第6話

 世那が運び込まれた大学病院は広く、集中治療室は遠かった。廊下で数々の患者や職員とすれ違う。彼らの視線が世那の胸元を走った。ノーブラかぁ、ラブホから運ばれた女だな。……彼らの視線がそう言っているような気がした。


 集中治療室のガラス窓の向こう側、全裸のレンが調整中の人型ロボットのように横たわっていた。様々な管や機械が彼の身体に取り付けられ、顔も全面マスクで覆われていて、名札がなければそれがレンだとは気づかなかっただろう。


 祖父が声をかけられなかったというレンの母親はもういなかった。


「レンは、……犬養レンの具合はどうですか?」


 集中治療室から出てきた看護師に尋ねた。彼女の瞳に、一瞬、好奇の光が走った。


「あなたは?」


「彼の……」知人や友人ではプライバシー情報を教えてはもらえないだろう。瞬時に考えた。「……婚約者です」


 背後で「なんだと?」と祖父の低い声がした。


「一緒に運び込まれた方ですね?」


 看護師は状況を理解していた。


「はい」


「命に別状はないのですが、意識が戻りません……」彼の顔に苦渋の色が浮かんだ。「……脳死が疑われます。詳細はご両親に告知してありますので、場合によっては……」


 世那が理解できたのはそこまでだった。全身から血の気が引き、頭がぐらぐらして膝から崩れ落ちた。


「ごめんなさい」


 何故か謝っていた。同じ場所にいて、彼1人だけが死にかけている。それで自分が赦せないのだ。謝ったところで何も変わらないと、分かっているのに……。


「お前が悪いんじゃない」


 安国が言い、世那の腕を引いた。しかし彼には力がなく、立つことができなかった。看護師が力を貸してくれて立ち上がった。


 世那と安国、2人はよろけるように歩いて病室に戻った。もはや他人の目を気にする余裕もなかった。


 どうしたらいいのだろう?……世那はベッドに横たわって考えた。具体的なイメージはなくモヤモヤするばかりだ。祖父は小さな椅子に掛けて、黙って背中を丸めていた。


「気がつかれたと聞きまして……」


 突然、男性の声がしてモヤモヤが晴れた。スーツ姿の男性が頭を下げていた。解体工事現場から鉄骨を落とした建設会社の社員だった。


「……補償は十分させていただきます」


 彼は丁重な謝罪を繰り返し、自宅まで送ると申し出た。


 世那の背中の傷は、入院するほど重症ではなかった。ただ、とっておきのワンピースは血で汚れ、それどころか、脱がせるためだろう。刃物で切り裂かれていて、身につけられる状態ではなかった。建設会社の彼が代わりの衣類を用意してくれて、祖父と共に自宅へ帰った。


 祖父と孫娘はいつものように夕食を取ったが、いつものようにテレビを視ることも語り合うこともなかった。2人だけの空間はガラス箱の中にでもいるように息苦しかった。


「傷が痛むから、先に休みます」


 世那は嘘をついて、自室に隠れた。


 どうしても気になることがあった。上半身裸になると、姿見と手鏡を使って背中の傷を確認した。背中に張られた治療テープは、長さ5センチほどの小さなものだった。なのに、傷を見るとそこがズキズキ痛んだ。見なければ良かったと思った。


 どうしたらいいのだろう?……償いか、あるいは心の持ちようか、はっきりしない何かを再び考えると、レンの無邪気に微笑む顔が鏡に映って見えた。


 その夜は、鬱々うつうつと重苦しい時を過ごした。わずかに眠りはしたが、その間もレンの夢を見ていて、ずっと起きていたような気がする。カーテンの隙間から朝日がこぼれたのを見届けてベッドを抜け出した。


 リビングの匂いを嗅いだ時、嫌な予感に襲われた。そこの空気がいつもより硬く無機質なものに感じたからだ。


「おじいちゃん?」


 返事はない。


 安国の部屋のドアをノックした。やはり返事はなかった。


 まだ寝ているのかしら? 確かに昨日は、とても疲れているようだった。……考えながら、念のために部屋を覗いた。寝息が聞こえたらドアを閉めようと思っていた。


 しかし、寝息は聞こえなかった。ベッドはこんもりと膨らんでいて祖父の形をしているのに……。


「おじいちゃん、具合が悪いの?」


 安国の顔は土色をしていた。返事はなく、息もしていなかった。

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