第二話 山の中で笑う影

隠居老人

 讃岐さぬき屋の一件から半月ほどが経った。

 清司郎せいしろうは普段通り、手習いの師匠として近隣の子供達に読み書き算盤を教えて過ごしていた。この頃の手習いというものは侍の子弟が学ぶ学問所などとは違い、子供一人ひとりがてんでに机を並べ、自分の課題に向き合うのが常であった。

 その課題も日々の暮らしに関わるもの、例えば江戸周辺の地名、町名や商売でやり取りする手紙の例文などを学ぶものであって、難解な漢籍かんせきなどを読むことはまずなかった。

 通ってくる子供は長屋に住む庶民の子がほとんどで、多くの場合は一通りの読み書き算盤を三~五年で身に付け、親の仕事を手伝ったり商家に奉公に出たりするのが常であるので、学問などしているゆとりはなかった。

 その日も清司郎は昼を挟んでどき(午後2時前後)まで子供達を指導していた。子供達が帰ったあと、片付けをしていると、大家の馬兵衛まへえが表の障子を叩いた。

「これはこれは大家さん、今日はどうしました?」

 清司郎がたずねると、馬兵衛は「ふむ」と答えた。

「来客ですよ。どこぞのご隠居が赤城あかぎさんに会いたいんだとか」

 馬兵衛はぶっきらぼうにそう言うと、外の通りに向けて「こちらです」と声をかけた。

 とたんに、すっと一人の老爺ろうやが入ってきた。見覚えのある老爺である。

 地味ながら上品な着物に杖をついていて、おまけに切禿きりかむろの童女まで連れている。裕福な商家の隠居であることが、その出で立ちや振る舞いからわかった。

「お久しぶりでございますな、赤城さま」

「あなたはたしか、両国で会った……」

 讃岐屋の一件を引き受けるにあたって、谷川たにがわと両国で合流した際に出会った老爺であった。

「覚えていてくださりましたか。それでは、あの時言ったことも覚えておりましょうか?」

「ええ。勿怪もっけのことで困ることがあれば頼らせてもらうと言ってくださいましたね。こんな場ではなんですから、どうぞ上がってください」

 清司郎は隅の方に積んである来客用の座布団を二つ出して来た。その座布団の一方を老爺、もう一方を童女にすすめると、馬兵衛が口を尖らせた。

「あたしには座布団は出さないつもりですか?」

「あっ、いえ……いま出します」

 清司郎はもう一枚、座布団を並べた。馬兵衛がそこにどっかりと座る。

「失礼しました。それで、お二方は……?」

「ああ、申し遅れましたな。私は播磨屋はりまや善兵衛ぜんべえ。これは私が使っている小娘でしてね、きくともうします」

「菊だよ。よろしくね、赤城さま」

 お菊はにっこりと笑って見せた。大きなえくぼができて、かなり愛らしい。

「どうもご丁寧に。それで、善兵衛さんは勿怪祓いを頼みに来たのですね?」

 清司郎がたずねると、善兵衛は鷹揚おうようにうなづいた。

「さよう……実は、上方から届く予定の荷が、途中で勿怪に襲われてしまったのです。荷を奪われただけではありません。居合わせた店の者が数人、深手を負わされまして明日をも知れぬとのこと。どうか、かの勿怪を祓う……いや、討伐してほしいのです」

「そうですね……ことは一人では決められません。一度仲間と話してからでも良いでしょうか?」

「ええ、構いませぬ。もし引き受けて頂けるのであれば、両国の鶴やという水茶屋までお越しください。私はこのくらいの刻限、いつも鶴やにいるようにいたしましょう」

「両国の鶴や、ですね。わかりました、必ずうかがいます」

「お頼みもうしますぞ」

 善兵衛はすっと立ち上がると、そのまま外へ出て行った。

 それから数瞬がすぎて、ようやく清司郎は我に返る。

「播磨屋……さん……?」

 あわてて外に出てみるが、すでに善兵衛もお菊も姿を消していた。

「赤城さま、まーた勿怪祓いですか? 勿怪祓いもいいですが、築兵衛さんとの約定は忘れないでくださいよ」

 馬兵衛が言う約定というのは、清司郎が地主の築兵衛と交わしたもので、家を借りるなら手習い塾にして、月の半分以上きちんと子供たちの面倒を見ること、というものだった。

「ええ、忘れてはいませんから、安心してください」

 清司郎は言いながら、さっさと出かける支度を始めた。

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