水虎を追え

「逃げられたか……」

「ああ……。まさか……腕が抜ける……とはな……」

 水虎すいこの右腕は、瞬く間にとろけて粘り気のある汁になり、そのまま地面にこぼれて染み込んでいった。

「でも、これであきらめるとは思えない。お皿を割れたわけじゃなくて、この錫杖錫杖であたしの神通力を伝えて、いっとき力を抑えただけだから、きっと時が経てば腕も生えてくるはず。はやく追いかけないと……」

 おはるが家の中へと入り、火の付いた提灯を手にして戻ってくる。

「さ、急ごう」

 塀を破られたところから外に出ると、転々と地面に淡く光るなにかがこぼれていた。

 お榛が火を点けた提灯を近づけるとそのなにかはぽっと燃え上がる。

「水虎の血だ。これで追えるな」

 清司郎せいしろうはお榛の提灯を頼りに血の跡をたどっていった。

 水虎はすぐそばの水路には逃げ込まず、地面の上を逃げたようだった。あるいは、腕がないために泳ぐことができないのかもしれない。

 讃岐さぬき屋の寮から五町(約540メートル)ほど離れた畑の中に血溜まりができていて、淡い光がぼうっとあたりを照らし出している。

「追いついたか」

 清司郎は荒い息を整えながら荒正あらまさを抜き放つ。

 お榛が錫杖で地面を突き、シュウと息を吹き付けると、暗闇の中から水虎の姿が浮き上がってきた。はやくも左腕は伸び、右腕も少しずつ形作られている。

「ぐるる……」

 虎のように唸る水虎に、清司郎は黙って荒正を向けた。

「ぐっぐっ……さむらいめ……よくおいついてきたな……」

 水虎の口から低い声が漏れた。

「お三智みちさんをあきらめれば、ここは見逃してもいいぞ」

 青い燐光を帯びた目がじっ、と清司郎を見下ろしていた。

「まだ……じぶんがかってると……そうおもうたか……」

 水虎の口元がぐぅっと歪んだ。笑ったのかもしれない。

 まだ形作られる途中だったはずの右腕が一気に戻った。腕が元通りになった水虎は月に向かって咆哮を上げる。

「おみちのまえに、まずはおまえたちをくろうてやるわ!」

 水虎は真っ直ぐに走り寄ってくる。

 清司郎はそれを右に動いてかわしながら、肩口めがけて荒正を一閃させる。水虎の左肩を切り裂くが、その傷は瞬く間にくっつき、元の通りになる。

 だが、それがさきほど寮の庭で斬った時よりもほんのわずか遅くなっていることに、清司郎は気付いた。

「しついこいのは嫌われるよ!」

 お榛が棒手裏剣を打った。まっすぐに飛んだ手裏剣は振り向こうとした水虎の甲羅の隙間に突き立ち、ぼんやりと燃え始める。勿怪もっけだけを焼く、陰の火だ。

 水虎はぶるんぶるんと体を振るって背中の棒手裏剣を振り落とすと、今度はお榛に向けて伸ばした腕を振るった。お榛は鋭い爪を錫杖で受け流すが、力を流しきれず、その場でたたらを踏む。

「てんぐめ! もっけでありながらひとのみかたをするか!」

 水虎はそんなお榛の元ヘどたどたと近付いていく。そこに後ろから谷川が飛びかかり、両腕を脇に通して羽交い締めにした。

 水虎の動きが止まる、その刹那を狙って、清司郎が水虎の正面にまわり、地面を蹴った。わずかに跳び上がって、上段に振りかぶった荒正を振り下ろす。

 その一撃は、今度こそ過たず水虎の皿をとらえていた。

 青い燐光がパッと散り、傷口から粘り気のある水がどろりと流れ落ちる。

「ぐっ……ぐぅ……ちからが……ぬける……」

 ぬめっていた水虎の体がみるみるうちに乾き、干からびていく。

「でやぁぁぁぁっ!!」

 清司郎は満身の力を込めて、荒正を突き出した。荒正の切っ先は水虎の胸にすっと吸い込まれていく。

 谷川が水虎を放し、脇に避けた。水虎の甲羅を突き破り、荒正の切っ先がのぞいていた。

 荒正を引き抜くと、水虎の体はゆっくりと地面に倒れ、内側から弾けるように砕け散った。

「終わった、か……?」

「たぶんね」

 お榛は水虎の砕けたあたりにしゃがんでなにかを探していたが、やがて立ち上がる。

「あれじゃ、さすがに逃げることはできなかったみたい」

「そうか……やはり、厳しい仕事だったな」

 清司郎は荒正を鞘に戻し、安堵の息をついた。

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