第5話

 ――ギシ、……ギシ――


 ひしゃげたバスルームのドアがゆっくりと倒れた。それに気づいても、世那は動くことができなかった。背中にドアの破片が当たった痛みを感じたのはしばらくしてからのことだ。


 何があったの? ガス爆発? 日本沈没? 隕石が落ちた? 宇宙人? ゾンビ軍団の襲来?……妄想が広がる。


 目の前の鏡は割れていた。手をついた洗面カウンターがギイギイ鳴った。


 正気を取り戻して振り返ってみると、バスルーム内は暗かった。照明が消えただけでなく、もうもうとちりが舞っているからだ。それが洗面所まで迫っている。バスルーム内を見ることはもちろん、その場で息をするのも難しかった。目を細め、鼻と口を手で覆ってしゃがみこんだ。


 アッ、と気づいた。彼はどうしただろう? 彼はバスルームにいるはずだ。……思ったものの、名前が思い出せない。ただ子犬のような愛くるしい顔が脳裏にあった。


 ザーザーと水の流れる音だけがする。工事現場の騒音も、それを誤魔化すためにかけた音楽の音もしなかった。


 ――ジリジリジリ!――


 思い出したかのように非常ベルが鳴る。


「お客様、大丈夫ですか?」


 遠くで人の声がした。


 その時になってようやく、舞っていた塵が減って視界が晴れてきた。明かりは洗面所のものとバスルームの天井から漏れてくる太陽光のようだった。部屋の中央に錆びた太い鉄骨があって、大木が生えたように天井を突き破っている。


「なによ、……これ?」


 声が出ると頭が働き、鉄骨は地面から伸びたのではなく、上空から落ちてきて屋根に穴をあけたのだ、と理解した。


「犬養君!」


 意志と無関係に彼の名前が口を突いた。見れば、白い浴槽は砕け散り、床のピンク色のタイルはひび割れて赤みを増している。


「犬養君、大丈夫?」


 大丈夫であるはずがないと分かっていた。タイルのピンク色を濃くしているのは、鉄骨の錆びではなく彼の血に違いない。それでも訊かずにいられなかった。


「犬養君……」


 彼の身体が鉄骨に押しつぶされたようになって倒れているのが見えた。


「お客様、ご無事ですか?」


 助けに来た誰かの声を全身で受け止め、横たわったレンを指差した。


「犬養君が……」


 彼の頭蓋骨が割れているのに気づいて意識を失った。




 世那の意識が戻ったのは病院のベッドの上だった。


「良かった、……気が付いたか」


 声の主は祖父、安国だった。


 彼はホッと小さなため息をつくと血の気のない顔をうなだれた。世那の手を握る手が冷たい。


「おじいちゃん、……私どうして?」


「ば……馬鹿者、男といちゃいちゃしているからばちが当たったのだ。ここは大学病院だ」


「罰……?」


 埃っぽい空間と巨木のような鉄骨のイメージが頭に浮かんだ。そして裂けた頭蓋骨……。


「……犬養君!……犬養君は?」


 祖父に目をやると、彼は言った。


「集中治療室にいる」


「集中治療室……」頭が痛んだ。「……生きて、……いるのよね?」


「あぁ、命は無事だそうだ」


「良かった……」


 ホッとすると空腹を覚えた。


「だが、意識が戻っておらん。彼の母親が泣いていた。何と声をかけたものか……」


「そんな、……イタッ」


 世那は身体を起こした。背筋がズキズキ痛んだ。


 病院のパジャマを着ていた。下着は……。アッ!……身に着けていないなんて、気づかなかったことにしようと思った。


 誰かに着替えさせられたのだ。下着まではぎ取られ……。


 まさか、おじいちゃん? いやいやそんなはずがない。……背中の痛みより、見知らぬ誰かに裸を見られた方が、……しかもその誰かは患者がラブホテルから運び込まれたと知っている。今まさに、しようとしてできなかった間抜けなオンナ。……そんな風に見られていることの方に強烈な痛みを覚えた。


「痛むか?……気をつけなさい。背中に傷を負ったそうだ」


「エッ、ええ……」


 痛みをおして立ち上がり、祖父の手を借りて集中治療室に向かう。隣で力を貸してくれる安国の手が、自分以上に頼りないと思った。


 とはいえ今は、下着をとられたことより、祖父の老いより、意識がないレンのことのほうが重要だ。


 レン、助かって!……無言で叫びながら必死で足を運んだ。

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