第28話 再会

 溝口と遠近、ふたりは淡々と仕事だけをこなすようになった。簡単な業務連絡以外で、声を交わすことはなくなった。一週間、二週間、三週間。和解の手がかりも掴めないまま、時間だけは簡単に過ぎていく。


 遠近は結局、銀庄に返事をしていないようだった。彼が悩んでいること、苦しんでいることは溝口にも分かっていた。


 もう一度、落ち着いて話をしなくてはならない。そうして遠近の苦しみに寄り添い、それでも自分の幸福について、理解してもらわなくてはならない。そんなコミュニケーションを他人と取ったことはないが、遠近とだけは取らなくては。あの幸福を取り戻さなくては。


 そう思い始めていた矢先、遠近が溝口の肩を叩いた。


「ひとつ、お前に任せたい仕事がある」


 遠近はいつになく緊張した顔で、仕事の説明をし始めた。ふたり一組の便利屋といえど、別々に動くことも珍しくはない。溝口は大人しく話を聞き、そして心底、驚いた。


「それが初めての、殺しの依頼だった」


 侍の部屋の座卓の上で、殺し屋は足を組み替える。


 遠近は額を真っ青にしながら、溝口に深く頭を下げた。俺には到底できそうもない。しかし依頼者に脅されて、断ることもできなかった。溝口、お前に頼みたい。ひどく震えたその声は、消え入りそうに細かった。


 そんな遠近を前にして、ちょうどいい、と溝口は思った。これだけ犯罪に踏み込んできたのだ。驚きはあったが、人を殺すくらい今さらどうということもないと感じた。これほどの頼みを聞いてやれば、遠近はきっと感謝してくれる。ありがとう、と、自分に頭を下げてくれる。そうすればそれを足がかりに、和解の道を見つけられるはずだ。


 溝口はあっさりと承諾し、指定の日、指定の路地に足を運んだ。この日、標的は必ずここを通ると遠近から聞いている。ポケットに忍ばせたナイフを握り、標的の出現をじっと待った。顔写真だけ見せられたその相手の名を、溝口は知らなかった。冬の寒さに肌を刺されつつ、空を見上げる。半月の夜。それほど緊張はしなかった。


 やがて背の高い男が、路地に現れた。溝口は俯き、目だけを上げて男の顔を見る。目の形、鼻の形、唇の形、どれも写真と一致していた。ぱた、ぱたと靴音を立てながら、男が目の前を通り過ぎる。溝口はその腕を無理やり、引いた。


 男が路地に倒れ込む。恐怖の目で溝口を見上げ、何かを喚く。溝口は片手でその口を塞ぎ、もう片方の手でナイフを取り出した。男の抵抗が激しくなる。手の下の悲鳴が大きくなる。その首に、刃を思いきり突き立てた。


 男の喉から、空気が漏れる音がする。ナイフを抜く。コポ、と泡を立てながら、赤い血が流れ落ちていく。口を押える手のひらに、生温い液体の感触がぶつかる。胸を刺す。それは鶏肉を切り分ける感触と、そう変わらないように思えた。ナイフを抜く。


 それを何度か繰り返し、男が動かなくなると、溝口は携帯電話を取り出した。指示されていた番号に電話すると、話は早かった。電話先の業者はものの数分で路地に到着し、男の死体を袋に入れて去っていった。


 人を殺した。そのことに大した感慨はなかった。そんなことよりも、早く遠近に感謝されたくてたまらなかった。ありがとう、と礼を言われて、白い歯の笑顔を向けられて、話をして、和解して、少し前までの幸福を取り戻したくてならなかった。


 血まみれの手をポケットに突っ込み、溝口は走った。遠近のアパートに帰り着いて、合鍵で玄関扉を開けて、三和土にスニーカーを脱ぎ捨てる。そうして部屋に飛び込むと、


「ありがとう」


 と、遠近は言った。テーブルにひとりで腰かけて、溝口に微笑みかけている。しかし白い歯は少しも見えず、青白い目尻が、泣きそうに歪んで下がっていた。


「これで俺たち、総長の仲間にしてもらえるよ」


 簡単な話だ、と、殺し屋は言った。


「遠近は、スカウトなんかされてなかった。自分から総長に頼み込んで、仲間に加えてもらおうとしてたんだ。それで総長にテストされてた。指定の人間を殺してこい、ってね。だけどたぶん、正直には言えなかったんだよな。自分から頼んだなんて言ったら、おれが怒ると思ったんだろ。だけど、それなのに奴は、テストをおれに押しつけた。強くならなきゃなんて言っても、あいつには結局、人殺しになる勇気すらなかったんだ」


 窓からの風の音に紛れて、ははは、と溝口は笑ってみせた。


「おれが一番許せないのはさ、あいつが嘘をついたことだよ。上手く嘘をつけないからって就活に苦しんでやがったくせに、あいつはおれに嘘をついたんだ」


 遠近は何度も謝った。騙して悪かった。許されなくても構わない。でもこうするしかなかったんだ。


 溝口は何も言えなかった。何も言えないまま、怒っていた。失望していた。絶望していた。悲しんでいた。だが何も言わないでいるうちに、遠近も何も言わなくなった。ただ弱々しい、すべてを諦めたような笑顔で溝口の答えを待っていた。両の瞳に、溝口の姿だけを映していた。


 溝口は何かを言おうとした。だがどうしても、言うべきことが見つからなかった。そしてそのまま背を向けて、遠近の前から走り去った。


 ふたりはそれ以来、ただの一度も会っていない。


「会おうと思えば、そりゃいつだって会えたけどさ。おれのほうから会いに行くなんて、そんなの絶対おかしいだろ。来るとしたら絶対、あいつからだ。話をするとしたら絶対に、あいつからじゃなきゃ気が済まないんだよ。ガキくさいって言われても、これだけはどうしても譲れない。だって、あいつがおれを裏切ったんだから。だからあいつが会いに来るまで、おれは死なないと決めたんだ」


 殺し屋は普段より饒舌になり、細かく貧乏ゆすりをしていた。ははは。そうしてまた笑う声は、ヒビ割れそうなほど乾いている。切れかけた蛍光灯の点滅に合わせ、紫の瞳が色を変える。聞いてくれよ。笑い話のような前置きで、話は続いた。


「あいつがおれに殺させたのは、あいつの兄貴だったんだぜ」


 溝口は笑う。笑ってから、ふぅと大きく息を吐く。その息がまた白く霞みながら、天井へゆっくりと昇っていく。風が吹き、白が掻き消えて、夜の静寂が戻ってくる。


 *


 鶴屋はただ、黙ることしかできなかった。殺し屋の回想はあまりにも虚しく、絶望的で、それでいてどこかちゃちにも思えた。


 ふたりの人物がすれ違い、ほんのひととき交差して、またすれ違って戻らなくなった。まとめてしまえばたったそれだけのストーリーだ。だがそれだけのストーリーが、胸の奥で重く質量を持った。


 自らの幸福だけを追い、その他に目を向けなかった溝口。自らの正義を否定され、強さに無理やり縋った遠近。どちらにどれだけ非があって、現在の彼らを苦しめているのか。鶴屋には判断がつけられず、おそらくは、判断をつけるべきでもなかった。それでも感情は決着を求めて、どろどろと煮えた渦を巻く。その回転を止めようとするが、貧弱な腕ではそれもできない。


 眼前では、殺し屋の足が揺れている。溝口は座卓に腰かけたまま、煤けた天井を見上げていた。更なる話題を探しているのか、怒りの記憶に浸っているのか、立ち上がる気配は見せなかった。


 重い沈黙から逃げたくなって、鶴屋は視線を動かしてみる。隣の侍は苛立たしげに、あるいは耐えがたそうに、唇を噛んでいた。高く尖った鼻先が、青白く血の気を失っている。


「なぁ」


 ふいに沈黙を破り、溝口が静かに声を出す。


 と、同時に、ピンポーン、と間の抜けた音がした。


 鶴屋、コジロウ、溝口、全員が一斉に玄関を見る。ピンポーン。わずかな間を開けて音は続く。その余韻が消えると同時に、コジロウが静かに立ち上がった。確かめてくる、と溝口に言い、すり足で玄関へ向かう。ピンポーン。インターホンがまた鳴って、侍の頼りない後ろ姿が、ドアスコープを覗き込んだ。


 その仕草を、鶴屋は黙ったままで見守る。根拠のない、しかし手触りの確かな不安に足先が冷えた。浅くなりかけた呼吸に気づき、慌てて深く息を吸う。大丈夫、一体何を心配してるんだ、こんなもの、大丈夫に決まっているんだから。根拠のない言葉で自分を励ましているうちに、コジロウがゆっくりと、振り返る。


「遠近殿だ」


 ピンポーン、と、また音がする。


「出ろ」


 溝口が低く、指示を飛ばした。語尾の余韻が消えてから、鶴屋はこわごわと目を上げる。

 殺し屋の顔に表情はなかった。ただゆっくりと瞬きをして、紫色に光る瞳で玄関扉を見つめていた。唇の端にも、眉の先にも、喜びも、憎しみも、悲しみも見えない。


 溝口という男がそこにいて、人を待っている。それ以上のことを何ひとつ読み取らせない、あまりにも静かな顔だった。


 煮えた渦が温度を上げながら、鶴屋の食道をのぼってくる。どん、どん、どん、と心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っている。感情というには少し足りない、本能的な不快感に体を覆われていく。


 ガチャ、と鍵が開けられる。キィ、と甲高く鳴きながら、玄関扉が開く。


「遅ぇよ」


 遠近はそう言って、錆びついた扉を抜けてきた。整えられた金髪が、吹き込む夜風に揺れている。


 面目ござらぬ、と声を震わせつつ、コジロウが扉を閉めた。バタン。ガチャ。硬い音が続く。サングラスのツルを軽く下げつつ、遠近はコジロウを睨みつけた。


「おい……溝口の話だけど」


 遠近は相変わらず凄むように、しかしどこか弱々しく切り出した。眉間に刻まれた浅いシワに、緊張が見える。そしてゆっくりと開かれる唇を、溝口はじっと見つめていた。呼吸音さえ漏らさない殺し屋の顔を窺って、鶴屋は思わず息を止めた。


 感情のない紫の瞳が、今、何を待っているのか。その答えは明らかで、だからこそ不安だった。


 遠近の唇が開く。その奥に覗く舌が、躊躇いがちに動く。


「会うよ」


「そりゃあ良かった!」


 遠近の呼吸が止まった。離れていても、鶴屋には分かった。サングラスからはみ出した目が、軋みながら部屋の奥に向く。その動きが止まって、あ、と悲鳴に似た声が聞こえて、そこでようやく殺し屋は、笑った。


「待ってたよ、遠近」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る