エンドロールが聞こえない。第五話


きん、きりりん、きりん。


 ただ重ねていた手を互いに密着するように動かした、と思う。くっついていた指を、すこし絡めるようにした、と思う。見つめあう顔が真っ赤になっていたと、思う。心臓が強くはやく打って、喉が乾いていると、と思う。息が熱い、と思う。ごくり、と、音がしたけれど、それがぼくか藤原が飲んだ唾の音か分からない。ぜんぶ、どちらのものなのか分からないくらいに互いを意識していた。ぼくはきみに言わなきゃいけない言葉があるはずなんだ。でも、頭のなかに浮かぶ数多のどれなのか分からない。手を重ねるその先なんてものが走りまわる。ふと、どこからか一眞兄ちゃんの声がかすかに鳴ったような気がした。眞昼、恋を間違っちゃ駄目だよって、そう言われた気がした。


「ふっ、藤原に……触れられるのはっ、うれしい。でも!」


 どうしてだろう?どうして、こんなに情けない気持ちになって体が震えるんだろう。ぼくは恋というものの使い方を間違わないように教えてもらって、考えて、言葉にしているだけのに、どうして、こんなにも怖いの?何か間違っているの?どうして、藤原は溢れそうなほどに涙を溜めていくの?見ていられなくなって視線を重なる手に落とし、意を決し目をつむって言葉を続けた。


「ぼ……ぼくらはまだ付き合って、いないっ、から!触れ合うとか………こういうのは!」

「…………ごめんなさ…ぃ」


 藤原の弱々しくちいさな鈴が鳴き、急いで目をひらく。重ねていた手は、いつの間にか居なくなっていて、藤原の顔の前で震えるその手を反対側の手で押さえていた。大きな目から降り出しはじめた夕立ちみたいな大きな涙が、ぽろぽろと落ちる。


「ごめんなさぃ、ごめんなさいっ、ごめんなさい!わたしっ、関口くん、困らせたっ!ごめんなさい!」

「いやっ………あっ、いやっ!」


「わたしっ、最近ずっと!ずっとずっと変なのっ!関口くんに伝えたいことが、まだまだたくさんありすぎてっ!大きくなって!抱えられなくって!怖くってっ!」







 言葉だけじゃ伝えられない、伝わらないことがあるの、足りないの。

 わたしは………どうしたらいいですかっ?


きん、きりりん、きりん。


 恋は良くも悪くも人を強くする。だから、恋を間違えてはいけない。全身の力が抜けて、泥みたいになって、熱を抱え込む。藤原は“恋の使い方”を間違ったのかな。ぼくたちは間違いながら色々なことを覚えていくのだと先生が言っていた。恋もそうなのかな。テストや宿題に赤ペンでバツをつけられるように、気持ちにたくさんのバツを付けながら“恋の使い方”も覚えていくのかな。これから、そんなことが山ほどあるなら、そんなことに耐えられるのかな。


「に………兄ちゃんが……さ」


 大きな涙をたくさん落とすきみに、どんな言葉を伝えればいいのだろう。“恋”という強い力を間違って使わない為に、一眞兄ちゃんから教わったことから、何かを、学べ。


「がっ、学校でさっ。保健の授業がっ、女子と男子が別々になって………それから!」


 頭の中で言葉が行ったり来たりする。ぼくは何を話しそうとしているんだろう。兄ちゃんから教わったことを、ちゃんと理解して話せているかな。ぼくの気持ちを話す知識にまでなっているのかな。目の前で大粒の涙をぼろぼろ落として「関口くんに触れたかったの」と言うきみに、ぼくの言葉で、ぼくなりのまだ触れちゃいけない理由を、気持ちを、いっぱい、伝えなきゃいけない。


「ぼ、ぼくも藤原に触れたい。それだけじゃないっ。あの………っ、嫌いにならないで…………っ。ぼくは………」


 手を繋いだり、キスをしたり、もっと身体にも触りたいと思っていた。保健の授業で習ったことや男子の間で話される“いやらしいこと”だって、藤原とできるかも、って考えている。こんな考えをしてしまう自分が汚らしくて、悪いことをしていると思っていたから苦しい。でも、やめられずに、毎日、毎日、不安で、不安で仕方がなかったから兄ちゃんに話した。


「“好き”とか“恋”は使い方を間違えると、簡単に人を傷つけるって…………ぼくは、ぼくは藤原を傷付けたく……ないっ」


 ただ信じて欲しかった。本音と、その考えに行き着いた悩みや汚らしいと思うことを、なるべく隠さずに伝えた。藤原もそれを一所懸命に聞いてくれていたと思う。大きな雫を落としながら、うん、うん、と、たくさん頷いていた。


 ぼくらはまだ。ぼくらはまだ……………、


きん、きりりん、きりん。


 長い廊下のガラス戸を開けて、庭の桜の木を二人で眺めていた。どうしてかは分からないけれど強く思ったことがある。藤原といつまでもこうやって、この桜を眺めていて、このまま、おばあちゃんになっていくのを見ていたい。ぼくがおじいちゃんになっていっても、おばあちゃんになったきみを見ていたい。


 そんな事は“子どもが考える事じゃない”と何年か後に言われるのだけど、そう強く願った事は本当だ。そう願いながら十分間だけって約束で小指だけを繋ぎ、話をしていた。


 最初で最後の、永遠の十分。


 この時の、きみから溢れる大粒の涙と溶けそうな笑顔が忘れられない。


 ねえ、藤原あかる、


 この時のぼくはどんな顔をしていたんだい?


 三月、卒業式。何故か、この日の空はオレンジ色がかった光がさしていた。まだ三月だというのにひどく暖かくて、体の内側がむずむずする。何か、偽物のような春の日。卒業式の前に集まった教室はがらんとしていて、ここもぼくらの六年間が偽物のような部屋だった。これが教室で過ごす最後の時間だと言われて複雑な気分になる。体育館で行う卒業式が終われば、そのまま校門を出て小学校から出ていく。もう明日からは来ない。この先も、ずっと。

 色んなことが嘘みたいで不思議に思えて、きょろきょろと教室中を見渡していた。友達が、みんなが、女子も、目が合った藤原も、そんな服を着て学校に来たことなんてなかったじゃないかって、みんなも、ぼくも言って「どうせ、中学も一緒なんだしさ」なんて強がりを言いあった。教室の重い鉄の扉を開き先生が入ってくると、いつもと違い、すぐにみんなが静かになる。教壇に立った先生が「卒業おめでとうございます」と教卓のはしを握って、頭を深く下げた。そのていねいな言葉と振る舞いに、みんな驚いて、すこしざわざわする。


「これから卒業式だ。卒業式が終われば、先生はお前たちの担任じゃなくなる。でもな………」


 先生は、いつまでも先生のままだから困った事があれば、いつでも来なさい。先生はいつまでも先生でいたい、そう思う。


 この日以来、ぼくは先生に会っていない。


 体育館で、先に椅子に座っている五年生の間を抜けていく。男女二列に並んでいくのだけれど、何故か隣が藤原だった。


「藤原?順番、間違ってない?」

「ち、ちぃちゃんが……っ!」


 悪いことをして怒られている時の犬みたいな顔で、眉を“ハの字”にして瞳をうるうるとさせる藤原。本来、藤原あかるがいるであろう後ろを見ると“ちぃちゃん”こと斎藤が満面の笑みでピースサインを作っていた。


「ごっ、ごめんなさい」

「いや、まあ……順番くらい」


「そじゃなくてっ………あの、そのっ……わたしが関口くんのこと好きなのは、ちぃちゃんには話していて……っ、あのっ」


「謝るの、そっち?」


 相変わらず、藤原は藤原のままだと笑ってしまった。こんなおめかしをして、髪型もなんだか凝っているのに、藤原のままだ。


「関口くんっ」

「なに?」

「ありがとお」

「だから、何が?」


 このやり取りにも笑ってしまう。いつも藤原あかるとはこんな感じだった。初めて会った幼稚園から小学校の卒業式も、恐らく、このままきみは、きみのまま、ずっときみなんだろうね。


「眞昼、卒業おめでとう」


 校門で兄ちゃんと母さんが待っていてくれた。そして、母さんが「卒業証書をもらう時、すごく緊張していたでしょ」と笑うから「そんなことないよっ」と言うも、兄ちゃんまで「その割には体ががちがちになっていたね」と笑う。この日のために用意された偽物のような春の日が、本物の春の日になっていく。周りを見渡すと泣いている親たちや泣いている同級生たち、見送りに出てきた先生たちもすこし涙ぐんでいた。


「あれ?」

「なんだい?眞昼?」


 いや……何でもないよ、と言ってから、もう一度、確認するように見る。校門に取り付けられた『祝卒業、おめでとう』の看板の間から見える校舎が、昨日よりすこしだけ小さく見えるのは、どうしてだろう?


 家に帰ると玄関で、ばあちゃんとじいちゃんが出迎えてくれて「眞昼、おめでとう」と靴を脱いでいるぼくの頭を、後ろからぐしゃぐしゃに撫でてくれた。じいちゃんが卒業証書を見たいと言うから黒い筒を渡すと、背中から心地良い音がして丸められた厚い紙が広げられる音もする。


「本当に……卒業したんだな」

「お義父さん、お茶を飲みながら眞昼を労って下さい」




「わしらは卒業式が出来なかったからなあ」




 それから夜は豪勢な料理が食べ切れないくらいたくさん出てきて、父さんが仕事から帰ってくるなり大泣きし始め、力一杯抱きしめられたんだ。“卒業する”って、こんなに大層なことなの?


 締め切った窓、カーテンの間から月灯りの筋が、ぼくの左目を照らしていた。相変わらず早い兄ちゃんとの就寝。


「兄ちゃん、起きてる?」

「起きているよ、どうかしたの?」


 今日は一日、不思議な気分だったよ。だって、新学期は小学校に行かないんだ。小学校を卒業しただけなのに、家の中がお祭りみたいな雰囲気だなんて、なんだか居なくなる誰かを送っているみたいに思えるんだよ。


「今日はなんだか疲れたよ」

「そうだね。眞昼は誰も出来っこないと言った事をやり遂げたんだから」


 出来っこないことだなんて、相変わらず、一眞兄ちゃんは大袈裟だ。みんなと卒業したんだから、みんなすごいことになるよ。そうなれば、それは普通だよ。敷布団が擦れる音。兄ちゃんが横向きになり、頬杖をついて微笑んでいた。


「眞昼はさ、生まれた時に小学校は卒業出来ないって言われていたんだよ」

「えっ?」

「覚えていないと思うけれど、生まれた時は酷く身体が弱くてね……お医者さんに『生きて十歳』なんて言われていたんだ」


 ぼくの左目を照らす月の光。その筋の中で影として存在している兄ちゃんの目が、いつもより輝いていた。


「兄ちゃん?泣いてる?」

「うん、泣いている。嬉しくて、嬉しくて、仕方がないから泣いている」


 兄ちゃんが目を閉じて、そのわずかな隙間から頬を伝って流れるひと雫。しばらくして、横向きになった兄ちゃんが頬杖を付き、でも、目は閉じたままで言った言葉。


「眞昼は凄い。ぼくの誇れる弟だ。ぼくの弟でいてくれて、ありがとう」


 その言葉が嬉しいようで、気恥ずかしく思えたから話題を変えた。


「に、兄ちゃんが卒業した時はどんな感じだった?」

「…………眞昼が、生まれたばかりだったから、それどころじゃなかったなあ」


 本当に大変だったんだよ、と言って、頭を支えていた肘を崩し、腕を枕に「だから、ぼくの分もしっかり歩んでいくんだ。眞昼」とやさしい顔をした。そこから何を話して、どんなことを兄ちゃんから聞いたか覚えていない。だから、多分、ぼくは眠りについたんだと思う。後になって“ぼくの分も……”と言った兄ちゃんの言葉が怖くなっていった。


 翌日、目覚めた時間は、いつも兄ちゃんが起こしに来る時間より少し遅い朝だった。隣を見て、そこに当たり前のようにいなくなっている兄ちゃんと兄ちゃんの布団。ぺたぺたと床の表面と板をぎしぎし鳴らして歩く長い廊下。そのガラス戸から見える庭は青味がかっていて、そこに桜がある。


「ああ、眞昼。おはよう」


 父さんの挨拶に新聞で隠れていたじいちゃんが少し驚いたように眼鏡を上げる。ばあちゃんは「今日くらいはゆっくり寝ていても良かったのに」と笑うのだ。だけど、何だかね…………。


「うん。……ぼく、小学校を卒業する夢を見たんだ。それで起きて、少し考えて、昨日、卒業したんだなって」


 この時の感情を未だに言葉に出来ないでいる。何か大きな事をやり遂げたような、とても寂しい出来事があったような、酷い喪失感を覚えるくらいのものを失くしたような。大人になるという階段をひとつ昇った実感だったのかもしれない。そんな大層な、と、言われるかもしれないけれど、成長するという事はそういう大層に思えなかった事のひとつひとつを重ねる事だと、今は思う。


 全員で朝食を食べ終えると、午前中に庭の桜の前で家族写真撮ることになった。午後には、みんなで写真館に行くのに、って思ったけれど、父さんが小学校を卒業した時も撮ったからとじいちゃんが言った。早咲きの桜と代々家族で守ってきたという古い家の間に立つと、ここに“家族の想い出”というものの“屍体”がたくさん埋まっているように感じた。だから、その時のぼくらも今はいなくて、きっと桜の下に屍体として埋まっている。


 桜の樹は、その屍体から栄養を吸って、今年も咲くんだ。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第五話、おわり。

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