第35話 弱さの種類

「勤勉で心優しき兄者であったが、あるとき大層な病をしてな。それからは皆と同じように体を動かすことも、毎日学校へ通うこともできなくなっておった。それがしが、小学校へ上がって間もなき頃であったか」


 侍が何を語ろうとしているのか、侍の意図がどこにあるのか、鶴屋には分からなかった。弁当の香りが、弱い風に乗って漂ってくる。胡麻の香りも醤油の香りも、薄かった。


「母と父は、それは兄者を心配してな。兄者が咳をしたと言うては嘆き、兄者が起き上がれたと言うては喜んだ。兄者が一日学校へ行ければ、友達と一緒に遊んでくれば、縄跳びをたった一回飛べば、諸手を上げて褒めておった。それがしが引き算を覚えたときより、己の名前を漢字で書けたときより、はるかに激しくな」


 コジロウの口調は、不自然なほどに落ち着いていた。鶴屋の恐怖が、胃の底で膨らむ。


「それがしは、学校に上手く馴染めなんだ。友も作れず、学級の中でも浮いておった。それが辛うて、幾度も両親に相談しようとした。されど父も母も、どうにも忙しそうでなぁ。その頃はどうやら、兄者の手術の準備を進めておったらしい。それがしまでもが大学へ行けなくなるほどの、多額の銭のかかる手術の準備をな」


 静かに、あまりにも静かに侍は語る。鶴屋は、いつかのコジロウの姿を思い出していた。倒れたマントルに駆け寄ったとき、鶴屋の傷の手当てをしたとき、コジロウはいつになく深刻な表情を見せた。「己の体は必ず大切にせねばならぬ」と、重い声色でそう言った。「誰においても体が資本」だからと、決して朝食を欠かさなかった。


 間違えた。間違えた。きっと、何かを決定的に、間違えた。確信が鶴屋を覆っていく。呼吸ができなくなる。


「それがしもな、唐揚げが好きだった」


 目の下で、家族はまだ笑っている。


「されど、揚げ物は兄者の体に毒であったゆえな。親の手づくりの唐揚げを、それがしは食うたことがないのだ」


 弁当箱がゆっくりと、芝生に下ろされた。カサ、と、芝が渇いた音を立てる。唐揚げのない弁当を、鶴屋は見下ろしている。体を覆う恐怖に、生温い湯に似た焦燥に、首を絞められ続けている。


「のう、ツルヤ」


 侍の唇は、微笑んでいた。


「おぬしは、昨日のおなごを好いておるのか?」


 間違えた。


「お、れは」


 鶴屋は反射的に、口を開く。絞められていたはずの喉が、あっさりと解放されていた。「昨日のおなご」が誰のことなのか、「好いておる」とはどういう意味か、侍が何を訊いているのか、はっきりと理解できている。侍の感情も、侍の意図も今はなんとなく分かって、それでも認めるのは怖かった。認めた瞬間、今座っている地面が崩れ去る気がした。


 正解しなければ。今度こそ、正解の答えを選ばなければ。気ばかりが逸って、脳の動きが鈍っていく。しかし脳がまともに動いても、正解などできないのかもしれなかった。


 コジロウの感情も、コジロウの質問の意図も分かる。だが、コジロウが自分に何を求めているのかは、ほんのわずかにも分からなかった。


「好き、です」


 そうして結局、本心を吐き出している。下手な嘘をつくことも、この場を器用にやり過ごすこともできなかった。子どものような一言を恥じらう余裕すら、ない。目の前に座る侍の顔も、ほとんど見えていなかった。その目つきも顔色も、視界に入っているはずなのに判然としない。


「そうか」


 見えない顔から声がする。侍はその姿を隠したまま、じっとりとした憤りだけを鶴屋に向けていた。ざぁ、と木の葉が音を立てる。秋の午前、淡い黄色の光が丘を照らしている。


「すまぬな」


 コジロウは音もなく腰を上げた。長髪が温い風になびく。秋の陽はきらめき、眼下からは楽しげな声が響き、世界は幸せな日曜日を過ごしていて、コジロウだけを取りこぼしていた。


「おぬしはここで弁当を食うておれ。それがしは、行く」


 そして侍は走り出す。草履の底で芝を鳴らし、なだらかな丘を駆け下りていく。鶴屋は立ち上がった。走り去る背中を見下ろし、蓋が空いたままの弁当を見下ろしてから、割り箸を置いて駆け出す。待って、と声を出したような気もしたが実感は湧かない。


 追いかけなければならなかった。恐怖と義務感と焦りと悲しみに急かされ、滑る芝生を蹴る。腕に、足に、背中に鳥肌が立ち、額が熱くなった。感情に体を支配されていた。


 コジロウの足は遅い。しかし鶴屋の足もまた、遅い。そのうえ鶴屋の膝は恐れに震え、気管は焦燥に縮んでいた。芝生を抜け、タイルの道に降り立つ。大した距離ではないというのに、息が上がっていた。道の先を行く侍の背が、チカチカと白く光って見える。それでも鶴屋の感情は、立ち止まることを許さなかった。タイルを蹴る。


 気づかれたのだ。「昨日のおなご」が、阿潟が、侍の求めるものだということに。宝くじの一等当選者だということに。やはりあのとき、隕石の光を見られていた。


 だが、コジロウは気づかないふりをしていたのだ。鶴屋が阿潟を庇っていることもきっと察していたのに、知らないふりをしていたのだ。鶴屋の協力は望めないと、分かったうえで黙っていたのだ。だからこうして不意打ちのように、鶴屋を振りきろうとしているのだ。


 しかし、コジロウはどこへ行く気なのか? 彼は阿潟の居場所も住所も、名前さえもまだ知らないはずだ。知っていることといえば、鶴屋と同じ大学の、同じゼミに所属しているということ……いや、それさえ知っていれば十分かもしれない。ゼミの人数は多くない。それこそ天使に依頼でもされれば、あっという間に素性は割られてしまうだろう。こうなればおそらく、コジロウは金に糸目をつけない。


 血の気が引く。やはり止めなくてはならない。そうでなければ阿潟が危ない。もしも彼女に何かあれば、それは自分の責任だ。自分がコジロウを止め損ねたせい、自分が総長の課題を受けたせい、自分が、内定を欲したせい。そうなれば耐えられそうになかった。それだけの責任を負う覚悟など、鶴屋にはなかった。


 侍の背中が近づき、遠ざかり、手を伸ばせば届きそうになり、次の瞬間には離れている。公園を飛び出し歩道を走り、ふたりは鈍足同士の攻防を続けた。走り、走り、一歩踏み出すごとに鶴屋の視界は滲んでいく。


 そうして気づけば、見知らぬ道に入っていた。歩道は細く、人通りは少なく、午前中だというのに妙に薄暗い。


 侍は間違いなく、裏路地に向かっていっている。鶴屋は確信し、焦りは強まり、しかし肉体はいよいよ限界に近づいていた。腿が重い。踵が痛い。肺はすっかり硬くなって、息を吸うことも吐くことも、まともにできなくなっている。


 前方を走る侍の背。その輪郭がぼやけ、何重にも見え、また戻る。頭が痛い。もう走れない。だがその肉体的な苦しみも、湧き上がる恐怖には勝てなかった。足を踏み出す、踏み出す、踏み出す。それでも鶴屋は減速していたが、コジロウとの距離はさほど開かない。コジロウもまた、体力の限界を迎えているのだ。


 ぐら、と鶴屋の視界が傾く。と同時に、侍の背中もぐらりと揺れた。あ、とかすかな悲鳴が上がる。鶴屋の爪先が地面を掴む。コジロウの背中が前方に倒れていく。そして鶴屋が体勢を立て直す靴音と、侍が転ぶ衝撃音が、細い歩道に同時に響いた。


「や、めて、くださいよ」


 整わない呼吸の中、鶴屋は辛うじて声を出す。力を振り絞り、倒れた侍の側に駆け寄る。呼吸に上下する着物の肩を、両手で押さえつけた。が、力はあまり入らない。


「やめ、ぬぞ」


 押さえた肩の下から声がして、直後、咳が続いた。ゲホゲホと空気が吐き出されるたび、肩甲骨が大きく跳ねる。その動きに負けないよう、鶴屋は奥歯を食いしばる。それでも、腕の力が抜けるのは時間の問題だった。


「やめぬぞ、それがしは。いかようなことがあろうと、決して、やめぬ」


 やがて咳が止み、また声が発される。ひび割れたようなその響きは、これまでのコジロウの声とはまったく違っていた。執着心がそのまま音に変わったような、熱く乾いて粘ついた響き。その一音一音が耳に貼りつく錯覚に襲われ、鶴屋は身震いする。コジロウの言葉を聞きたくなかった。聞くのが怖かった。


 コジロウが首を回し、振り返る。鶴屋はその表情を見て、思わず手を離しそうになった。血走った目、引き攣った口角、今にも泣きそうに吊り上がった眉。あらゆる情動がぐちゃぐちゃに混ざった表情。その顔を、今度はくっきりと認識できた。


 コジロウの執着の源泉を、苦しみを、鶴屋は理解していた。だがそれは「理解した気になっている」だけだと、それもはっきりと理解していた。


「ツルヤ。おぬしに覚悟がないことなど、それがしはとうに知っておったぞ」


 粘ついた声で、コジロウは言う。そして短く、鼻で笑った。


「哀れな奴よ。弱いだけの理由も持ち合わせぬくせに、立ち上がる努力さえできぬとは」


 鶴屋の全身の血が、動きを止めた。


 腿の疲れを感じなくなる。食いしばった奥歯が擦れ、鈍い震動に頬骨が痺れる。恐れと屈辱と罪悪感が津波のように押し寄せ、鶴屋を呑み込む。


「何、だよ、それ」


 自分を呑み込むすべてを鶴屋は、怒りでしか表現できなかった。


「何だよ、馬鹿にするなよ! お、俺だって、」


 瞬間、体勢が崩れる。地面に手を突いたコジロウが、力任せに体を起こしたのだ。鶴屋は侍の両肩から、疲れた両手をあっけなく離してしまった。着物の背中に押し返される形で尻餅をつくと間髪入れず、側頭部に硬い衝撃が走った。薙ぎ払われた頭の向きを戻し、目を上げる。逆光の中の侍は、物干し竿を手に鶴屋を見下ろしていた。


 鶴屋は何か言おうとした。怒りに任せて罵倒しようとした。しかし言葉を思いつく前に、侍はくるりと踵を返す。


 逃げる気だ。慌てて追いかけようとするが、足首に力が入らず立ち上がれなかった。草履が一歩、前へ踏み出す。怒りと焦りに急かされて、鶴屋は四つ這いになった。亀裂の入ったアスファルトと向き合う。両腕に力を籠めどうにか立ち上がり顔を上げると、そこにもう、侍の背はなかった。


 薄暗い道の先はT字路になっている。痛む足を宥め、頭をさすりつつその分岐点まで走ったが、右にも、左にも、コジロウの影は見えない。


「く、そ」


 膝に手を突き、弱々しく毒づく。不意に喉が閉じ、激しく噎せた。空気を吐き出すと涙が滲む。その生温さが悔しくてたまらなくなって、鶴屋は強く目を閉じた。瞼に押し出された涙が、ぽたりと靴先に落ちる。たったそれだけのことですら、ひどく耐えがたく感じられた。咳の合間に、う、と呻き声が逃げていく。


 怒りはまだ残っていた。自分の苦しみを貶めたコジロウを、とても許せそうにはなかった。だがそれを、くだらない怒りだと冷笑する自分自身もいる。


 じゅうぶん恵まれた環境にあって、自分の努力不足のせいで勝手に苦しんでいるくせに、過剰に悲劇ぶって葛藤している。事実じゃないか。その図星を突かれたから、逆ギレしているだけだろう。


 コジロウは、自分よりもっと苦しんでいた。もっと苦しんだうえで、自分よりずっと努力していた。覚悟を決めて、真っ直ぐに強さを追い求めていた。


 鶴屋はコジロウを、弱い人間だと思っていた。自分と似た弱さを持つ、情けない人間だと思っていた。しかし自分とコジロウは、決定的に違っていたのだ。弱さに対する姿勢の面で、自分ははるかに劣っていたのだ。そんな自分が許しがたく、こんなときにまで自分のことばかり考えてしまう弱さもまた、腹立たしかった。


 ヒュ、ともう一度鳴ったきり、喉は静かになった。肺が少しずつ柔らかくなり、酸素を正常に受け入れ始める。チカチカしていた視界が落ち着く。が、思考はまだ整理できなかった。


 怒り、冷笑、今晩はどこで眠ればいいのか、置いてきた弁当はどうすればいいのか、コジロウはどこへ消えたのか、この辺りに安いホテルはあったか、いっそ実家に帰るべきなのか……阿潟のことは、どうすればいいのか。


 チリン、と鋭いベルの音に、鶴屋の肩はビクリと跳ねた。若者が乗った自転車が、目の前を勢いよく走り去る。遅れて一歩後ずさると、乗り手にギロリと睨まれた。その目つきに、熱を持った脳が冷える。


 そうだ、何よりもまず、阿潟を何とかしなければ。コジロウは今きっと、阿潟を探そうと躍起になっているだろう。このままでは遅かれ早かれ、彼女に危険が及ぶこととなる。それだけは絶対に、何としてでも、防がなければ。彼女に危険を知らせることができるのは、現状、自分しかいない。


 ポケットからスマートフォンを取り出す。震える指でロックを解除し、阿潟の連絡先を呼び出した。まとまりきらない思考のまま、指先を動かしていく。


 伝えなくては。何よりもまず、彼女に危険が迫っていることを伝えなくては、彼女に危害が、自分に責任が。焦りに人差し指が湿る。脳に熱が戻るのを感じるが、止めることはできない。


『突然すみません』

『今、伝えないといけないことがあって、迷惑かもしれないんですが』

『あなたが危ないかもしれなくて』

『危ないというのはたぶん命が』

『すみません、分かりにくいと思います』

『でも早く伝えないと』


 打てば打つほど思考が混乱していって、文章をまともに組み立てられない。どうすればこの状況を分かりやすく伝えられるのか、こんなメッセージをいくつも送っては嫌われてしまうのではないか、いやそんなことを気にしている場合ではないのではないか。わけも分からないまま、それでも指を動かし続けまた三文字ほど打ち込んだとき、「既読」の二文字が白く灯った。


『ごめんなさい。本当に分かりにくいです』


 白い吹き出しに、容赦ない返信が収まっていた。文字を打つ指が無意識に止まり、ぐ、と胸の奥が詰まる。安堵と羞恥が、怒りと混乱を塗りつぶしていく。と同時にもうひとつ、白い吹き出しが連ねられた。


『今から会って、話せますか』


 胸の詰まりが、その質を変えて大きくなる。


『何か危ないなら、私の家で』


 大きくなり続けたそれは、パンと破裂して鶴屋のすべてを粉々にした。

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