第32話 覚悟のレシピに足りない材料

 瞬間、感覚が失われた。動悸も吐き気も、指先の冷えも膝の震えも、感じられない。しかし唯一、こめかみの痛みだけは認識できた。冷たい親指が頭蓋に食い込んでくるような、呼吸も忘れるほどの痛み。それ以外の何もかもが失われて、遠のいていく。


 焦りではなかった。恐怖でもなかった。鶴屋を襲ったのは言うなれば、単なる「衝撃」でしかなかった。凪いだ水面に石を落として、水滴が飛び、波紋が広がる。それに似た衝撃が鶴屋を震わせていた。


 脳裏に浮かぶのはただ真っ暗な、洞穴の映像だけだった。自分の足先すら闇に消える、真っ暗な、震動を反響させるだけの洞穴。


「宝くじ、にござりまするか」


 片耳に声が触れ、洞穴からずるりと引きずり出された。首を回す。コジロウの目は血走っていて、表面がひび割れているように見えた。鶴屋の腹にふと、感覚が戻る。吐き気が食道を撫で上げていく。


「あぁ。今までの課題と雰囲気が違うから、驚いたかもしれないけれどね」


 反対側の耳にも、声が飛んでくる。総長は両手を後ろで組み、試すようにふたりを見ていた。鶴屋に指先の感覚が戻る。金属のように冷えた中指が、千切れそうに痛んだ。


「滅相もござりませぬ。それがしはただ、たまわった命を果たすのみにござりますゆえ」


「そう。それなら良かった」


 コジロウと総長の声は続く。依然吐き気は収まらず、指先はさらに血の気を失う。その不快感を抑えるように唾を飲んだ。ごくり、と喉仏が動くと、乾いた喉が辛うじて潤う。そして自然と、声が出た。


「その人を」


 鶴屋はようやく、焦っていた。


「その人を連れてきたら、ど、どうなるんですか」


 総長が、透き通る瞳で鶴屋を捉える。鶴屋は視線を逸らす余裕もなく、眼前の顔を見つめ返していた。脳裏にはもはや、あの洞穴の光景はない。ただひとつ思い浮かんでいるのは、艶やかな髪の黒だった。


 宝くじの、一等当選者。それを鶴屋は、たったひとりだけ知っている。


「もちろん、お前たちは望みを叶えられる。コジロウは私の仲間になり、鶴屋くんは内定を手にできる」


「そっ、そうじゃなくて」


 赤い唇がほんの一瞬、笑ったように見えた。が、瞬きのうちにその笑顔は消え、元の無表情に戻っている。


 指先の冷えが背筋を這い上がった。寒い。にもかかわらず汗が滲む。脳裏に浮かぶ黒髪が、風に揺れる。


「そうじゃなくて、その、当選者の人、が」


「あぁ」


 総長の相槌に、熱はなかった。相槌だけではない。表情にも、その神秘的な佇まいにも、ほつれた髪の一本にまで、温度が感じられなかった。


「せっかくお金を持っているなら、何をしてでもこちらにもらわないとね」


 頭の中で、風に吹かれる後ろ姿が振り向いた。気だるげな、それでいて芯のある眼差しが、想像の世界で鶴屋を見つめる。甘く爽やかなシャンプーの香り。手のひらに載せた、小さなチョコレートの重み。


 鶴屋さん、と、阿潟は呼んだ。


「それじゃあ、きっと、よろしくね」


 総長は低く言う。鶴屋は煮え湯のような拒絶を自覚した。隣でコジロウが頭を下げる。その所作も、凍えるように冷たい空気も、机に並んだ品物の全ても、受け入れられない。しかし自分がここにいる理由を、忘れることはできなかった。


 内定を得るため。


 警鐘のような心音を隠し、頭を下げる。額縁の夜空で輝く星が、照明の白を反射して光った。


 *


 裏路地の気配はより色濃くなり、闇の深さは増している。古びたビルを出てもなお、鶴屋が息をつくことはなかった。


 縮まった肺の中にはまだ、あの部屋の冷たさが溜まっている。総長の澄んだ声の響きも、耳にくっきりと残っていた。帰り際に返された隕石は、またポケットに収まっている。その重みにさえ実感がなかった。


 総長は、何をどこまで知っているのか?


 宝くじ一等当選者。これまでのものとは明らかに乖離したその課題に、思惑がないとは思えなかった。


 総長が一瞬鶴屋に向けた、酷薄な笑顔。幻のようなあの表情が、どうしても頭から離れない。普段の無表情とは違うあの冷淡な笑みにこそ、真実があるように思えた。


 総長は、阿潟の存在を知っている。知っているうえで、自分の覚悟を試している。


 これはあくまで憶測だ。しかし、この憶測が正しくなければ筋が通らない気がした。「せっかくお金を持っているなら」。あたかも金が目当てかのように、総長はそう言ってみせた。だが彼女は、そうまでして金を求めるだろうか? 最後の課題だからといって、金のためだけにその神秘性を失うだろうか?


 溝口の目を、遠近の顔を思い出す。かつての遠近に与えられたのは、ひどく残酷な課題だった。実の兄を殺すこと。それを指定した総長はきっと、遠近の兄を殺したかったわけではない。実の兄弟を殺させることで、遠近の覚悟を見たかったのだ。だとすれば、今回も同じことではないのか?


 そう考えるとこれまでの課題も疑わしい。遠近を「使え」と言ったうえで、溝口の右目を狙わせたこと。指輪で繋がれていたミヅキらが、総長の配下であったこと。マントルや隕石については分からないが、それすらも作為的に思えてくる。


 自分たちはずっと、総長の思惑通りに動かされていたのではないか? 課題だけでなく、その達成の手段さえ定められていたのではないか? だとすれば、阿潟の個人情報は既に、総長の手にあるのではないか?


 タライに水が溜まっていくように、不安が鶴屋を満たしていく。やがて不安はごぽり、ごぽりと音を立てながら渦を巻き始め、鶴屋は体ごとその中心に巻き込まれた。そうして呼吸も、瞬きさえもままならなくなったとき強い風が吹き、


「のう、ツルヤ」


 現実に引き戻される。反射的に顔を上げると、侍が鶴屋を見下ろしていた。視線が合い、コジロウは満足げに目を細める。風の余韻になびく長髪が、月の光を受けていた。


「いかがする?」


 その問いを、すぐには受け止められなかった。阿潟を突き出してもいいか、と、そう訊かれたような気がしたからだ。だが一瞬遅れて、もっと漠然とした問いだと気づく。コジロウまでもが阿潟の情報を掴んでいるとは、さすがに考えにくかった。渦巻く不安を隠しつつ、答える。


「いかが、するのがいい、ですかね」


 思ったよりも声が出ず、焦った。目が泳いでいないか、呼吸が荒くなっていないか、自分の細かな所作が気になって動けなくなる。視線を逸らせもしなくなり、鶴屋はコジロウを見上げ続けた。侍はふむ、と柔らかく唸り、芝居がかって目を閉じる。


「さてなぁ。高額当選者というものは皆、それを押し隠すものと聞く。そう易々とは見つからぬであろうしな」


 そう言いつつも、コジロウはどこか楽しそうだ。動揺を悟られてはいないらしい。が、決して安心はできなかった。唇を軽く噛んでから、「そうですね」と平坦に返す。


 当然ながら、コジロウは課題に前向きだ。彼はきっとこれまでと同じく、がむしゃらに達成を目指すだろう。どれほど勝算が低くても、血眼になって一等当選者を探す。そしてひとたび発見すれば、それがどのような相手であっても決して諦めないはずだ。


 そう、たとえそれが、鶴屋の想い人だと分かっても。


「ツルヤ?」


 無意識のうちに俯けた顔を、侍が覗き込んでくる。鶴屋は思わず後ずさり、ビルの外壁に背をつけた。ざらりとした感触と同時に問いが続く。


「いかがした、気分が優れぬのか?」


 コジロウの眉間にはごく浅いシワが寄っている。それが心配しているようにも、何かを探っているようにも見え、鶴屋の舌は固まった。しかし、ここで間を作るわけにはいかない。わざとゆっくりと瞬きをして、はは、と息だけで笑う。


「いや、何でも。あ、ちょっとその、冷えた……かもしれないですけど。大丈夫です」


 苦しい嘘だ。侍は眉間のシワを深くし、両目をすがめる。鶴屋はその目から逃げたくてたまらなくなったが、目を逸らすわけにもいかなかった。月を背にする侍を見つめる。鶴屋を映す瞳は暗く、やけにつるりとして見えた。


「なら良いが、辛ければすぐにそう申せよ」


 その声もまた掴みどころがなく、あっさりと風に流れていった。眉間のシワをすっとほどいて、侍は鶴屋に背を向ける。頼りない草履の音が聞こえ、鶴屋は息を吐いた。


 コジロウに、阿潟のことを知られてはならない。彼女の存在に気づかれないよう、隠し通さなくてはならない。コジロウについていくのなら、このまま嘘をつき続けなくては。


 ずしりと胸が重くなる。しかしそれでも、鶴屋は決断できなかった。総長の課題に向き合うのか、真っ当な道へ戻るのか。光の見えない就活に戻るか、裏路地からの内定を目指すか。どちらを選ぶと決めるにも、鶴屋には自信が足りなかった。


 おーい、早う来い。コジロウが呼ぶ。黒いアスファルトをどうにか蹴って、鶴屋は前へ踏み出した。吹き抜ける風に背中を押され、しかし裏路地はあまりに暗く、侍の背は滲んで見えた。


 *


『東京都のM.Tさん(五十一)は、四十歳のときに初めて宝くじを購入。ちょっとした運試しのつもりが、当選結果はなんと一等!』


『山口県のY.Kさん(三十二)。宝くじ購入のきっかけは、不運が続いたことでした。「こんなに不運が続くのならば、いつかものすごい幸運が来る」。そう思い宝くじを買ったところ、なんと見事に一等当選!』


『岩手県のS.Mさん(四十五)は……』『大阪府在住のH.Tさん(五十五)は……』『長野県のK.Iさん(六十三)……』


「何とも羨ましき話よのう」


 コジロウがあくびのように言い、鶴屋も「ですね」と頷いた。スマートフォンに映るのは、宝くじ当選者の体験談。宝くじの公式ホームページに掲載されているものだ。


 最後の課題を聞いた翌朝。寂れた六畳間の煤けた床で、ふたりは液晶を覗き込んでいた。


「でも、イニシャルとか年齢まで公開されてるものなんですね。これじゃあ、頑張ったら特定できちゃいそうなものですけど……」


 画面をスクロールさせつつ、鶴屋はボソボソと言う。居住地、イニシャル、年齢の三つは、どの体験談にも欠かさず記載されていた。高額当選者の情報は隠されるものと思っていたが、そうでもないらしい。画面に並ぶゴシック体の明るさに、拍子抜けしていた。


「なれば、それがしらも『頑張』る他ないか?」


「ま、まぁ、そう、ですかね」


「では、いかように頑張れば良いのだ」


「え、と」


 ふたりは画面を見下ろしたまま、それぞれの方向に首を捻る。居住地とイニシャルと年齢。ここから個人を割り出す術を、ふたりが持っているはずもなかった。


 鶴屋は首を捻ったまま、チラリとコジロウの横顔を見やる。侍は顎を撫でながら、真剣に思案しているようだ。迷いの見えない表情に、ほんの少しだけ安堵する。


 このままイニシャルのどれかを選び、課題達成へ邁進する。鶴屋にとっては、それが比較的安心できる道だった。侍がターゲットを定め、その人物にだけ集中してくれれば、阿潟を隠す必要も薄れる。


 液晶に映る体験談を、上下へ行ったり来たりさせる。「M.T」、「Y.K」、「S.M」、「H.T」……。総長の約束を信じるなら、この中の誰かが犠牲になれば、鶴屋は望みを叶えられる。内定を手にして、就職して、阿潟には危害を加えさせずに、集団の強さを借りられる。


 そう、これまでの苦労も悪事もすべてが、報われるのだ。世の中に求められているものに、応えることができるのだ。自分の大切な誰かではない、見知らぬ他人を犠牲にすれば。


「いかな心持ちなのだろうな。それほどの大金を、運のみで手にするというのは」


 暗い感情に呑まれかけたとき、侍の声が飛び込んできた。コジロウは顎に指を添えたまま、さきほどまでより脱力している。気怠げに下がった両の眉には、ぼやけた憂鬱が見え隠れしていた。


「いかな、って、いうのは?」


 その憂鬱に気圧されて、鶴屋は漠然と問い返す。質問をそのまま受け取って、「嬉しいんじゃないですか」と答えるのは間違いに思えた。コジロウは鶴屋に一瞬視線を向けてから、億劫そうに膝を抱える。


「銭を得るということは、己の値打ちを認められるということであろう。されど、くじで得た大金は何を認めてくれるわけでもあるまい。財が潤うのは喜ばしきことだろうが、どうにも異な心持ちがしそうだと思うてな」


 コジロウの言い分に、鶴屋は驚いた。金銭を得るということは、価値を認められるということ。それは分かっていたつもりだが、宝くじにまで当てはめたことはなかった。


 話の内容より、コジロウの考え方に意識が向く。金銭よりも己の価値に重きを置く姿勢は、納得感もあったが意外でもあった。この侍は、目先の豊かさに飛びつきそうな気がしていたのだ。


「ただ金持ちになるだけじゃ、駄目ですか。コジロウさんとしては」


「駄目ではないが、虚しかろう」


 侍は答え、抱えた膝を胸に寄せる。子どものような仕草だったが、憂いを帯びた表情はどうしようもなく、悟って見えた。


「人など、誰ぞに認められねば無用のものだ。それで認められるというなら、それがしはいくらでも銭を払おうぞ」


 切実な声に、鶴屋の胸は詰まる。放っておかれたスマートフォンが、ぷつりと液晶の光を消した。


 侍のことは理解できない。理解しないほうがいいのかもしれない。それでも、興味がないわけではなかった。ここまで生活を共にして、同じ課題に取り組んできた相手だ。彼が何を考えているのか、一体何を欲しているのか、知りたいと思うことに理由はなかった。


「じゃあ、認められるために、総長の仲間になるんですか」


 思わず訊くと、コジロウの唇は薄く開き、閉じる。明後日の方向へ目を逸らされる目を、鶴屋は追わなかった。顔がわずかに背けられ、その奥から答えが返ってくる。


「是非もなかろう。それがしはこれまで、何を成しても誰にも認められなんだのだ。残された手立てが、これのみであったということよ」


 責めたつもりはなかったのだが、侍の声は拗ねていた。すみません、と謝ると、フンと鼻息で返される。居心地が悪くなり、鶴屋はもう一度スマートフォンの液晶を点けた。画面に白い光が戻り、体験談が映し出される。呑気な文章を読むこともなく、下へ、下へとスクロールしていく。


 誰かに価値を認められたい。コジロウを突き動かしていたのは、そんな欲求だったらしい。隕石が光を放ったとき、マントルの隠し部屋を見つけたとき、偽の指輪を作らせたとき、遠近に行動を迫ったときの、侍の表情を思い出す。彼の欲求の激しさは、あの顔を見れば明らかだった。


 認められたい。ただそのために侍はもがき、苦しみながら、強さを切望しているのだ。


 寂しいな、という感想が、鶴屋の胸にぽっかりと浮かぶ。


「おぬしはどうなのだ」


 と、不機嫌な声が投げかけられた。「え?」と出した声は裏返る。振り向くと、コジロウは鶴屋を睨んでいた。疑うような、呆れたような、あるいは試すような、じっとりと粘ついた目つきだ。


 漠然とした不穏さを感じ、鶴屋は目を泳がせる。そうするうちに、侍の唇が再び動いた。


「おぬしは、認められたくはないのか」


「あー……」


 両目の動きを止めることなく、鶴屋は俯く。液晶を消し、もう一度点けて、また消し、点ける。その間にも侍の視線は刺さり続けていて、落ち着かなかった。


 自分は認められたいのか、それとも、別の何かを求めているのか。それを考えたことはなく、この気まずい空気の中では到底考えられなかった。そもそも今は、それに脳を割く余裕もない。コジロウの視線と液晶のイニシャル、脳裏にチラつく阿潟の影に急かされるまま、気づけば声を出している。


「あんまり、考えたことなかったですね。そういうのは」


 液晶と向き合って答えてから、コジロウのほうへ顔を上げる。その瞳からは力が抜けていて、責めるような色もなくなっていた。侍の感情がやはり分からず、鶴屋は戸惑う。


 すると突然、スマートフォンが取り上げられた。四角いカラクリをぎこちなく掲げ、コジロウはまたフンと鼻を鳴らす。今度の響きは一回目より力強く、投げやりにも聞こえた。


「ともかく! まずはこの頭文字を追おうぞ。ここで唸っておるばかりでは、進むものも進まぬゆえな!」


 そう言うなり腰を上げ、コジロウはスタスタと歩き出す。鶴屋も慌てて立ち上がった。「どこ行くんですか」と声をかけると、「どこでもよかろう!」と怒鳴られる。その響きには、裏切られた、とでもいうような怒りがこめられていた。


 やっぱり、さっきの答えは適当過ぎたか。後悔するが、落ち込んでいる暇もなかった。座卓に置いた隕石を掴み、遠ざかる袴を追いかける。開かれた玄関扉から、生温い陽光が飛び込んできた。

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