落ちるから縁起が悪いとされているんだよ」と教えてくれた。左隣から、ぼそっと、桜の木の下に死体が埋まっているから栄養が沢山あってよく咲くの、と、白いワンピースと白い肌におおわれた身体から鳴る、澄んでいて、抑揚の無い、とろんとした声。


「し、死体っ?」

「柳田國男の影響があるかもしれないけれど、梶井基次郎は<櫻の樹の下には屍体が埋まっている>と書いた」


 江戸時代まで桜という木はめでたいものとして、古典文学や絵にもよく登場する。一方で古戦場や墓地の近くに多いという俗説もあり、民俗学的にも死生観との結び付きが強い。


「桜が咲き、人間が集まるという事は……統計を取れば、他の木より生きていない人間もまた多いのかもしれないね」


 そんな話にぞわっとして背筋が伸びた。兄ちゃんが目を閉じて、穏やかに微笑み「本来の死生観が文学や文化に落とし込まれる際、どこかで二律背反、隣り合わせで存在する相容れない価値観として分離し、再構築されたとも考えられる」とラムネを口に運んだ。


 この庭の桜が、死体を栄養に………。


 夕方五時半の町のチャイムが藤原の筆記用具をリュックに収めさせていく。机の上に落ちている消しゴムのカスを、手で集め「ごみ箱はどこですか?」という声に、兄ちゃんが微笑み、綺麗にしてくれてありがとうね、と、ごみ箱に捨てるちいさな背中を見て、またすこし笑う。


「今日はありがとおございました。それでは帰ります」

「うん、またおいで」

「じゃあ、門まで……」

「眞昼、ちゃんと送りなさい」


 夏の空はまだ青かった。遠くの稜線、そのまた向こう、高く溢れるように湧く黒い雲の中で光が走る。積乱雲。大きくなるものは飛行機が飛ぶ高さを超えるらしい。いつもは友達とばたばたした足音を響かせる夏の夕方に、今日という夏の夕方に、ちいさな、ちいさな足の音がひとつだ。きみの顔を見ようとしたけれど、大きな帽子でよく見えなかった。


「「あのっ、今日はっ」」


 立ち止まって目を大きく開き丸くし、見つめ合う藤原とぼく。ふたりの声が重なった。驚いて吸い込んだままの空気を、肺から解放するタイミングまで一緒だった。


「きょ、今日は、ね?……………ありがとお」

「……うん」

「ご、ごめんね?」

「………何が?」


 そう言ったものの藤原が言った『ごめんね』の真意は分かっていた。分かっていて何も気にしていないフリをした。蝉の鳴き声が静かになり、心、騒ぐ。心臓を壊しそうな脈の打ち方から、ざらざらとする不快な肌触りの感情に胸が締め付けられる。


 ……………なんだか、ぼくは汚らしい。

 ぼくは藤原の目一杯の気持ちを悪く使おうとしていないか?


「今日は、わたしの気持ちを聞いてくれて、ありがとお」

「いや……えと、中学まで待ってとか…、わがまま言って………ごめん」




「ううん。関口くんにも気持ちを整理する時間は必要だから、謝らないでほしい」


 しっかりと受け止めてくれたことだから、と、ちいさな藤原が、そのとろんとした声と水分を多く溜め込んだ瞳で真っ直ぐに、ちいさくも膨よかなくちびるをやわらかく噛み、微笑んだ。


きん、きりりん、きりん。


 窓の外で夜風に揺れた風鈴が鳴っていて、風鈴のような虫の音が鳴っていた。窓の隙間からやさしく入り込んできた風が体温をすこしうばう。直接、風が当たらないように斜め上に向けられた扇風機が首を振っていて、ぼくの左目に筋になっている月の光が照らす。どうしてだろう。あんなことがあったのに、心臓が静かだ。


「兄ちゃん、起きてる?」

「起きているよ、どうかしたの?」


 今日、兄ちゃんがラムネを買いに行っている間に藤原に告白されたんだ。兄ちゃんの言った通り、やっぱり藤原はぼくのことが好きだったんだよ。でも、ぼくの中にある藤原への気持ちは…………………静かだった心臓が急に騒ぎ出して、言いたいこと、聞きたいこと、それらを言葉にしてくれない。


「……えっと、ラムネ…………ありがとう」

「うん」


 敷布団が擦れる音。兄ちゃんが横向きになり頬杖をついて、微笑む。


「眞昼、恋には気を付けなさい」

「っえ?」

「自覚があるのか無いのかは分からないけれど、その内、恋に飲まれそうになる事もあるだろう」


 抽象的で、何のことを言っているのか分からない言葉の羅列。いくつかの単語が抜けているだけで、一眞兄ちゃんが何を言いたいのか分かっていた。だから、


「兄ちゃんっ、ぼくを嫌いにならないで!あとっ、母さんにも言わないでっ」

「うん、嫌いにならない。誰にも言わないよ」


 ぼくは藤原の好意に対して、どう答えたいのか分からない。それなのに藤原をどうにかしたいとか、藤原とどうにかなりたいとか、藤原がどうにかならないかとか、そういうどろどろとしていて汚い考えだけが、頭の中やお腹の底でぐるぐると熱をもって動いているように感じるんだ。


 しゅっ、と鋭い衣擦れ。肘枕をした兄ちゃんが「眞昼はまだ恋の力が、どれ程強いものか知らないだけだよ。その力で藤原さんを傷付けるのが怖いんじゃなくて、眞昼が傷付くのが怖い。違うかい?」と、こちらを真っ直ぐに見ている。その通りだ、と、息を呑み、止めて、やはり悪いことなんだとタオルケットを頭にかぶった。


「眞昼が汚らわしいと思っている事を藤原さんにしたいと思うのは、おかしい事じゃないんだよ」




「…………ほんとう?」

「うん、本当だよ」


 おかしいのだとすると、相手の感情、立場、尊厳を無視してまで、それらをしようとする思いや考え、行動は穢らわしく、忌むべきものだ。


 そう言うと、いつも通りに「すぅ……」と寝てしまった。


 こんな日の夜に藤原は眠れている?


 ぼくは……、




 ぼくのひと言で『彼女』になるかもしれない日を送る夜に、静かに眠れているの?


「こ、こんにちはっ」


 三日後に藤原が課題をやりに来た。この約束は二日前、つまり“告白”の次の日に電話がかかってきてした約束だから、ぼくも彼女に合わせるように宿題を進めていた。靴を脱ぐ背中は、やはりちんまりとしていて、薄らと汗をかくうなじは折れそうなくらいに細い。こんな細い首であんなに激しくお辞儀をして、よく頭が取れないな。改めて、そう思う。


「こんにち……あれ?」

「ああ。兄ちゃんなら朝から出掛けてるよ」


 麦茶を取りに台所へ。冷蔵庫から硝子のボトルを出してコップに注いでいく。琥珀色のそれがすこし溢れたから布巾でテーブルを拭いた。お盆に乗せて、溢さないように廊下を歩く。あ、襖……閉めなきゃ良かった。


「藤原、ごめん。襖開けて!」

「ひゃっ!?えっ、あっ、あ!はいっ!」


 今の声は何だろう?ぱたぱたと畳の上を焦る足音。すっと開かれる襖と現れた藤原の顔は赤くて、右腕で口元を隠すようにしていた。勉強を始めても、何だか、藤原の様子がおかしい。………もしかすると“ぼくが彼氏になるかもしれない”と意識しているのかな。きみのおぼつかない手元が、消しゴムを取り損ねてテーブルから落ちる。それを取ろうと追いかけ、手が、指が、藤原のちいさな手、細い指と、ぼくの手が重なった。


「ご、ごめん、なさいっ。取ろうとっ、思って、ねっ?」

「あっ、いや。うん。ぼくも、お、同じ……」


 そのまま、ぼくも藤原も、互いに手をどかさないのは、どうして?


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第四話、おわり。

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