036 絶望

 夜。

 一番風呂を終えた俺は、自室で水野と通話していた。


『お風呂が恋しいっす! 羨ましいっす!』


「いつでも戻ってきてくれていいんだぞ」


『いいや、やり遂げるっす!』


「本当に強い男だな、お前は」


 スマホから「ぐへへ」という声が聞こえてくる。

 水野が照れ笑いをしているようだ。


「そういえば、海って徘徊者は出ないのか?」


 午前2時から4時の間、この島には異形の化け物――徘徊者が現れる。

 徘徊者は人間を襲い、食らう。


 俺の知る限り、徘徊者の姿は犬や人を模した者ばかり。

 だから勝手に海は縄張りの外という認識をもっていた。


『分からないっす! その時間は寝ているし、起きていても暗くて見えないっす! でも、島に比べると脅威ではないと思うっす! だって、無防備の自分が生きているんすから!』


「それもそうか」


『先輩、話は変わるんすけど、一ついいっすか?』


「ん?」


『先輩って、仲間の女性陣の中で誰が好きなんすか?』


「は? なんだそれ」


『恋っすよ、恋』


「そんなの考えたこともないな」


『えー! もったいないっすよ! 自分が島を出たんで、もう男は先輩だけっすよ! なんなら一人と言わずに全員をモノにしたらどうっすか!?』


 声の感じから水野がニヤニヤしていると分かる。


「モノにするって言い方はどうかと思うな。というか、それ以前に俺如きじゃ相手にされないぜ。仲間やリーダーとして見られてはいても、恋愛対象には含めてもらえないだろうよ」


『そんなことないっすよ! 先輩の男気ならメロメロっすよ!』


「何を言っているのやら」


 呆れ笑いを浮かべる。


「水野って恋愛に興味津々だよな」


『当然っす! 誰だって興味あるっすよ!』


「度合いがあるだろ。俺に比べてお前はホットだ」


『……先輩、そんな調子だと死ぬまで童貞っすよ』


「うるせぇ」


『いやぁ、本当にもったいないっす! でも、先輩のそういうところが女性陣を惹き付けるのかもしれないっすね』


 やれやれ。

 俺は苦笑いを浮かべてため息をついた。


(まさかこんな話をする日がくるとはな……)


 恋愛話、いや、恋愛自体に縁の無い人生だというのに。


「そんなことよりそっちはもう暗いだろ。つまらない話で体力を消耗するくらいなら仮眠をとっておくほうがいいぞ」


『そうっすね! ちょっと天気が微妙な感じするんで、舟にビニールでもかぶせて凌ぐっす!』


「おいおい、大丈夫なのか?」


『問題ないっす! 言っていないだけで、既に何度か雨に打たれてるっすよ! といっても小雨っすけど』


「大丈夫ならいいけど、無理のし過ぎは禁物だからな。風邪をひいたらシャレにならん」


『分かってるっすよ! 先輩は心配性過ぎっす! ではおやすみっす!』


 水野との通話が終了する。

 俺は天井に向かって大きく息を吐いた。


 トントン。


 通話の終了を見計らったかのように扉がノックされる。

 俺が「どうぞ」と返すと、その扉はゆっくりと開いた。


 扉の向こうに立っていたのは――由衣だ。


「ちょっといいかな?」


「いいよ」


「お邪魔するね」


 と部屋に入ってくる由衣。

 俺はPCデスク用の椅子に彼女を座らせた。

 たった今まで自分が座っていた椅子だ。

 俺自身はベッドに腰を下ろす。


「俺の尻の温もりが残っていて悪いな」


 由衣がクスクスと笑った。

 心なしかいつもより疲れている様子。


「で、どうしたんだ?」


「ちょっと言いにくいんだけど――」


 由衣が視線を逸らす。

 頬が微かに赤くなっている。


(これはまさか愛の告白!?)


 水野とアホな話をしたせいで、あり得ぬ期待を抱く。


「――これから3日くらい、作業を休ませてもらえないかな?」


 やはり愛の告白などではなかった。

 俺は心の中で盛大にずっこける。


「作業を休みたいのか」


「正確には漁を休ませてほしいの。その代わり、畑やプランターの水やりは私がするから。駄目かな?」


「駄目じゃないが、休むなら理由が必要だぞ」


「分かってる」


「由衣のことだから何か理由があるんだろ?」


 由衣は顔を伏せ、「うん」と小さく呟いた。


「実は――」


 伏せていた顔を上げながら、由衣は言いづらそうに答えた。


「――生理なの」


「生理?」


 由衣の顔が真っ赤に染まっていく。

 まるで波留を見ているかのようだ。


「せ、生理が何かは分かるよね?」


「一応な。男だから具体的なことは分からないけど」


 具体的なことどころか、名前しか知らないようなものだ。

 ただ、生理中はとても怠くてたまらない、ということは知っていた。


「生理で辛くなる度合いって人によって違うんだけど、私は重い方なの。それで、いつも通りなら明日から3日くらいは漁をするのがしんどいと思う。参加することでかえって迷惑をかける可能性が高いから」


「だからテリトリー内で行える楽な作業に徹したいわけか」


「そういうこと。どうかな?」


「もちろんかまわないよ。その理由なら他の女子も納得するだろう。ただ、俺からこの話をするのは角が立つというか、少し話しづらい」


「分かってる。みんなには私から言っておく」


「そうしてくれ」


「せっかくいいところなのに足手まといになってごめんね」


「そんなことないよ。仕方ないものだ。ゆっくり休んでくれ」


「ありがと。じゃ、おやすみ」


 由衣が部屋から出て行く。


(生理かぁ)


 閉まった扉を眺めながらぼんやりと思う。


 生理なんて考えたこともなかった。


(なんにせよ、由衣の生理がこのタイミングできたのは不幸中の幸いだったな)


 もしもこの島に来てすぐの段階で生理だったら……。

 ただでさえ過酷だった序盤が、より過酷になっていただろう。

 紫ゴリラに負けていたかもしれない。


(今後は今よりも体調面に対して考慮しないとな)


 俺は意識を改めた。

 もっとも、改めたところで何かが変わるわけでもないのだが。


「明日に備えて今日は寝るとするか」


 スマホをモバイルバッテリーに繋げようとする。

 その瞬間、水野からラインの通話がかかってきた。


『先輩、やばいっす! 先輩!』


 応答ボタンを押すなり水野の喚く声が聞こえてくる。

 先ほどと違って切迫している様子だ。


 なにがやばいのかは想像できた。

 まず間違いなく、強烈な暴風雨に見舞われているのだ。

 雨や波の音が凄まじい。雷鳴も轟いている。


「水野! 戻ってこい!」


『先輩! やばいっす! 先輩! やばいっす!』


「おい! 聞こえているのか!? 水野!」


『先輩! やばいっす! 先輩! やばいっす! 雨も! 波も!』


 どうやらこちらの声は完全に掻き消されているようだ。


「戻ってこい! 戻ってこい! 戻ってこい!」


 それでも俺には、戻るように叫ぶことしかできない。


『先輩! これたぶん――……』


 水野の声が途絶えた。

 雨や雷鳴の音も同時に消える。


 通話が切れた?

 スマホを確認すると、通話は繋がったままだ。


「まさか……!」


 考えられるのは一つしかない。

 水野は波に飲み込まれたのだ。

 海中にいるから、背景の音が消えている。


「おいおいおい」


 俺は〈ご近所さん〉を起動する。

 どうすることもできないが、居ても立ってもいられなかった。

 水野の場所を確認して助けに行こう、などと衝動的に考えてしまう。


 だが、それは不可能だった。

 今から行っても間に合わないというのもあるが、なによりも――。


「そんな……」


 ――マップに水野が表示されていないのだ。

 このマッチングアプリは近い人間しか表示しない。

 水野は有効圏内から出ているのだろう。


「あっ」


 水野との通話が切れた。

 それが何を意味するのか俺には分からない。

 無事なのか、それとも……。


 とりあえず「大丈夫か? 返事をくれ」と送った。

 それから既読マークが付くことを願って待機する。


 ――が、俺の発言に既読マークが付くことはなかった。

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