Ⅱ章 フィアンセ

第10話

 大学病院の薄暗い廊下で闇に落ちた世那。……その先に見たのはあのラブホテルのエントランスをしのぐ彫刻と絵画、金銀や宝石で造られた装飾品の数々で彩られた宮殿内の空間だった。ただ、エレベーターはなく、赤い絨毯じゅうたんが敷き詰められた幅の広い階段が吹き抜けの大空間を廻るように上階に伸びている。


 世那が何よりも安堵したのは、足元に床があって、落ちるような感覚から解放されたことだった。ホッと大きな吐息が漏れた。同時に、カーズの手によってラブホテルに連れ込まれたのかと、不安になった。


「めまいがするか?」


 隣で彼の声がした。


「いいえ、大丈夫です」


 彼の顔に目をやる。それは相変わらず尊大で、世那を軽蔑するように見下ろしていた。


「慣れない者は次元酔いをするものだ」


「ジゲンヨイ?」


 意味が分からない。


「ここは魔界の水晶宮、お前の祖父、キング・ブライアン殿と父君、ジャック・ブライアン殿の宮殿だ。今まで暮らした世界とは異なる次元にある」


「魔界!……そんな、噓でしょ?……」


 マンガじゃあるまいし、魔界だなんて馬鹿らしい。……胸中、彼を笑った。ただ、ジゲンは〝次元〟とつながった。


 アッ、魔界はタイタンが話していた異次元なのかもしれない。でも、ありえない。そんな技術、まだ開発されていないのに。この人が言うこともすることも、理屈に合わないことばかりだわ。


「……それに、私の祖父は亡くなりました。あなたと会ったのが葬式の直後です」


 世那の声には不信と怒りの色があった。何の説明もなく怪しげな場所に連れてきたカーズがゆるせない。


「俺様は噓と冗談、ニンニクとゴキブリは嫌いだ。……ヒイロ・ブライアンはキング・ブライアン殿の弟だ。お前と血のつながりはあるが、孫ではない。そして彼の王族の籍は、すでにはく奪されている」


 王族って!……もはや笑いを押し殺すこともできなかった。苦笑、いや、冷笑が唇を歪めた。


「……ヒイロ・ブライアンなんて私は知らない。誰ですか?」


「陽彩乃安国、お前が祖父だと思っていた老人がヒイロ・ブライアンだ」


「そんな馬鹿な!……祖父が魔法使いなら、身体の麻痺も魔法で治せたはずです」


 カーズの話は嘘っぱちだ。……疑惑が膨らんだ。


「いかにも。……そうしなかった理由が何かあったのだろう。俺様には関係のないことだ。……いきなり誘拐されたと聞いて、家族の前で失礼な態度を取るようでは皆が悲しむだろうから念のために教えたが、……子細は家族に聞くといい。上に行くぞ」


 彼が宙に向けて人差し指をかざした。


「上……」


 世那は、階段が延びる吹き抜けを見上げた。


 何階まであるのだろう。……天井は巨大なシャンデリアに隠れて見えない。シャンデリアの輝きは蝋燭や電球のような光源によるものではなく、それを造る半透明の水晶自体が発するものだった。


「……歩くのですか? エレベーターは?」


「フン……」


 カーズが右手を伸ばして世那の肩を握る。


「△▽▲▼……」


 彼の素早い呪文。刹那、世那の身体が浮いた。


「エッ……!」飛んでる!……世那の中で魔界と魔法が身近なモノになった。


 2人は上空に延びる階段に沿うように、鳥のように宙を飛んで数十メートルも移動した。


 おり立った場所は階段の行き止まりにある広場のような場所だった。左右はテラスに面した巨大な格子窓で、夕焼けなのか、空は淡いオレンジ色をしていた。


 正面には教会のような、見上げるような木製扉があった。


『よく来た、入りなさい』


 どこからともなく重厚な声がした。目の前の巨大な扉が左右に開き、向こう側から風に乗って爽やかな香りがした。内部はホール同様、贅沢な装飾品で飾られていた。床は濃いグリーン色の絨毯で、まるで芝生のようだ。


「ついてきなさい」


 カーズが言って歩み出す。室内に入った彼は左を向いて会釈し、そちらに向かった。


 世那は彼の後を少し離れて歩いた。芝生に見えた絨毯は芝生よりフカフカでつまずきそうだ。


 彼が向かう先には20人も座れそうな大きなソファーセットがあった。そこに男性が2人と女性が4人座っている。その顔は神妙な、それでいて今にも破顔しそうな、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたモナ・リザを思わせる穏やかな表情をしていた。

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