第33話 ゴキゲンでいてよ、屈辱のときも

「それはちょっと、俺の仕事じゃねぇっすね」


 鼻の下を中指で掻きつつ、情報屋は言った。


「俺は一応、情報を『与える』専門でやらせてもらってるんで。集めた情報を売ることはありますけど、集めるとこから金貰ってやるってのはちょっと、無理っす」


 彼の立つ玄関先はちょうど、隣接するビルの影に入っている。築年数の浅そうなアパートは、外壁が白くツヤツヤとしていた。風が吹き、近くのカレー屋からスパイスの香りが漂ってくる。


 溝口の拠点を探す際、天使に紹介された情報屋。この若者は相変わらず生意気で、どう考えてもコジロウと鶴屋を下に見ていた。肩を竦める鶴屋の隣で、コジロウがわずかに前のめりになる。と、嫌味なほど瑞々しい手のひらがそれを制した。


「あ、言っときますけどホント、金積まれても無理っすから。俺これ、別に本業としてやってるわけじゃないんすよ。あんまリスクのある仕事したくないんで、個人情報盗んでくるなんてマジ、やんないっすよ」


「……左様か」


 呻くように言い、コジロウは体を戻した。


 体験談から個人を割り出す。それを情報屋に頼もうという算段だったが、計画はあっけなく躓いてしまった。鶴屋は竦めた肩を落とす。こんなことだろうとは思っていたが、それでも落胆はするものだ。


 しかし同時に、心のどこかでは安堵してもいた。逃げ場がひとつ確保されたような、少し緩んだ気分になる。


 とはいえ当然、そんなことはないのも分かっていた。この計画が頓挫すればむしろ、鶴屋は窮地に追い込まれるのだ。他にターゲットが見つからなければ、阿潟が見つかる可能性は高まる。


「っていうかそれこそ、天使さんに頼めばいいんじゃないすか。役所のデータ盗み出すくらいなら、あの人簡単にやれますよ」


 情報屋の首がかったるそうに傾けられる。ぞんざいな口調がカンに障ったが、鶴屋は拳を握って堪えた。コジロウも何かに耐えているらしく、頬の筋肉を不自然に盛り上がらせて笑う。


「左様なことは承知の上よ。されど、天使は」


「あぁ、金ですか?」


 侍の返答が遮られる。ジーンズのポケットに手を突っ込み、情報屋は玄関ドアにもたれた。ぐ、とコジロウの喉が詰まる音を、鶴屋は聞く。おそらく、図星だった。


「あの人、めちゃくちゃ守銭奴っすもんね。いや分かりますよ、吹っ掛けられると困るもんなー」


 肩を竦める情報屋の顔と、侍の横顔を見比べる。コジロウはまだ笑っていたが、その不自然さは増していた。この場の空気を取り持たねばと鶴屋は必死に言葉を探すが、そんなことができるなら裏路地になど頼っていない。声を出すこともできないまま、口をぱくぱく開閉させる。そうして結局、情報屋の声に押し負けた。


「てか、なんで宝くじの当選者なんて探してるんすか? それもやっぱ、金?」


「金ではない!」


 声を張ってから、コジロウはハッとしたように口をつぐんだ。閉じた口から、下手な咳払いが漏らされる。キョトンと目を見張る情報屋に向けて、侍はボソボソと声を続けた。目が泳いでいる。


「いや、つまり、それがしらは任を負うておるのだ。宝くじの当選者を連れて参るようにとな」


 きまり悪そうな説明に、情報屋はふぅんと口を尖らせた。嘲るような、退屈そうな響きだ。鶴屋がその音に苛立ち、侍の神経質さを心配していると、投げやりな台詞がまた飛んできた。


「じゃあ、ニセモノでもいいんじゃないすか?」


「は?」「え?」


 鶴屋とコジロウの困惑が重なる。ニセモノでもいい、という言葉の意味が、まったくもって掴めなかった。ふたりでキョトンとしているうちに、「だからぁ」と言葉が続く。


「別に、ホントの当選者じゃなくていいじゃないすか。知り合いの中からどうでもいい奴を選んで、『こいつが当選者です』って突き出しちゃえば解決でしょ。後でそいつが否定しても、誰が嘘ついてるかなんてすぐには判断できねぇだろうし。それじゃ駄目なんすか?」


 それができれば苦労しねぇよ、と叫びそうになり、鶴屋は慌てて奥歯を噛んだ。鶴屋とコジロウのどちらにも、「知り合い」なんてほとんどいない。そのうえ相手はあの総長だ。「裏路地の王者」である彼女に、そんなやり口が通用するとは思えなかった。


 憤りを堪えつつ、隣のコジロウを見上げてみる。侍も口角を引きつらせながら唇を噛んでいた。


「あー、もしかして」


 そんなふたりの様子を見てか、情報屋は片頬を上げる。顔の右半分だけが笑い、左半分は明確な侮蔑を表していた。


「そういう人脈すら、あんまない感じっすか? じゃ、結構キツそうっすね」


 鶴屋の両顎に力が入り、奥歯が痛んだ。怒りにも悲しみにも羞恥にも似た感情が肺の底で生まれ、これが屈辱なのだと気づく。秋の太陽に雲がかかり、情報屋を覆う影が広がる。


「まぁたぶん、頑張れば何とかなりますよ。世の中、割と奇跡って起こるもんっすから」


 左右非対称に歪んだ口から、はは、と笑いが漏らされる。


 腹に大砲を撃ち込まれたように、鶴屋の体は空っぽになった。腹に空けられた大きな穴から屈辱までもが逃げ出して、何も考えられなくなる。自分自身の情けなさに、惨めさに、弱さに圧し潰される。


 なす術もなく震えていると、耳が「それじゃあ」という挨拶を聞いた。立ち尽くす鶴屋の目の前で、玄関ドアが閉められる。そうして屈辱も怒りも忘れ、ただ呆然としていると、肩に衝撃があった。


 軽い痛みに促され、顔を上げる。コジロウは鶴屋の肩から手を離し、その場でくるりと回れ右した。ひらりとなびいた長髪に隠され、その表情を窺い損ねる。だがアスファルトを踏む足音には、確かな怒りが宿っていた。叩きつけるように踏み出される草履を、追いかける。空っぽのままの体にも、屈辱の重さだけは残っていた。


 アパートを離れ、歩道へ出て、鶴屋とコジロウは帰路につく。ビル、コンビニ、カレー屋、レンタルビデオ店、低層マンションを通り過ぎ、信号を渡り、コインパーキングを目の前にしたその瞬間、バサ、と前方の袂が鳴った。


 思わず立ち止まる鶴屋の前で、生白い手が長髪の頭をがっしりと抱える。そして直後、「なッッッッ」と悲鳴めいた声が鼓膜をつんざいた。


「にが、人脈だ! 何が! え!? 人と関わることがそれほど良いことか!? それがしがそれほど間違うておるっていうのか!? おい!」


 絶叫に合わせて侍が振り向く。なびいた長髪に頬を張られて、鶴屋は「わぶっ」と情けない声をあげた。と思うと両肩を勢いよく掴まれ、前後に激しく揺さぶられる。


「おい、どうなんだ! ツルヤおぬし、悲しくはないのか! なぁ!」


「え、あ、ちょっ、悲しい、悲しいですけど」


 揺さぶられつつ周囲を見回す。真昼の街を行く人々は、チラチラとふたりを横目に見ては足早に通り過ぎていった。恥ずかしさに全身が熱くなり、鶴屋は侍を押し返す。そうして離された侍は、泣き出しそうに頬を歪めていた。


 鶴屋にも、彼の怒りは理解できる。が、その激しさにはついていけない。ここまで取り乱すコジロウを見るのは初めてで、情報屋の言葉だけが引き金になったとは思えなかった。


 家を出る前に怒らせたことが、尾を引いているのか? たったあれだけの出来事が、それほど大きな意味を持つのか? 何も見当はつけられないが、じっくり悩む余裕もなかった。違和感を無視して舌を動かす。


「いや、落ち着いてください。怒ったってしょうがないでしょ、実際、人脈なんてないんだから」


「な、何を言うか、ひとりだけ大人ぶりおって……!」


 コジロウは睨むように目を細める。が、視線は鶴屋から外されていた。鶴屋は返す言葉を探すが、例によってすぐには思いつけない。また通行人がふたりを眺め、スタスタと歩き去っていく。


 少ししてその足音が消えると、侍は拗ねたように踵を返した。激しい草履の音の奥から、何やらぼやく声がする。その声を追って、鶴屋も歩き出した。


「そも、人脈というものはいかにすれば広げられるのだ? 世間の者は一体いかように人と関わっておるのだ」


 早足で歩を進めつつ、侍は吐き捨てるように言う。今までにない苛立ちように、鶴屋は依然困惑していた。しかし、ここで黙っているのが得策だとは思えない。草履の速さについていきながら、当たり障りのない返答を組み立てる。


「たぶん、日常の会話とか、挨拶とか、じゃないですか? 人と上手くやっていく方法を、みんなは知ってて」


「まっこと、羨ましきことよ」


 侍の嫌味には、くっきりと嫉妬の色があった。ふたりは花屋の角を曲がり、また真っ直ぐに進んでいく。


「それがしなど、人と目を合わすことにすら難儀しておるのだぞ。問いに間を置かず答うことにも、相手が腹の内で何を考えておるのかと、心惑わずにおることにも」


「えっ」


 驚きが口をついて出る。慌てて唇を閉じる鶴屋を、侍はジロリと振り返った。訝しげな顔に圧を感じて、鶴屋は俯く。焦りが湧き上がり、「いや、その」と早口が滑り出す。


「コジロウさんって全然、そういう印象なかったので。目を合わせるのとか、素早く答えるのとか……普通にできてるから」


 言い訳めいた口調になったが、本心だった。そういったコミュニケーションにおいて、侍に苦労は見えなかったのだ。女性との会話にだけは明らかに苦心していたが、その他の場面ではほとんど不器用さを見なかった。コジロウは確かに強くはないが、「コミュ障」なのは自分だけだと鶴屋は思っていた。


「そんなもの、『普通』に近づかねばならぬゆえ、そうしておるだけのことよ」


 侍は不機嫌そうに言う。前方の信号が赤く灯って、ふたりは立ち止まった。ありふれた白の軽自動車が横断歩道を轢いていく。


「どれほど優れた力があろうと、どれほど気高き心があろうと、人と関われねば見向きもされぬ。それが当たり前のことであろう、それがしらがいかに適しておらずともな。……されど」


 軽自動車の影が消え、コジロウは鶴屋を見下ろした。太陽光を反射しない瞳に、鶴屋はたじろぐ。が、それを表に出すことは許されそうになかった。


「本気でそれがしを『普通』と思うておるのなら、おぬしは相当な阿呆だぞ」


 青に変わった信号が、ピヨピヨと高く鳴き始める。ふたりは再び歩き出し、草履と革靴で歩道を鳴らした。青空が本気で鬱陶しくなり、鶴屋は強く瞬きする。侍が纏う自己否定の空気に、呑み込まれそうになっていた。その高い波に抗って、無理やり言葉を探し出す。


「でも、そ、その、コジロウさんは本当に」


「ところで、おぬしのそれは」


 意図せず声が重なって、ふたりは同時に口を閉じた。きまり悪さに鶴屋の気管はきゅっと締まる。と、その隙に侍が言葉を続けた。


「おぬしのそれは、紛うことなき奇跡であろうな」


 隕石の入ったポケットが、ちょいちょいと控えめに指差される。鶴屋はとっさにポケットへ手を入れ、ごつごつとした欠片を撫でた。あぁ、と口の中で答える間に、手の中は熱を持ち始める。銀色の光が、黒い布から漏れ出した。


「情報屋の奴め、つまらぬ挑発をしおる。たかが奇跡など、ツルヤはとうに操っておるというになぁ」


 侍は言いつつ、ポケットの光を見つめている。そのわざとらしい口調と視線には、うっすらと皮肉の色があった。


 鶴屋は気まずくなり、ポケットから手を出す。今のコジロウは明らかに不安定で、不気味だった。銀色の光が一瞬揺らぎ、じわじわと勢力を弱めていく。


「そうです、かね」


「そうに決まっておろう。おぬしとその星の欠片があれば、此度の課題も存外たやすく済むやもしれぬぞ」


 コジロウの声から皮肉っぽさが薄れる。が、上がった口角にはぎこちなさが見えた。


 ふいに喉が鳴り、鶴屋は自分の緊張に気づく。侍の態度はどう考えても不自然だが、その理由には思い当たらなかった。不安にみぞおちを圧迫され、腹から慎重に空気を逃がす。


「いや、さすがに、そんなに上手くはいかないような……」


 と、その声を遮るように、視界の下端が鋭く光った。驚きにハッと目を下げる。


 隕石の入ったポケットが、眩い銀に輝いていた。


 鶴屋はわけも分からないまま、それを右手で強く押さえる。一体なぜ、こんなタイミングで光り出す? ついさっきまで光は弱まっていたはずなのに。混乱に足を止めると同時に、「あ」と、声がした。


「どうも」

 

 気だるげな挨拶に振り返る。その先にある光景を見て、時が止まる。


 阿潟が、銀色に光る右手をあげていた。


 つむじから血の気が引いていく。指先から熱が消えていくにつれ、ポケットは熱さを増していった。


 どうして、どうして彼女がここにいる? これもまた、隕石の力だというのか。この隕石が、彼女をここへ連れてきたのか? 


 余裕のない頭が軋みながら回るが、思考に構っている暇はなかった。指と指の間をぴったりと閉じ、手のひらをできるだけ丸く曲げて、漏れそうな光を押さえ込む。


 阿潟は一歩、一歩、淡々とこちらに近づいてきている。その足の動きの滑らかさも、陽光を跳ね返す黒髪の柔らかさも何もかも、今の鶴屋には恐ろしかった。逆流してくる胃酸にも似た、生温い苦みが鼻の奥に満ちる。


「ど……うも」


 そして挨拶を返せたのは、阿潟が横を通り過ぎてからだった。阿潟は鶴屋に会釈して、数歩先で立ち止まるコジロウにも頭を下げ、歩道の先へと進んでいく。一歩、一歩、阿潟が遠ざかり、そのうちにポケットの熱も引き、鶴屋はゆっくりと、目を上げた。


 コジロウは、阿潟の後ろ姿を見ている。そのぼんやりとした横顔に、感情は見えない。


 ポケットの上から隕石を握る。コジロウは、さきほどの光を見ただろうか? いやしかし、さっき隕石を撫でた名残もまだ消えきってはいなかったはずだ。だとすればあの光のことも、見逃されたのではないか。


 淡い期待を抱かずにはいられず、しかしそれを嘲る自分もいて、今すぐこの場にうずくまりたくなる。しかしそれをすれば不審がられるのは明らかで、膝どころか親指の付け根の関節すら、曲げられない。


「あのおなごは」


 コジロウの声が降ってくる。


「先ごろ、おぬしに連絡を寄越したおなごか?」


 問いは滑らかに続けられた。鶴屋はその響きから侍の内心を覗こうとするが、できない。音の高低、語尾の消え方、かすかな喉の唸りと、イントネーションの揺らぎ。どれも普段と同じようにも、まるで違っているようにも聞こえた。


「そ」何ひとつ分からないまま、答えざるを得なくなる。「そう、ですけど」


 音の高低、語尾の消え方、かすかな喉の唸りと、イントネーションの揺らぎ。すべてが狂っているように思えて、頭皮が湿った。空気を吸う音ひとつにさえも自信がなくなり、浅い呼吸しかできなくなる。指先が震えているような気がして、拳を固く握りしめた。


 すぐそこに立つ侍を見る。瞬きの回数が増えないように気をつけると、眼球の表面がひどく乾いた。周囲の歩道から、車道から、あらゆる音が消えていく。


 コジロウの口が開かれる。その動きがスローモーションのように、重く、重く目に映る。


「なんだ、おぬしには人脈があるではないか」


「え?」


 強張っていた全身から、力が抜けた。周囲の音が耳に戻る。車の走行音、青信号の音、風の音と自転車のベルの手前から、侍のぼやきが聞こえてくる。


「それがしには、あのような知人などひとりもおらぬぞ。そも、学友などまともにできた試しもない」


 まったく、謀反に遭うた気分よ。そう言って侍はそっぽを向いた。そのままがに股で歩き出す背中は、それ以上何も語りそうにない。ぷりぷりと揺れる長髪を眺め、鶴屋は今度こそ膝から崩れ落ちそうになった。


 コジロウが光を見たのかどうかは、分からない。それでも、少なくともこの瞬間には、最悪の事態を迎えずに済んだのだ。それが良いことか悪いことかもやはり分からない。それでも今はどうしても、安堵せずにはいられなかった。


 力の入らない腿を叩いて、コジロウを追う。歩道を進んでも、角を曲がっても阿潟の背には追いつかず、ポケットの隕石も光らなかった。

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