第26話 寂しさは誰のせい

 父親が死んでさ、と、続きは始まった。


 午後十時。前回よりも常識的な「夜」の間に、溝口は姿を現した。開いた窓のサッシに寄りかかり、正面に座る鶴屋たちを見ている。はたはたとなびくカーテンが、殺し屋の姿を隠しては暴いた。苛立たしげに膝を立てる侍。その隣で、鶴屋は耳を澄ます。


 小学校を卒業してすぐ、溝口は他県に引っ越した。親の都合での転居だったが、特に不満には思わなかった。クラスメイトに渡された「引っこししても元気でね」の色紙を駅のごみ箱に突っ込んで、新幹線に乗り込んだ。ケイドロもサッカーもドッジボールも、なるべく多くの記憶を捨てて、新たな生活を始めようとした。


 見知らぬ土地の中学校は、見知らぬ人々の巣窟だ。中学の同級生たちは、溝口の足が速いことも、溝口のシュートが鋭いことも、何ひとつ知らない者たちだった。彼らが唯一知っていたのは、溝口の瞳の色だけだ。


 いじめに遭うことこそなかったが、クラスに友達はできなかった。休み時間の喧騒や、体育祭の円陣が溝口の居場所を狭めていく。だがそのことは、それほど気にはならなかった。誰にも害されず、かといって干渉されることもなく、自分ひとりで完結できる日常は、溝口にとっては快適だった。ここへ来させてくれた両親に心から感謝していたが、三年生の夏の終わりに、その父親が死んだ。どこにでもある交通事故だった。


 溝口と母は、母の実家に住処を移した。二度目の転校は少し寂しく、二年半続いた快い孤独が惜しかった。転入先の中学校でも、またあの環境を作りたい。父の死に対する悲しみと同じか、あるいはそれよりもっと強く、溝口はそう願っていた。


「転校生が来るって聞いて、私たち、絶対仲良くなろうねって言ってたんだ!」


 だから、転入早々クラスメイトにそう言われたとき、絶望した。


 そのクラスは、ドラマのように「団結」していた。そうなれば当然、溝口の孤独など許されない。


 消しゴムを投げられることはない、そっぽを向かれることもない。ひとりでいれば必ず声をかけられて、手首を掴まれ輪に入れられる。明るい笑顔を向けられるたび、爽やかな挨拶を投げられるたび溝口は、小学校にいる気分になった。


 小学六年の、あの教室。さんざんな扱いをしてきたくせに、ちょっとサッカーが上手いくらいで溝口を認めたクラスメイトたち。それを知っていた彼にはとても、「団結」なんて信じられなかった。笑顔も挨拶も、気安く名を呼ぶ声もすべてが、嘘くさく思えて仕方がない。


 溺れるような毎日だった。右から左から善意の腕が伸びてきて、溝口を水底に押しとどめていた。ここへ来させた父親が、憎くてたまらなくなった。


「けど、おふくろは嬉しそうだったなぁ」


 膨らんだカーテンの向こうから、殺し屋は言った。


「クラスメイトと並んで下校してきただけでさ、『ようやく友達ができたのか』って。『お父さんが死んで毎日毎日辛かったけど、やっと嬉しいことがあった』って。ひどい話だよ、その日の夕飯は赤飯だった」


 中学を卒業した溝口は、逃げるように家を出た。「お金で負担をかけたくない」という幼い言い訳を頑なに振るって、進学もしなかった。誰も自分を知らない都会で、ひとりで生きていこうとした。「仲良し」とも「団結」とも離れた、いつかの孤独に身を置きたかった。


 そうして溝口の、孤独を求める生活が始まる。仕事を見つけ、仕事仲間との関係が深まるとそこを去り、時には経歴を偽りながら次の仕事へ移っていく。理想的な孤独はなかなか完成しなかったが、決して諦めなかった。


 そうして職を転々とし、いつしか数年の時が過ぎ、もういくつめかも分からなくなったアルバイト先に、そいつはいた。


「溝口?」


 そうして驚いた遠近の顔を、溝口は今でも覚えている。


 やっぱり溝口だよな、懐かしいなぁ、十年ぶりだよな、背ぇ高くなったな、元気してたか? 遠近は昔と変わらない、しかし端々の擦り切れた笑顔で、溝口の肩を親しげに叩く。その感覚が溝口にはひどく忌々しく、今までのどんな孤独より、居心地良く感じられた。


「おれは別に、あいつを嫌いではなかったよ」


 殺し屋はそう言って、カーテン越しに笑う。


 外野へボールを投げてくれたこと、怒って喧嘩してくれたこと、気遣う言葉をかけてくれたこと。かつての遠近の行動に、溝口は心から感謝していた。遠近という人物を、十年経っても眩しく思った。


 しかしだからこそ、深い恨みを抱いてもいた。あのとき溝口が「仲良し」になりたかったのは、クラスの「みんな」などではなかった。遠近が友達になってくれて、遠近とふたりで遊べれば、溝口はそれだけで良かったのだ。


「だから今度は、絶対にそうなろうと思った」


 殺し屋は言う。


「遠近とふたりで『団結』できれば、ひとりでいるより良いかもしれないと思ったんだ」


 偶然の再会を果たした日の夜、ふたりはファミリーレストランに入った。山盛りのポテトをつまみつつ話を聞くと、遠近は大学四年生で、ちょうど就活中なのだという。三年続けたバイトを辞めて就活に専念していたが、想像以上に内定が出ず、貯金の残額を恐れてバイトを再開したらしい。季節は初秋、九月の初め頃だった。


「上手く、嘘がつけねぇんだよな」


 そうこぼした遠近の目は、洞穴のように暗かった。濁った瞳の黒を見て、溝口はひとつの確信を得る。それはどこまでも直感的な、ほとんど生存本能のような、鮮やかで強烈な確信だった。


 今のこいつなら絶対に、おれを「みんな」と引き合わせない。


 最後一本のポテトを飲み込み、溝口は遠近の名を呼んだ。遠近の目は見開かれたが、そこには何も映っていなかった。その黒に一滴、スポイトで白を垂らすように、当時の溝口は言った。


「おれとふたりで、商売をやらないか」


 カーテンがなびき、殺し屋の笑顔を露にする。それじゃ、続きはまた明日。カーテンがまた膨らみ、萎んだとき、そこにはもう誰もいなかった。


 *


「あ」


 目が合って、醤油を取り落としそうになる。慌ててボトルを掴み直してカゴに入れるが、その指先は激しく脈打っていた。今日はポイント三倍デー、を繰り返す店内放送が、遠のいて聞こえなくなっていく。


「お知り合いの家、この辺なんですか」


 そう言うと、阿潟も醤油をカゴに入れた。鶴屋はアタフタと頷きつつ、買い物カゴを背中に回す。買う食材を見られるのは、なんとなく恥ずかしいことに思えた。


 上下左右に視線を振りながら、思いつくだけの言葉を絞り出そうと努める。昼食前の腹はスカスカで、心だけでなく体全体が落ち着かない。


「は、はい、その、この辺で。前のアパートにいたときはあっちの、あっちのっていうか、はい、あっちのスーパーを使ってたんですけど、今はここのスーパーで。えと、あ、阿潟さんの家、おうちも、ここの近く……ですか?」


 動揺と照れのせいか、不自然に饒舌になってしまった。いや待てよ、家の場所なんて訊いてはいけなかったのでは? 例によって口に出してから後悔する。が、阿潟も例によってまるで気にしていない様子で「はい」とあっけなく首肯した。それから自らの滑らかな額を、人差し指でトントンと叩く。


「おでこ、どうしたんですか?」


「へっ?」


 鶴屋はとっさに、自分の額に手をやった。貼り替えたばかりの絆創膏が、ツルツルとした感触で応える。あぁそうか、俺は今怪我をしているんだっけ。思い出すと同時に「これは」と口にし、ハッとする。殺し屋にナイフで刺されたなんて、正直に言えるわけがない。「これは」もう一度繰り返しつつ、必死に脳を回転させる。嘘をなかなか思いつけず、四秒ほど経ってからようやく「あっ」と声を出せた。


「これは、その、ちょっとぶつけちゃって」


「あぁ……そうなんですね。お大事に」


 わずかに疑念を滲ませつつも、阿潟は淡白な労いを返した。そのまま陳列棚に向き直り、今度は出汁を吟味し始める。


 相変わらずの冷静さに、鶴屋は心底惚れ惚れした。醤油を選び直すふりをしつつ、阿潟の横顔をチラリと窺う。彼女の鋭利な、それでいて力の抜けた目尻には、誰の干渉も許さない強さが表れていた。


 集団の中で生きていくのは向いてないと思うので。門柱の前でそう言った、彼女の声を思い出す。それから、溝口の紫の瞳を。昨晩聞いた、「団結」を拒む少年の話を。


「あ、あの」


 寝不足の目をしばたたき、呼びかけた。どくどくとうるさい心音の向こうから、はい? と阿潟の声が聞こえる。


 こんなことを尋ねていいものか、今度は発言の前に躊躇う。が、ここで彼女に訊かなければ、今夜も眠れないような気がした。


 そうだ、これだけ気にかけてもらえているのだから、少しくらい踏み込んでもいいんじゃないのか? 心の中で何度も何度も頷きながら、鶴屋は無理やり自分を鼓舞する。今日はポイント三倍デー。その合間にどうにか、上擦った声を挟み込んだ。


「死ぬまでずっとひとりぼっちは、寂しいと、思うんですか。阿潟さんは」


 阿潟は怪訝そうに瞼を上げる。しかしすぐに「あぁ」と頷き、鋭利な目尻を取り戻した。「すみません、あの日は変なことを言って」彼女はそう謝って、いえ、と鶴屋が返す前に答えた。


「それは、私には分からないです」


 細い指が伸び、白出汁のボトルを静かに掴む。


「今の私は、ひとりでも寂しくないです。でもこの先、いつ気が変わるか分からないでしょ。もっと年を取ったら、そもそもひとりでは生きられないかもしれないし。だから、身も蓋もないですけど、死ぬときになってみないと分からないですね」


「あ、そう……なんですか」


 返された答えに、鶴屋は面食らっていた。彼女ならもっときっぱりと、イエスかノーで断言すると思っていたのだ。驚きのあまりそれ以上反応できずにいると、ゴト、と出汁が阿潟のカゴに下ろされる。醤油と並ぶボトルを見てから、鶴屋は顔を上げた。阿潟はいつもの気だるげな顔で、カゴの持ち手を握り直す。


「分からないけど、自分で決めるしかないんですよね。どういう風に生きるかは」


 当たり前だけど、面倒ですよね。阿潟がそう言うと同時に、店内放送がふっと途切れた。一秒にも満たない間を置いて、陽気なシンセサイザーが響き出す。


 そうですね、と答えながら、鶴屋は俯いた。つるつるした床が照明の光を反射している。しかし阿潟のスニーカーのほうが、床よりもずっと眩しく見えた。

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