エンドロールが聞こえない。第三話

 夏休みに入って乱れかけている起床時間に起きるどころか、今日は学校に行く時よりも早い七時前には目が覚めていた。布団の上に座り、ぼやけている視界に焦点が合うのを待つ。一眞兄ちゃんの布団はもう無いから母さんの手伝いをしているのだろう。いつもの食卓、いつもより早い、朝一番のぬるい麦茶。新聞はじいちゃんから父さん、そして、兄ちゃんに回っていき、またじいちゃんに戻る。母さんと兄ちゃんが朝食を運んできて、朝ごはんが始まる。いつもより一枚多いベーコンを食べていると母さんが「眞昼、今日はあなたが廊下の雑巾掛けをしてね」と言った。だから、じいちゃんとばあちゃんを見て「どこかに行くの?」と聞くと、ばあちゃんが「ただ少し脚が痛いだけなのに、一眞が」と笑うのだ。その笑顔を遮るように兄ちゃんが「駄目だよ、ばあちゃん。身体は大切にして」と、すこし怒ったような声をあげた。いつもの朝、いつもの朝だ。


 長い板の廊下の端に水が入ったバケツを置き、雑巾を使って向こうの端まで走る。それを何往復かしたら、今度は乾いた雑巾で水気を取る。とても古くて、すこしぎしぎし鳴るのに板がつやつやなのは、じいちゃんも、ばあちゃんも、父さんも、兄ちゃんも、ずっとみんなで磨いてきたかららしい。この家は、ぼくたちの家のようで、ぼくたちの家ではないんでしょ?それなのに、どうしてここまで大事にするのだろう。水拭きを終えた廊下、振り返ってバケツのあるスタート地点を見た。開けたガラス戸から雲に反射した青と白の光が廊下の黒い板に映り込み、ちりん、ちりりん、ちりん、と、風鈴の音がする。ここにある静かを裂く、けたたましく鳴り響く電話のベル。玄関まで急かされ、大きく重い受話器を取った。


「はい、関口です」

「あ……っ!せっ、関口眞昼くんのお家ですか?わわわたしっ、藤原と言い……」


 一所懸命な声が、この黒くて大きな受話器の、その先のくるくるした線のまた向こう、電線の向こう側からぼく宛に鳴っていた。


 じいちゃんに怒られることなんか忘れ、廊下をバタバタと走り部屋の襖を「に、兄ちゃん!」とかあさんに怒られる勢いで開くと、あぐらをかいた脚にまた喉を鳴らす猫を乗せた兄ちゃんが「今の電話、藤原さんかい?」と微笑んでいた。


「あ、うん。………どうして、分かったの?」

「眞昼の声を聞いて分かったよ」


 誰かを想うあまりに声が変わる。そして、その声の中でも特定の人にしか出さない声がある。そんな馬鹿げた事があるなんて、この時は知らなかった。だから、一眞兄ちゃんに電話相手を当てられたのは兄ちゃんが魔法を使ったからだと思っていた。


 お昼ごはんが喉を通らない。飲み込もうとしても、きゅっと喉が締まっているから詰まって苦しい。いつも食べ残しにうるさい母さんが「眞昼、食べられないのなら残してもいいから」と微笑む。そして、兄ちゃんと母さんが目を合わせ「眞昼がねえ」と、くすくすと笑うのだ。それを横目に笑いごとじゃないのにと、こんなこと初めてなのにと、大好きなナゲットだけは全部食べることに成功した。


「こ、こんにちは!」


 ちんまりとちいさな藤原が大きく真っ白な帽子を被っていたから、余計にちいさく見える。そんなに大きな帽子をかぶり、太陽を避けてきたはずなのに頬は赤くて汗をかいていた。玄関の式台に座り、靴を揃える後ろ姿。その背中も、またちいさい。真っ白なワンピースが、学校に着てくる服や図書館で会った時に着ていた服と、なんだか違うように思う。


 今朝、ぼくが雑巾掛けをした長い板の廊下を、ぎしぎしと歩く、ふたり分。


「すごい………大きな梁」

「え?」


 振り返ると天井の梁をすこし開けた口の藤原が見上げていた。どういう理由だったか思い出せないけれど、その梁はわざと低い位置を通っているのだと兄ちゃんが言っていた。しっかりと覚えていれば、梁なんかに口まで開けて感動するきみに、もっと感動をあげることができたのかな。


「古い……でしょ。うち」

「すごい、ですね。こんなお家に住んでみたいです」

「でも、何だか勝手に触っちゃいけないとか……うるさいよ」

「文化財登録されていますよね?」


 そう。なんとか文化財。教科書で読んだことがあるけれど、これもまた、しっかりと覚えていなかった。大きな瞳できょろきょろとし“住みたい”とまで言った藤原に「でも、この廊下も、ぎしぎし鳴ってうるさいよ」と苦笑いする。すると「これもすごいです。わざと鳴るように張っているんでしょう?」と軽く足踏みをして床を鳴らし、また感動した様子だった。わざと?床が鳴るのは古いからじゃないの?何も知らないぼくが、この家に住んでいるなんて、なんだか無性に恥ずかしくなってくる。廊下のすこし奥で襖が開き、兄ちゃんが部屋から出てきて「やあ、藤原さん。いらっしゃい」とやわらかな声。その声に、また頭が取れそうなくらいに「こっ、こんにちはっ。おじゃましましゅっ!ちがう!します!」と言葉を噛みながら、何度もあせあせとお辞儀をする仕草に、すこし、すこしだけ、可愛い、だなんて思った。


ちん、ちりりん、ちりん。


 夏の暑い昼が窓枠の向こう、すだれの隙間から見える向こうにある。ぬるくなった風が風鈴の玉を揺らして鳴らす。扇風機が首を振り、三人平等に与えられた夏の不快を取り除いて、透き通った琥珀色の麦茶を入れたコップが汗をかいている。真剣に鉛筆を走らせる藤原が、汗ですこし湿った髪をかき上げて耳にかけ、それから下唇をすこしやわらかく噛んで、ちいさく舌で潤す。一方で、ぼくのノートの上にある行間はなかなか埋まっていかず、宿題をやっているふりをしているだけだった。


「……だめだ。暑くて進まない」

「眞昼、そんなに暑いかい?」

「うん。なんだか」


 藤原の仕草に壊れそうなくらい心臓が打つから頭がぐるぐるする。それに気まずくとも情けなくなって、嘘を、吐いた。だから、一眞兄ちゃんは、


「そうだな、ご褒美にふたりには冷たいラムネでも買ってきてあげよう」


 いつも、ぼくの嘘に悲しそうな顔をする兄ちゃんが、やわらかく微笑んで部屋を出て行ってしまう。ぼくは、とても悪いことをしているんじゃないのか。嘘が苦手な一眞兄ちゃんを騙して、ラムネを買いに行かせる。そんなのとても悪いことだ。胸がきゅっと締め付けられて、お腹の底が熱を持っていく。


「っん。あ、ありがとお」

「え?な、何が?」


 顔を上げると、とろんとした大きな目がぼくを見ていた。ありがとうって、どういうことだろう。ラムネのことかな?


「あっ。えっとねっ、図書館の、本を借りてくれて、ありがとおって」

「ああ、そういうことね」


 いつもの藤原の抜けた話しかたに救われ、身体中にしがみ付いていた緊張や罪悪感というやつらが畳に落ちていったから力が抜けた。麦茶の入ったコップを持ち上げると耐えきれなかった滴が、ぽたぽたと落ちてテーブルの上で震えている。同じく、藤原もコップを持ち、コップの縁がやわらかそうな唇に少し甘噛みされ、琥珀色の液体が身体のなかに入っていくのを見ていた。


「おいしい」


 藤原の頬が赤いのは、この部屋が暑いから?それとも。

 藤原の首元に薄らかく汗は、季節が夏だから?それとも。

 藤原のやわらかそうな肌は、半袖のワンピースだから?それとも。


 たくさんの変な……想像と、たくさんの切ない感情が入り乱れて、ぼくの心のなかが分からなくなる。これらが兄ちゃんの言った“恋”というやつなら、とてもじゃないけれど良いものには思えない。なんだか、とても汚らしいものだ。


「えと……………あのさ。藤原。その、前にも……聞いたかもだけど」

「何ですか?」


 藤原、その余裕はどこからくるの?テーブルに、ちょこんと乗せたちいさな手が、ぼくの手みたいに強張っていなくて、やわらかで震えていないのはどうして?


「よく、ぼくを見てる……よね」


 いつも大きく開いていて水分を多く含んでいる瞳がゆっくり閉じられ、とろんとしている声が澄んだ音で鳴った。


「はい。見ています」


 ごくん、唾を飲み込んだ喉が大きく鳴った。いつも曇りガラスの中にいるように佇んでいて、声がとろんとして、言葉がふわふわしている藤原が、感情を正確に伝える七文字で真っ直ぐに見つめていた。ぼくは瞬き多く耐えられなくなって、テーブルの角、コップ、部屋のコンセント、ゴミ箱、と、次から次へと視線を移していく。


「でも……っ、え、えと……。どうして?」

「好きだからです」


 藤原はちんまりしていて他の女子より二学年は低く見える。肌が白く、いつも頬がほんのりと赤い。大きな目はとろんとしていて言葉や声もふわふわとしている。そんなきみが夏の太陽光のような言葉を使った。その暑さで、からからになった喉が張り付いて、声が出なくなる前に「い、いつから?」と聞くと、すこし微笑んでから「幼稚園の時から好きなの」と答え、ゆっくり目を閉じる。


 入園したての春。外で遊び、教室へ入る前に手を洗うために並んでいた。だけど、そんな歳の列なんてものはあってないようなものだ。案の定、手洗い場はごちゃごちゃして、藤原はなかなか手を洗えずにいた。その時、ぼくが順番を譲ったらしい。突然の出来事に慌てて手を洗い、慌てて手を拭こうとしたから、みんなが飛び散らかした水道水でびしゃびしゃになった廊下にハンカチを落としたのだという。慌てて拾おうとした藤原に、ぼくが「拾っておくから、これ使って」とハンカチを渡して、びちゃびちゃに濡れ、汚れたハンカチを拾ってくれたのだと言った。


「そんなこと……?そんなのあったっけ?」

「はい。ありましたよ」

「ごめん、覚えてない」

「いいの。わたしが覚えていますから」


 その出来事以来、ずっとぼくは藤原の素敵な男の子なんだという。そして、


「関口くん。わたしとお付き合いをして下さい」


 とろんとした大きな瞳に目一杯の光を蓄えて、ぼくの目を見て言う。付き合う?付き合うって、何?恋人になるってこと?藤原がぼくの彼女になるの?たくさんの『?』と、たくさんの想像が頭の中をバタバタと走り回り、はしゃいで、廊下を走ってじいちゃんに叱られた幼稚園児のぼくが、今のぼくを見て笑っている。


「答えは、すぐじゃなくてもいいです」

「………あ。えと…………うん……でも…………」

「ずっと、わたしの“好き”を知っていてほしかった」


ちん、ちりりん、ちりん。


「っ………中学っ!になったら!返事するっ。それでもいいっ?」

「……っ、はい!待っていますねっ」


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第三話、おわり。

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