第31話 最終試験は厳しいものでしょ

 風呂場を出ると、カロ、と硬い音がした。


 タオルで髪を拭く手を止めて、音の方向に目を向ける。座卓の前に座るコジロウが、おう、と右手をあげていた。卓上には隕石が転がっており、侍の笑顔はぎこちない。


「い、いかがであったか、今日の湯加減は」


「え? 今日はシャワー、浴びただけなので。っていうか、コジロウさんが先に入ったじゃないですか」


「あぁ! さ、左様であったか、左様であったな」


 わはは、と笑う声は震えている。お手本のような不審さに、鶴屋は首を傾げた。


 阿潟と歩いたその日の夜。いよいよ深まった秋の気温では、浴衣が少し肌寒かった。再び髪を拭き始めると、固いタオルがゴワゴワと鳴る。


「あの、何かありました?」


 ゴワゴワの中、率直な疑問を投げてみる。隠そうとしているようだが、コジロウが隕石を触っていたことは明らかだった。


 侍は普段より高い声で、「ん?」と鶴屋に問い返す。それから大きく咳払いをし、不器用な動作で手を振った。


「いいや、何も。それがしは全くもって、大事ないぞ」


 大事ないとは思えなかったが、これ以上突っ込むのは憚られた。あぁ、とだけとりあえず返し、ゴワゴワと頭を拭き続ける。コジロウは鶴屋から顔を背けると、落ち着かない所作で耳を掻いていた。下ろされた長髪がわさわさ揺れる。


 侍の意図は読み取れないが、気まずさだけは強烈に感じ、鶴屋は部屋の奥に寄った。背の低い棚からドライヤーを取り、そそくさと台所へ向かう。流し台の脇にしゃがみ込み、低い位置のコンセントにプラグを挿した。スイッチを入れる。ドライヤーは頼りない風量ながらも、その音で静寂を和らげてくれる。


 コジロウが何をしていたのか、鶴屋にはまったく分からない。考えてみれば、侍が普段何を思っているのかもそれほど分かっていなかった。


 しかし、その「分からなさ」には妙な納得感もある。なにせ相手は侍なのだ。心情を汲み取ろうにも、人間性を読み解こうにも、浮世離れした言動に邪魔される。 真に理解などできるはずもないし、きっとコジロウ本人だって、それを望んでいないのだろう。そんな気がした。


 髪を乾かし、ドライヤーの電源を切る。耳に静寂が戻ってくるが、なるべく気にしないように努めた。プラグを抜き、コードを丸める。台所から一歩半ほど離れると、ピンポーン、と音が聞こえた。


 座卓の前で、コジロウが怪訝な顔を上げる。鶴屋も背後へ首を捻って、玄関扉を凝視した。


 ピンポーン。繰り返される音に、両肩がずしりと重くなる。この家に来て約一か月。夜の来客で、良いことが起こった試しはなかった。座卓を振り返ってみると、コジロウの口も忌々しげに曲がっている。


「えと、どうします?」


「出る他なかろう」


 溜め息混じりにそう言うと、侍は腰を上げた。小走りで玄関へ向かい、ドアスコープを覗き込む。


 と、「おっ!」と張りのある声が上がった。数秒前とは一転して、侍の声は希望に満ちている。


 一体誰が来たというのか、鶴屋には見当がつかなかった。体ごと玄関に向き直り、「誰ですか?」と訊いてみる。が、答えが返ってくるより先に玄関扉が開かれた。


「遠近殿!」


 弾んだ声と同時に、冷えた空気が部屋に舞い込む。ぶるりと肩を震わせながら、鶴屋は玄関の奥を覗いた。


 夜の街、遠くの街灯に顔の片側を照らされながら、遠近がそこに立っている。金髪は今日もきっちりと整えられていたが、目にサングラスはかかっていない。


「お前ら、今すぐ身支度を済ませろ」


 遠近の声は毅然としていた。素朴な両目が静かに動き、鶴屋とコジロウを順に見る。鶴屋が玄関に歩み寄ると、コジロウがまた声を上げた。生白い頬が紅潮している。


「総長からの御下知おげちにござるか!」


「そうだ」


 その端的な回答を受け、コジロウは爛々と目を輝かせる。そんな侍の隣で、鶴屋は鈍器のような恐怖に駆られた。髪を乾かしたばかりの頭が、夜風に冷えてジリジリと痛む。


 最後の課題が、いよいよ提示されるのだ。


 気管が固く締まるのを感じる。今すぐ遠近を押し退けて、夜の歩道へ逃げ出したくなる。


「ほら、早くしろ。総長がお前らを待ってくださってるんだぞ」


 が、そんな逃亡が叶うはずもない。どこか投げやりな声に急かされ、コジロウは「承知!」と部屋に引っ込む。その侍に「ツルヤ!」と呼ばれ、遠近の視線にもギロリと刺され、鶴屋も従わざるを得なくなった。


 部屋に戻り、着たばかりの浴衣から脱いだばかりのスーツに着替える。座卓に転がる隕石の欠片も、一応ポケットに入れておいた。そしてしぶしぶ玄関に戻ると、コジロウも鶴屋の後ろにつく。


「よし、行くぞ」


 ふたりが玄関に揃うなり、遠近はくるりと背を向けた。冷たい風に揺れる金髪を、鶴屋とコジロウは追いかける。前を遠近、後ろをコジロウに挟まれた鶴屋は、やはり逃げられそうになかった。シャワーの熱が消え去った肌に、鳥肌が立つ。


 信号機、コンビニ、テールランプとガソリンスタンド。単調な光の通りを過ぎて、三人は裏路地に入る。夜の裏路地はひどく暗いが、表通りよりはるかに多くの生きた気配が蠢いていた。


 鶴屋は唾を飲む。総長のビルへの道を覚えても、この雰囲気には未だに慣れない。伸びない背筋をさらに丸めて、痛み出す胃を庇うように歩く。


「のう、ツルヤよ」


 しかしそんな鶴屋の肩を、背後の侍は軽々と叩いた。しぶしぶ振り返ってみると、コジロウは唇の端に手を当て、浮き足立った小声で言う。


「総長は、いかような課題を思し定められたのであろうな?」


 能天気な山を描く眉は、遠足中の小学生に似ていた。その浮かれように鶴屋は腹が立ってくる。俺が乗り気でないことに、どうしてこうも気づかないのか? 侍の考えていることは、やはり少しも分からない。


 だがここで怒りを露にしても、事態が好転するわけはなかった。胃液の泡立ちを感じつつ、適切な答えを必死に探す。しかし苛立ちと怖れのせいで、頭はまともに働かなかった。その間にもコジロウはキラキラとした視線を寄越し、そしてふいに、「おい」と声が投げられる。


 コジロウの目が前方に向けられ、鶴屋も首の向きを戻した。遠近はふたりを振り返ることなく、真っ直ぐ歩き続けている。隙なく伸びた背筋の奥から、声が続いた。


「やると決めたんなら、やれよ。最後の課題がどんなものでも」


 黒々としたアスファルトを、遠近の革靴が淡々と打つ。強さも、弱さも感じさせないしなやかな音に、感情は表れていなかった。


「ただ、もしやらねぇつもりなら、何があっても絶対にやるな。俺にも他の奴らにも、義理を立てる必要なんかねぇんだ」


 そう言って振り向いた遠近は、確かに鶴屋の顔を見ていた。その眼差しには何らかの表情が見えるようで、しかしはっきりとは分からない。だが遠近の忠告は、鶴屋にはあまりにも重く響いた。


 恐怖を、覚悟のなさを見透かれている。


 堪えきれずに俯いて、重い革靴の先を見る。後方の表通りから、甲高い笑い声が聞こえた。


 そうしてそれ以上、三人の間に会話はなかった。ふたりぶんの革靴と、ひとりぶんの草履の音が路地に反響する。表通りの光が遠ざかり、月明かりにしか頼れなくなり、ひときわ冷えた風に顔を上げると、ビルの入り口に着いていた。


 小ぢんまりとした入り口をくぐる。エントランスでは五人の男女が談笑していたが、遠近を見るなり会話を中断し、挨拶した。遠近はそれに軽く応え、鶴屋とコジロウは会釈だけを返し、奇異な目で見られつつエレベーターに乗る。最上階まで上昇し、リノリウムの廊下に降りて歩を進める。


 鶴屋はじっと視線を落とし、ときどき顔を上げながら、前を行く金髪を黙って追った。絵画の通路はやはり不気味で、総長に監視されているような気がする。右の二の腕が寒気に震え、さすってみても収まらなかった。


 分厚い扉に辿り着く。コンコンと遠近がノックした扉が、くぐもった返事の後、開かれる。蝶番の軋みと、絞られるような心臓の痛みに合わせて、鶴屋は息を吸った。


「いらっしゃい」


 夜空を額縁に押し込めて、総長は静かに三人を見ている。


「挨拶はいいよ。私に対するお前たちの敬意は、もう知っているから」


 おいで、という澄んだ声に続き、ほっそりとした指が手招きする。コジロウは吸い寄せられるように、鶴屋は鞭を打たれたように、書斎机の前まで進んだ。遠近は素早く、総長の背後へ移動する。


 そうして全員の足が止まると、総長は一度瞬きした。睫毛の一本一本から夜露を落としていくような、現実感のない仕草だ。銀庄総長は今夜もやはり美しく、だからこそ恐ろしかった。


「コジロウ、鶴屋くん。お前たちは本当に、よく頑張ってくれたね」


 ころり。硬く滑らかな音が、鶴屋の耳朶に触れた。一瞬遅れて、それが引き出しの音だと気づく。簡素な机の引き出しに、総長の白い手が潜り込んでいく。


 見たくない、と、反射的に感じた。そこから取り出されるものを、見たくない。たとえそれがどんなものであっても、見たくない。


 本能的な危機感に、脊髄をじっとりと撫でられる。しかし目を逸らすことはできない。総長のたおやかな指の動きを、瞳が追う。


 瓶に詰められた青いバラが、ことりと机の上に置かれた。


「私はもう、お前たちをじゅうぶん評価しているよ」


 蟻の入った琥珀の指輪が、バラの瓶の隣に並ぶ。


「けれど、まだ少し心配でもある。お前たちが本当に、私のもとで生きていけるのか」


 重たげな小箱が、指輪の横にごとりと、降りる。


「だから最後に、私を安心させてほしい」


 そして総長の手のひらが、鶴屋にひらりと差し出された。突然のことに鶴屋はたじろぎ、一、二秒ほどの間を空けてようやく、向けられた手の意図に気づく。


 慌ててポケットから隕石を取り出し手渡すと、総長はそれをゆっくりと握った。表面の感触を確かめるように、滑らかな指が数度、波打つ。


 そうして隕石は音もなく、小箱の隣に並べられた。


「確認させてほしいんだ。私のもとで生きるに相応しいのだと、私に念を押してほしい」


 瓶、指輪、小箱、隕石。四つを順に、総長の人差し指が撫でる。磨き抜かれた長い爪が、照明を白く反射した。赤い唇がわずかに開き、ふぅ、と柔らかな息を吐いて閉じる。


 寒かった。夜の部屋に充満する空気は、凍えるほどに冴えている。隕石の赤褐色も、バラの青も、指輪の緑も、小箱の中の紫でさえも、くっきりと浮かび上がって見えた。


 鶴屋は隣に視線を移す。コジロウの横顔に表情はない。しかしその黒く光のない目は、ほとんど瞬きをしていなかった。


「コジロウ」


 総長が低く、名前を呼んだ。侍の唇が薄く開く。はっ、と放たれた返事は、掠れている。


「鶴屋くん」


 総長の視線が、かすかに動いた。鶴屋も返事をしようとして、上手く声が出せなかった。喉がひどく乾いていることに、今さら気づく。


 はい、と口だけを動かすと、空気の冷たさが鼻に刺さった。噎せようと動く喉の筋肉を、緊張が内側から押さえつける。


 鶴屋の肺が震える。コジロウはまだ、瞬きをしない。


 総長の唇、そのくっきりと輪郭のある赤が、開いた。


「宝くじの、一等当選者」


 ヒュ、と、肺が鳴る。


「私の前に、連れてきてくれるかな」

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