第9話

「……〇▽▲◇……」


 世那の背後、壁際で、印を結んだカーズがブツブツ呪文を唱えた。


 目をつむり、ただひたすらレンの回復を祈る世那はそれに気づかない。


 5分も祈っただろうか。レンの瞼がヒクヒクと痙攣けいれんし、指が、唇が少しずつ動き出す。


「ウッ……」


 レンの唇から音が漏れて初めて、世那は目を開けた。


 彼の目があいていた。焦点の合わない眼差しで宙を見ている。


「犬養君、気づいたのね。私よ。わかる?」


「……ア、……ウ」


 彼の瞳に意思が宿り、焦点があってくる。


「犬養君……」


 歓喜が胸を襲い、にじみ出す熱いものに世那の視界が歪む。


「……ここは?」


 彼の言葉が意味を持っていた。脳が働いているのに違いなかった。


「病院よ」


「君はだれ?」


 その一言に、世那は殴られたような衝撃を覚えた。


 私が分からない? いや、レンは混乱しているんだ。……自分を慰めた時、カーズが言ったことを思い出した。――病気が治ったら、その男はお前のことをすべて忘れるだろう――


 カーズに目をやる。彼は壁に背中を預け、真剣な顔で世那を見ていた。視線が絡むと、言った通りだろうというように、小さくうなずく。


「……だれ?」


 レンの言葉が胸をえぐる。恋人だと言いたい。けれどたった一度のデートで、しかも途中で終わってしまったそれだけで、恋人だと口にするのは図々しすぎるだろう。第一、彼は好きだと言ってくれたけれど、それは童貞を卒業したい一心の噓かもしれないのだ。自分だって、彼を好きだとは言っていない。ただ、奪ってあげるとは言ったはずだけれど、それって恋人関係とは違う気がする。


「私は、……陽彩乃世那。会社の同僚です。お医者様を呼んでくるわね」


 そう告げて、その場を離れた。


 ナースステーションでレンの意識が戻ったことを告げた世那は、そのまま出口に向かった。自分を忘れた彼と、顔を合わせているのは辛すぎる。


「本当に私の魔法で治ったの?」


 声を潜め、病院の廊下を歩きながらカーズに訊いた。


「他に何がある」


 背後を影のようについてくる彼が応じた。


「偶然じゃない?」


「脳死が偶然で治るものか。今頃、医者も腰を抜かしているだろう」


「おかしいじゃない。頭が治ったのに、どうして私のことを忘れるのよ?」


 疑問をぶつけながら、本当に病を治す魔力があるならおじいちゃんを治してやりたかった、と思った。


「だから言っただろう。魔法で治せば、お前のことは忘れると。魔法には副作用があるものもあるのだ」


「明日には思い出すんじゃないかしら?」


 わずかな期待が、とげのように反撃した。


「おいおい、子供か。反抗する前に、俺様に言わないといけないことがあるんじゃないのか?」


 何が俺様よ!……むかついたが、彼の言うことにも一理ある。足を止め、彼に向き直った。


「犬養君を助けることができました。ありがとうございます」


 頭を下げると、ヨシヨシ、と彼がうなずいた。


「では、行くか」


 カーズの右手が肩に触れる。


 やだ、セクハラ!……声をあげようとした刹那、景色がグニャリと歪んだ。「……×▽◇×……」風のように流れる呪文。……世那は闇に落ちた。


 近くを歩いていた患者が眼を瞬かせ、「消えた?」と首を傾げた。

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