第34話 ピクニックしようか

 その夜はとても静かだった。長屋の窓を閉めきると、外からの音は何も入って来なかった。子どもの笑い声も、酔っ払いの馬鹿騒ぎも、救急車のサイレンも虫の声も、薄いガラスを越えてこない。夕食を食べているときも、シャワーを浴びているときも、布団を敷いて横になってからもずっと静けさは続いて、鶴屋はなんとなく息を潜めていた。


 満腹になっても体が温まっても、体の中心がざわついて落ち着かない。薄い布団に丸まって、モゾモゾとしたまま眠れずにいる。


 外の音だけではなく、コジロウの口数も少ない気がした。飯が美味いかとか、ちょっとつけてみたテレビの内容がどうだとか、普段は割合しつこく話しかけてくるのだが、今夜はどうもあっさりしている。


 いやしかし、これは自分が神経過敏なせいかもしれない。コジロウの様子を気にしすぎるあまり、錯覚に陥っているだけかも。今晩だって「ニラは食えるか?」と訊かれたし、「皿を持て」と言われて手伝いをしたし、寝る直前にも「おやすみ」と声をかけられた。そう思えばやはり普段通りで、おかしいところなどないように思える。そうだ、まだきっと、悲観するほどのことはない。


 無理やりそう思い込もうとしつつ、鶴屋は何度も寝返りを打つ。右へ、左へ、時折こっそりと呻きながら体を動かし、訪れるはずの眠気を待った。そうして数十回目の「左へ」の後ようやく意識が遠のいていき、夢も見ないほどの眠りに落ち、気づかない間に、両肩を揺さぶられていた。


「ツルヤ、おい、早う起きぬか」


 光を透かす瞼の奥から、すっかり聞き慣れた声がする。布団のぬくもりを感じるともなく感じつつ、鶴屋は目を開けた。霞がかったような視界に、侍の顔が浮かび上がる。


「今日はまっこと良き朝だぞ! ほれ、外を見てみよ!」


 いやに弾んだ声に急かされ、上半身を起こした。枕元に置いた眼鏡をかけて、わけも分からないまま窓に目をやる。開け放たれたカーテンの向こうはよく晴れているが、特に変わったところはなかった。悪い朝だとは思わないが、特別良い朝とも思えない。


 侍に目を戻す。コジロウは満足そうに仁王立ちして、鶴屋を見下ろしていた。いつもなら鶴屋とおおよそ同時に起き出すのに、今日は早起きしたらしい。深緑色の着物も、ひとつに束ねた長髪も、いつになくキッチリと決まっている。鶴屋の寝起きの頭には、何が何だかこれっぽっちも分からなかった。


「どうだ、げに快い陽気であろう?」


「……はぁ……まぁ……」


 ウキウキと問われ、戸惑いながら返事する。と、コジロウはにんまりと大きく笑った。なだらかな曲線を描く両目に、鶴屋は薄気味悪くなる。侍の額も、鼻も、頬も、浅黄色の朝日に余すところなく照らされていた。


「そうであろう、そうであろう。かような日には、外に出て羽根を伸ばすに限る! なぁ、おぬしも近頃はすっかりくたびれておろう」


 そう言いつつコジロウはしゃがみ、鶴屋と目線を合わせた。目の前の笑みに気圧され、鶴屋は動けなくなる。あ、とか、は、とか、とにかく言葉にならない声を発しているうちに、侍の笑顔がさらに近づいた。鼻先に迫った二枚目顔には、得も言われぬ威圧感がある。


 唾を飲み込む暇もなく、鶴屋の喉は乾いていく。寝起きの心臓がどくどくと痛み、その緊張と恐怖の奥で、コジロウの笑顔が淡白に、動いた。


「遊びに行こうぞ、ツルヤ」


「あ」心臓の上で、喉が動く。「遊びに?」


「左様! ほれ、このために弁当もこさえたのだぞ」


 コジロウはいそいそと立ち上がり、台所から風呂敷包みを持ってきた。唐草模様の風呂敷は、重たげに四角く膨らんでいる。言われてみれば、部屋には出汁と醤油の香りが漂っていた。


「さぁ、そうと決まれば早う行こうぞ! ほれ、疾く支度を済ませよ。ほれほれほれ!」


 バサ、と掛け布団が退けられる。ほれほれほれほれ、と腕を引かれて立ち上がり、抗うこともできないままに顔を洗って歯を磨き着替えて髪を整え、スマートフォンと財布と隕石だけをポケットに突っ込み、気がつけばアパートの外へ出ていた。「よぅし、いざ出陣!」意気揚々と歩き出す草履を、鶴屋はフラフラと追いかける。


 一体何が起こっているのか、何がどうなればこうなるのか、やはり何ひとつ分からなかった。脳はいくらか覚醒し、視界もくっきりしているが、混乱の勢いは弱まらない。


 課題にあれほど執着していた侍が、どうして突然「羽根を伸ばす」と言い出したのか。この用意の良さは何なのか。何も分からず、何を分かれば良いのかも分からない。


 三歩前を行くコジロウの背を、チラリと見上げる。左右に揺れる長髪の先すら、浮かれて弾んでいるようだった。その手に提げられた風呂敷には、やはりずっしりと重みが見える。例によって味の薄い、あるいは少しだけ味の濃い料理が、あの中に詰め込まれているのだろう。


 コジロウは、何を考えている?


「車を出そうかとも、思うたのだがなぁ」


 暖かな陽光の中にふと、侍の声が昇っていく。遅れないようについて行きながら、鶴屋は返す言葉を探した。脳裏にちらつく阿潟の影を振り払い、口を開く。


「どこまで、行くんですか」


「ここから半刻ほども歩けば、自然公園へ行き着くはずよ。そこで朝飯に弁当を食い、ふたりでしばし語らおうではないか」


「語らう……ですか」


「いかにも」


 侍がくるりと振り返る。毒気のない瞳が鶴屋を見ていた。パタパタと草履の音が続く。


「思えばおぬしとは、落ち着いて語らうこともなかった。おぬしにも、それがしに尋ねたきことがあろう? せっかくだ、今から尋ねても良いぞ」


 ほれ、とまた促すように、侍は顎をしゃくった。突然もたらされた好機に、鶴屋は足を止めそうになる。


 コジロウに尋ねたいこと。そんなものいくらでもあるが、いくらでもあるあまり困惑した。一体どれから、どんな言葉で尋ねればいいのか? 


 つんのめるように前進を続けつつ、考える。が、その間にも侍の視線は刺さり続け、まともに思考をまとめられない。そうして結局、最もつまらないひとつを口にしてしまう。


「コジロウさん、って、車の免許持ってるんですか」


 最後の「か」を発した瞬間、目の前の信号が赤に変わった。草履に続いて立ち止まり、鶴屋は俯く。せっかくの機会だというのに、なぜこんなことを訊いたんだ? 後悔の念がぐつぐつと煮え立つ。かといって他の問いも思いつけず、そうこうするうちに「あぁ」と答えが返された。


「持っておるぞ。というても、今年でちょうど有効期限が切れたがな」


「え、あー」後悔の沸騰を抑え、鶴屋は打つべき相槌を探す。「更新、してないんですか」


「いかにも。ま、使うておったのは初めだけで、近頃は偽造したものを持っておるゆえな。今となってはどうでもよいのだ」


「初めだけ、ですか」


 訊き返す鶴屋を一瞥し、コジロウは笑みを消した。が、次の瞬間にはまた微笑んで「初めだけだ」と鷹揚に頷く。どの表情の意図も読み取れず、鶴屋の背筋に冷や汗が流れた。信号が青く灯り、また歩き出す。


「かつてはそれがしも、表の世に出て働いておった。聞いて驚け、工作機械の営業よ。して、その勤めに車は欠かせぬものであった。こういうわけだ」


「営業?」


 思わず声が裏返る。するとコジロウはカラカラ笑った。その声はひどく乾いていたが、そのぶんだけ明るくもあった。


「情けなき話よ。就職を拒み続けておったが、高校にしつこく勧められるうち心が折れてな。なす術もなく履歴書を書き、試験を受け、職に就き、然るべくして一年半足らずで辞めた」


 いやはや、参った参った! コジロウはまた笑ったが、鶴屋はとても笑えなかった。右の口角だけ無理やり上げて、はは、と空気を吐くに留める。営業は鶴屋の最も避けたい職種であり、最も多く不採用通知を突きつけられた職種でもあった。


 そしてそれから、ふたりは黙って歩き続けた。浅黄色の陽は次第に白さを増していき、吹く風の温度も上がっていく。コジロウは時折鼻歌を漏らし、ジョギング中の中年男性や散歩中の犬に怯えられていた。鶴屋はじっと下を向き、ときどき顔を上げてはまた俯き、侍の背中を追い続ける。


 革靴の先を眺めながら、かつてのコジロウの姿を想像した。ネクタイを締め、社用車に乗り、取引先に頭を下げるコジロウの姿。おそらく「侍」ではない姿。


 だがその想像はどうしても、水に濡れたように滲んでいた。侍でないコジロウを知るのは、なんとなく恐ろしいことに思えた。


 やがてふたりの前に、丸太を模した看板が現れる。そこには「自然公園」と掠れた文字で書かれていた。コジロウは迷う素振りも見せず、看板の奥の遊歩道へと踏み入っていく。鶴屋も大人しくそれに続いた。道に張られたタイルの隙間から、乾いた雑草が伸びている。


「ふむ、あそこがちょうど良かろう」


 そのまましばらく歩いたところで、侍はふいに立ち止まった。道の右手、芝に覆われたなだらかな丘に向けて、右の人差し指を伸ばす。その指先が示していたのは、丘の頂上に生えた木だった。背の高いその木は、くすんだ芝生にうっすらと影を落としている。


 コジロウは足早に道を外れ、芝生の丘へ踏み込んでいく。鶴屋も周囲を見回してからついていった。丘への立ち入りは禁止されていないらしく、幼い子どもを遊ばせる夫婦や数人組の小学生、スマートフォンで何かを撮影する若者たちがそれぞれに芝を踏んでいる。そういえば今日は日曜日だったと、鶴屋は遅れて気がついた。


 木の根元に辿り着くと、コジロウは大きく伸びをした。後から着いた鶴屋に微笑み、ふぅと息をついて腰を下ろす。幹に背をつける横顔が、木漏れ日にチラチラと照らされていた。それが妙にサマになっていて、鶴屋はほんの少しだけ苛立つ。が、黙って隣に座った。


 秋の芝は硬く、かすかな湿り気を帯びている。決して良い座り心地ではなかった。風が吹く。頭上で枝葉がざわざわと鳴って、一瞬、まだ眠いような気がした。


「して、いかがする」


 思わずぼんやりしていると、コジロウに声をかけられた。我に返って隣を見る。白と灰色の木漏れ日に染められ、侍はやはり笑っていた。


「他にはないのか? それがしに尋ねたきことは」


「あ、あぁ」


 そういえばそういう話だった。えぇと、と間を埋めるためだけに口を動かしつつ、訊くべきことを考える。


 本当は、いつから侍なんですか。自分の仕事を、あなたはどう思っているんですか。これまでの人生を、どういう風に生きてきたんですか。今までこなしてきた課題について、どう考えているんですか。昨日、阿潟とすれ違ったときの、隕石の光を見ましたか。


 訊きたいことは次から次へと湧き出してくるが、どれも率直には訊けなかった。婉曲な表現、失礼にならない言葉選び、コジロウの機嫌を損ねない声のトーン。「精査すべきこと」が「訊きたいこと」を圧倒し、鶴屋の思考を呑み込んでいく。そうして考える間に何秒、あるいは何分経ったのか、時間の感覚も失われてしまう。


「何もないのであれば、それがしが訊くぞ」


 そうこうするうちに思考を遮られ、鶴屋は口を閉じた。コジロウは穏やかに微笑んだまま、風呂敷包みを開いていく。唐草模様の中から、透明なプラスチック容器が現れた。白米と、全体的に茶色っぽいおかずの数々が詰め込まれている。


「おぬしは、食べ物は何が好きだ?」


 流れるように尋ねつつ、コジロウは容器の蓋を開けた。そして袂から割り箸を取り出し、差し出してくる。鶴屋は小さく礼をして受け取り、答えた。


「え、と……唐揚げですかね。普通ですけど」


「唐揚げか! ここには入れておらぬなぁ」


 そう言って笑い、コジロウも自分の割り箸を取り出す。それをパキリと割ってから、「いただきます」をするように手を合わせた。鶴屋も慌てて続きながら、侍の様子を横目で窺う。持ち上げられた弁当からエノキの胡麻和えが摘み上げられ、薄い唇の奥に消えた。


「実家では、唐揚げをよう作ってもろうたのか」


「え、あぁ」思いがけず質問が続き、たじろぐ。「よく、ってほどじゃ。でも、ときどきは」


「ほう、左様か」


 相槌はほんのわずかに、不自然な響きを持っていた。鶴屋の心臓が一瞬縮み、箸を支える中指が震える。しかしその間に弁当が差し出され、「ほれ」と促す侍の声はまた、上機嫌さを取り戻していた。


「きょうだいはおるのか?」


 そして質問は続く。鶴屋はコジロウと弁当を見比べ、少し迷ってからエノキの胡麻和えを摘まんだ。それを口に入れる前に一言、答える。


「いや、ひとりっ子で」


「そうかそうか」


 侍は笑い、ちくわの煮物を口に運んだ。鶴屋もエノキを口に入れ、数回噛んでごくりと飲み込む。コジロウさんはどうなんですかと訊き返そうとして、「コ」の時点で遮られる。


「大学は楽しいか」


 侍の箸が、ニンジンとコンニャクの炒め物を摘まむ。風が吹く。ざわざわと鳴った木の葉が一枚、鶴屋の前に降ってきた。ひらひら揺れる褪せた緑に、コジロウの横顔が隠れ、現れる。


「いえ」唾を飲み、鶴屋は答える。「あんまり」


「なるほど」


 侍は頷く。ニンジンとコンニャクを噛む顎の動き、飲み込む喉の動きを、鶴屋は見ていた。というより、見るしかなかった。


 何か指示されたわけでもなければ、脅迫を受けたわけでもない。それでもコジロウを、彼の挙動を漏らさず見張なければならない。そんな気がした。そうでなければ自分にも、コジロウにも、取り返しのつかないことが起こってしまう予感があった。


「ツルヤ」


 侍の声は低く、乾いている。


「おぬしはなにゆえ、内定を得たいのだ?」


 コジロウの目がぐるりと回り、鶴屋を見た。揺らめく木漏れ日の光と影が、黒い瞳を交互に覆う。


 侍の目は笑っていなかった。それでも、その唇にはまだ微笑みがあった。柔らかく穏やかで、隙のない微笑み。卑屈さも不安定さもないその笑みは、これまでに見たどんな顔よりも、不穏だった。


「コジロウ、さん」


 今のコジロウはたぶん、普通ではない。


「どうしたんですか」


 侍の目が逸らされる。答えたくない、という意思表示を鶴屋は受け取った。その滑らかな仕草に、違和感が強まる。


 侍のことは分からない。それでもこれまでの彼の姿と、今は大きく違っている。自信を持てるほどの根拠はないが、確かにそう感じていた。


「な、なんか、おかしいですよ、今日」


 嫌な予感が汗の形をとり、首筋を滑り落ちていく。字の読み違いを指摘される直前のような、逆方向の電車に乗って最初にアナウンスを聞く瞬間のような、「不正解」の予兆に肌を撫でられる。


 間違えた。「正解」を選び取れなかった。だが選び直しは許されず、読み間違いの後の世界を、乗り間違いの後の未来を甘んじて受け入れるしかない。そんな不可逆の恐怖に囚われ、鶴屋はどうしても、舌を動かさずにはいられなくなる。


「なんでこんな突然、弁当まで作って。何がしたいんですか、これ、何ですか」


 コジロウは答えない。鶴屋に目を戻すこともない。割り箸の先が白米を掬い、侍の口に運んでいく。その顎を、喉を、鶴屋はまだ見ている。ざぁ、と木漏れ日が揺れる。木の葉から落ちてきた露が、侍の耳の先を濡らした。それでもコジロウはじっと俯いて、白米を噛んでいる。


 きゃあ、と突然声が聞こえて、鶴屋は顔を下げた。丘のふもとで、子どもの投げたフリスビーが風に舞い上がっている。子どもが両手を上げて駆け出し、母親が慌ててそれを止め、父親がフリスビーの元へと走る。撮影中の若者たちも、その光景を振り返っていた。


 風が弱まり、フリスビーは下降を始める。子どもの父親も減速し、円形の影の下に入った。フリスビーが落ちる。父親がキャッチする。若者たちが歓声を上げ、子どもが手を叩いて喜ぶ。その隣で、母親もホッとしたように笑っている。


「それがしには、兄者がおってな」


 気がつけば、コジロウが語り始めていた。鶴屋は再び隣を見る。侍はわずかに視線を下げて、笑い合う親子を見つめていた。

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