第27話 終わりの始まりはいつも朝

 座卓に腰かけ、殺し屋はゆったりと足を組んだ。サラリーマン風の黒いスーツが、乾いた音をかすかに立てる。


「なぁ、遠近は今どうしてる?」


 開け放たれた窓からは、今夜も風が吹き込んでいる。板張りの床に座ったままで、鶴屋は視線を動かした。右隣に座るコジロウが、つまらなそうに口を開く。


「まこと見事な勤めぶりで、総長にも信を置かれておいでだ」


「ふぅん、そうかい」


 嘲るように目を細めて、溝口は軽く仰け反った。はぁ、と深く吐かれた息が、かすかに白く天井へ昇る。夜の六畳間は薄暗く、蛍光灯が切れかけていた。


「会えるのが楽しみだよ、本当に」


 風が吹く。そしてまた、回想が始まる。


 ふたりで商売をやらないか。溝口が誘っても、遠近はすぐには頷かなかった。誘ってくれてありがとう、と、無難な礼だけを返してくる。が、その瞳の震えを溝口は決して見逃さなかった。


 バイトに出勤してくるたび、遠近は少しずつやつれていった。いつも通りに明るく笑い、爽やかに挨拶してくるものの、両頬の青さは日に日に深まる。休憩中のほんの一瞬、遠近の目が黒さを増すときを見計らって、溝口は必ず声をかけた。「あのときの話、考えてくれたか」、「おれたちふたりなら、絶対上手くいくと思う」、「おれは本気で言ってるんだ」。


 遠近は初めこそ曖昧に微笑むばかりだったが、いつしか微笑みは見せなくなり、黒い目でじっと溝口を見つめるようになった。「頼むよ、遠近」、「おれは、お前にしか頼れないんだよ」。誘い文句は徐々に大袈裟になっていく。


 そうして一か月が経ち、さらに二週間経ったところで、遠近は溝口の肩を掴んだ。


「ありがとう」


 その礼は、最初のものとはまるで違った。重く切実で、ほとんど悲鳴のような響きだ。溝口は微笑んで遠近の手を取り、そして、彼らの「商売」が始まった。


 とはいえふたりには、大した元手も伝手もない。そこで始めたのが「便利屋」だ。家事代行に引っ越しの手伝い、害虫駆除や花見の場所取り。溝口はすぐさまバイトを辞めて、便利屋の仕事に専念した。それほど儲かりはしなかったが、どんな仕事より快適だった。遠近の大学卒業までは、ひとりでの気ままな仕事も多い。そして遠近の卒業後には、依頼者とのやり取りを任せて作業に集中することができた。


 遠近の接客は評判が良く、依頼は次第に増えていく。遠近もそれに喜びを感じていたようで、やつれた頬も丸みを取り戻していった。


「お前がいてくれてよかったよ、溝口」


 駅前の居酒屋で乾杯した後、遠近はニッと歯を見せて笑った。


「お前がいてくれなかったらきっと、毎日こんなに楽しくなかった」


「クサいこと言うなよ」


 ビールを喉に流し込んで、溝口も笑った。


「おれはただ、やりたいようにやってるだけだから」


 満たされていた。「団結」の中にいたときよりも、孤独を追っていたときよりも、溝口ははるかに満たされていた。自分が求めていたものは、孤独ではなかったのだと思った。遠近との、この眩しい男との日常を、ずっと求めていたのだと思った。


 尊敬できる者がひとりいて、他の誰とも繋がらない。これが溝口の欲していた、たったひとつの正解だった。


 グラスが運ばれてくるたびに、ふたりはしつこく乾杯した。ガヤガヤ騒がしい店の中、キン、とふたりにだけ届く音が、美しくて心地よくてたまらなかった。


「で」


 かぱ、と口を開けて、座卓の上の殺し屋は笑う。


「ここからちゃんと、おれたちは不幸になっていくわけだ」


 その依頼はあまりにも滑らかに、便利屋の元に舞い込んできた。夏のただなか、日差しのきつい昼過ぎのことだ。


 ふたりは、溝口の自宅を事務所としていた。壁の汚れを観葉植物で無理やり隠した、古い1K。その「1」に男は現れた。爽やかな笑顔が特徴的な、若く人当たりのいい男だ。そいつと遠近が話すのを、溝口はキッチンで聞いていた。


 男の依頼は、花火大会の場所取りだった。夏の時期にはよくあるもので、指定された日に花火大会があることは溝口も遠近も知っていた。遠近は迷わず仕事を受ける。となれば、溝口も従うのみだ。


 迎えた花火大会当日。指定時刻の五分前に、ふたりは依頼者の自宅前に集まった。そこでいくつかの荷物を受け取り、会場へ運ぶ手筈になっている。午前十時五十五分。ギラギラと照りつける太陽に、溝口も遠近も汗だくにさせられた。


 やがて指定の十一時になると、依頼者は姿を現した。が、自宅から出てきたのではない。なぜか銀色のセダンに乗って、ふたりが待機する歩道の路肩に停車した。


 遠近は目を白黒させつつ、どういうことかと丁寧に問う。依頼者はカラカラと笑いながら、「ちょっと時間ができたもんで、会場までお送りしようかと」と説明してみせた。その自宅から会場までは、確かに少し距離がある。ふたりは疑問を残しながらもセダンに乗り込むことにした。クーラーの効いた車内のにおいを、溝口は今でも忘れていない。


 車は走り出し、依頼者は世間話を始める。遠近はそれに相槌を打っては、楽しそうに笑っていた。退屈な時間だ。溝口はすっかり手持ち無沙汰で、ただぼんやりと車窓を眺める。


 セダンはするすると前進し、陽炎の揺れる大通りを行き、影の濃い小道に入っていった。花火大会の会場へ向けて、着実に進んでいるようだ。が、何やら少し遠回りに思えた。今日は道路が込んでいるだろうから、それを避けたルート取りなのか。それなら大しておかしくはないが、と思った直後、車窓が影に覆われる。


「降りてください」


 車が止まり、依頼者が言った。遠近が「え」と困惑を露にする。セダンが停まったのはどう見ても大会会場ではなく、町の裏路地の一角だった。


 溝口も遠近も、明らかな異常に気がついていた。どういうことですか、と遠近が問いただす。しかし依頼者はまるで聞きもせず、運転席を降りた。トランクから黒い鞄を取り出し、戻ってくる。


「これを持って、ここで待っててください。五分後に人が来るんで、その人の鞄と交換して、中身を見ずに持って帰ってきてください」


 依頼者の声はロボットのようだった。待ってください、どういうことですか、依頼内容と違います。遠近が立て続けに抗議する。依頼者は答えない。重みの見えない鞄だけが、ふたりにじっと差し出されている。どう考えても普通ではなかった。遠近がさらに抗議する。さすがの溝口も何か言おうかと口を開き、だがその瞬間、黙らざるを得なくなった。


 銃口が、ふたりを捉えたからだ。


 これを持って、ここで待っててください。拳銃を構え、依頼者はそう繰り返す。表通りからの逆光で、その表情は見えなかった。溝口と遠近はなす術もなく鞄を受け取る。車を降りると男は銃をちらつかせたまま、表通りに車を戻した。離れた、しかしいつでもふたりを狙える位置にセダンを止める。


 日の当たらない裏路地は、ひんやりとして寒かった。鞄を持つ遠近の唇が、紫になって震えていた。やがて一年にも思える五分が経ち、ひとりの女が現れる。女はこちらのものと似た、黒い鞄を携えていた。挨拶を交わすことすらなく、鞄の交換が行われる。そうして女が去ってから、ふたりは銀のセダンに戻った。


 お疲れさまです、と依頼者は言い、遠近から鞄を取り上げる。そして財布から何枚か札を取り出すと、遠近の手に押し込んだ。「いりません」と遠近は言い、それを突き返そうとする。が、男はその札の上から、銃口を強く押しつけた。そしてそのまますらすらと、ふたつの住所を口にする。


 そのうちのひとつは確かに、溝口の祖父母の家を示していた。


「これからよろしく」


 そう言って、依頼者は車を発進させる。そうしてふたりは結局、場所取りなどすることもなく、事務所へ帰り着いたのだった。


 回想の言葉をふっと切り、殺し屋は笑う。


「これは後から得た知識だけど、堅気を『雑用』として囲うのには、確かにメリットがあるんだよな。情報が漏れるリスクも低いし、手を切るときも簡単だ。あいつは……というか、あいつらは結局グループだったんだけど、そういう利益を取りたかったんだろうね」


 ふたりの事務所に、男はしょっちゅう顔を出すようになった。ときには複数人で現れ、自らの優位をたっぷりと示して帰っていく。他の客の依頼と日時が被ったときなどには、自分たちの依頼を優先するよう脅しつけた。そのうちに客は減っていき、気づけばほとんどの収入が、男からの依頼によるものになっていた。


 しかし溝口はその状況を、それほど気にしていなかった。収入はやや減ったものの、節約に励めばそう困らない。それに彼は内容がどうあれ、遠近とふたりで仕事ができればそれで満足だったのだ。犯罪に関わる罪悪感など、その満足には遠く及ばない。溝口にとっては何も変わらず、幸福な日常が続いていた。


 だが、遠近はそうではなかった。学生の身分を失ってもなお、彼は「優等生」なのだ。犯罪の片棒を担ぐ仕事も、それによる金で生きていくことも耐えがたいようだった。丸くなった頬はまた痩せていき、目は血走り、肌は日に日に土気色になる。


 それでも溝口に対しては、それまでと変わらない笑顔で接した。白い歯を見せる笑い方、爽やかに肩を叩く仕草。疲労が滲むようになっても、子どもの頃と全く同じだ。それが痛々しかった。


 だからといって、溝口には何もできなかった。遠近を救えるとすれば、そのための言葉はただひとつ。「こんな仕事はもうやめよう」……それだけだったからだ。


 こんな仕事はやめよう、足を洗って真っ当に生きよう。そんなことを口にすれば最後、この幸福は失われ、二度と手に入らないだろう。溝口にはそれが耐えられなかった。「みんな」の世界から逃げ回る、あのいたちごっこに戻りたくはなかった。


 そうして裏路地に囚われたまま、一年以上の月日が過ぎる。男のグループは徐々に勢力を弱めていき、代わりにいくつかの別グループが「便利屋」の客になっていた。男のグループが勝手に紹介したのだろう。遠近と溝口は本人たちも気づかない間に、裏路地の住人になっていた。


 しかし、簡単に抜け出せはしない。裏路地からの収入がなければ生活は立ち行かなかったし、新たな職を探す暇もなく依頼は次々舞い込んできた。


 溝口は幸せな日常を続ける。遠近は日に日に憔悴していく。そしてその弱った遠近が、ある晩、溝口にこう打ち明けた。


「スカウトされてるんだ」


 月のない、冬の夜だった。何を言われたのか理解できず、溝口はぴたりと固まった。ふたりは水も、菓子のひとつもないテーブルで、向かい合っていた。


「モデルにでもなるつもりかい?」


 動揺を誤魔化すためだけに、溝口はつまらない冗談を言った。嫌な予感が氷のように、背筋をつるりと滑り落ちていく。目の前に座る遠近は、ほんの少しも笑わなかった。タールのように濁った瞳が溝口を見ていた。


「銀庄総長に、誘われてる。グループの一員にならないかって」


 銀庄の名はその頃から、裏路地中に轟いていた。彼女の持つ力も、そのグループの強大さも、溝口は知っていた。冷たい予感が滑り落ちた跡が、焦げるような熱を持ち始める。ほんの一瞬、喉が詰まり、しかし返答に迷うことはなかった。


「やめとけよ」


 そんなグループに入ったからって、何になるんだよ。そこまで踏み込んだらきっと、二度と戻れなくなるぞ。このまま便利屋を続けるくらいが、おれたちにはちょうどいいはずだろ。なるべく平静を装って、それでも休みなくまくし立てた。遠近は目を伏せ、黙って話を聞いていた。


 遠近は、犯罪になんて手を染めたくはないはずだ。溝口に対しては隠しているが、今の仕事だって嫌いなはずだ。だから総長の下につくなんて、彼の本意とは真逆なはずだ。溝口はそう信じていた。「スカウトされてる」と打ち明けたのは、きっと悩みの相談なのだ。総長の誘いを突っぱねるために、背中を押されたいだけなのだ。そう信じようとしていた。


 だって、遠近はヒーローなのだ。人生で出会った唯一の、信頼できる人間なのだ。強く、正しく、眩しい優等生なのだ。


「でもさ、溝口」


 溝口の説得を遮って、遠近は突然声を出した。


「ここまで来たら俺たちはもう、どのみち戻れねぇんだと思う」


 机に載せた両の拳を、遠近は硬く握っていた。


「俺たち、戻れねぇよ。もう真っ当には生きられない。あいつらの、あの犯罪者たちの仲間になっちまったんだよ。それなら、それならちゃんと強くならなきゃ。こっちの世界で生き残れるように、強くならなきゃいけないだろ。なぁ」


 遠近はまた、目を上げた。濁った瞳の輪郭は、どこかぼやけているように見えた。


「溝口。総長はお前も一緒に加えてくれるって言ってる。今度、ふたりで挨拶に行こう。そうすれば絶対、今より楽になるはずだから」


 溝口が何も言えない間に、遠近は震える口角を上げた。


「俺ひとりより、もっと仲間がいてくれたほうが、お前もきっと嬉しいだろ」


 それから遠近にどんな罵声を浴びせたのか、溝口はもう覚えていない。ただひとつ記憶に残っているのは、「裏切られた」という言葉だけが、脳を満たしていたことだ。


 裏切られた。自分が感じていた幸せも、遠近に抱いていた尊敬も、これまでの生活の何もかもを、裏切られたと感じていた。


 溝口は泣いていたかもしれない。遠近も、泣いていたかもしれない。ふたりはそれでも怒鳴り合い、声が嗄れてもなお叫び、咳が止まらなくなってようやく、黙り込んだ。夜は更け、何ひとつ解決しないまま、朝が来た。

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