第25話 殺し屋の理由、侍の理由

 ボールが飛んできたんだ、と殺し屋は言った。


 小学校の校庭で、柔らかいボールが宙を舞った。四時間目の体育、余った授業時間を埋める、お祭りみたいなドッジボール。白線で区切られた内野から、溝口ひとりの外野に向けてボールが高く投げられた。


 溝口は初め、それを受け取ろうとしなかった。ボールに触れれば、コートの中が悲鳴と怒号に溢れることは確実だったからだ。実際そのときのクラスの空気は、真冬の水溜まりのように浅く透明に凍っていた。


 当時の溝口が受けていたのは、有り体に言えばいじめだった。目の色が人と違うから。人と違っているくせに、内気で面白味がないから。理由といえばその程度の、幼い攻撃たちの羅列だ。


 話しかけない、目を合わせない、消しゴムも鉛筆も牛乳の空きパックも何でも投げつけて構わないし、ドッジボールでは一番最初にボールを当てて、決して内野に戻さない。クラスの誰かが作ったルールに、溝口自身も順応していた。


「戻って来いよ!」


 転がるボールを見下ろしていると、内野から声が飛んでくる。溝口は黙って顔を上げた。コートの中、固まる赤白帽たちの奥でそいつは眉を吊り上げていた。


「お前、体育得意なんだろ!」


 その体操服の名札には、「とおちか」と掠れた四文字があった。


「笑えるよな」


 そう言って、現在の溝口は言葉を切った。板張りの床を爪先で叩き、溜め息をついてから回想に戻る。


 足元のボールを、溝口はそっと拾い上げた。コートの中の凍った空気が、ざわりと低く震えて溶ける。想像していた喧騒はなく、面食らった。ボールを構え、敵陣に向かって思い切り投げ込む。遠近の指摘通り、体育は得意科目だった。鈍い衝撃音がする。「アウトー」と気の抜けた声で教師が言った。


 アウト、になったクラスメイトは、たちまち半泣きになった。ボールが当たった右肩を、左の手のひらで何度も擦る。「どういうこと?」「かわいそう」女子たちがヒソヒソと話し出す。「なんだよこれ」「つまんねー」男子がぽつぽつと声を上げる。溝口はまだ外野に立って、そのさまをただ見つめていた。ざわめきは徐々に大きくなる。教師が面倒くさそうに、「おいおいおい」と手を叩く。


 校庭の隅に立つ時計に、溝口は視線を逃がした。授業が終わるまであと五分。小学六年生にとっては、とてつもなく長い時間に思えた。黒い長針を黙って見つめる。針が動く気配はなく、胸に冷たい鉛が溜まった。長針を待っていられなくなって、いち、に、さん、し、と脳内で秒数を数え始める。


 ご、ろく、なな、はち。増幅していくざわめきの中、見えない秒針を回していく。きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに。「さんびゃく」までの道のりは遠く、鉛ばかりが積み上がる。じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく……。数字が大きくなるより早く、胸が重たくなっていく。やがて重みに耐えられなくなり、足に力が入らなくなる。そのままうずくまりそうになったとき、甲高い声が耳に刺さった。


「もうやめろよ、そういうの! お前らが一番つまんねぇよ!」


 額まで真っ赤にした顔で、遠近はそう叫んでいた。直後、「何だよ!」と反論が上がり、「お前が何だよ!」と遠近が返し、瞬く間に大喧嘩が始まる。言い合いは取っ組み合いになり、教師が割って入ってもなお幼稚な罵り合いが続いた。それはチャイムが鳴るまで終わらず、溝口はただ呆然と、遠近の赤い顔を見つめていた。


「あの頃の遠近はさ」


 殺し屋になった溝口が、声を弾ませる。


「『本物』の優等生だったんだ。成績がいいとか、大人の理想に応えられるとか、それだけの紛い物とは違った。真面目で正義感が強くて、間違ったことを間違ってるって言える奴だった。びっくりしたよ。自分の周りに、こんなヒーローがいたのかよってね」


 校庭から教室へ戻っても、クラスの空気は険悪だった。いつもは賑やかな給食の時間もずっしりと静まり返っている。溝口はじっと俯いて、煮魚の身をほぐしていた。いつもなら多少は美味い米も、これっぽっちも味がしない。それでもどうにか喉に流し込み、皿を返して席に戻るとチャイムが鳴った。


 昼休みが始まる合図だ。クラスメイトたちは気まずそうに、各々の遊び場へ席を立つ。バラバラとした足音が続き、それもすっかり落ち着いた頃、溝口の頭上から声が降った。


「嫌だった? さっきの」


 遠近は不安そうに眉を下げて、そう訊いてきた。教室は静かで、隅でおしゃべりする女子たちも溝口と遠近を見ていない。


「嫌じゃないけど」


 そう答えながら、溝口は心底驚いていた。自分が正しいと思ったことについて「嫌だった?」と訊ける遠近は、どんな大人より大人に見えた。本心からの返答を受けて、遠近がホッと息をつく。そのあけすけな仕草さえ、眩しかった。


「ああいうのずっと嫌だったんだよ。だって溝口、何にも悪いことしてないんだろ」


 一転して胸を張ると、遠近は幼い腕を組んだ。うん、と溝口が頷くと、満足そうに口角を上げる。そして使命感に燃える瞳で、彼はこう言ったのだった。


「俺、絶対、お前をみんなと仲良しにするから」


 その言葉に嘘はなかった。彼は本当に、溝口を「みんなと仲良し」にしてみせたのだ。

 遠近は休み時間のたびに、溝口の手を引いて校庭へ出た。そして無理やり遊びに組み込み、クラスメイトと交流させた。体育が得意な溝口は、ケイドロもサッカーも強かった。


 すると数人が溝口を認め始め、消しゴムが飛んでくることがなくなり、そっぽを向かれることがなくなり、班分けで余ることがなくなり、溝口をいじめていた者たちのいくらかも、溝口を遊びに誘うようになった。


 遠近はそのたび歯を見せて笑い、「行こうぜ」と溝口の背中を叩いた。そうして溝口は紛れもなく、クラスの「みんな」の一員になった。


「でも、おれは本当はさ」


 ぴしゃりと回想を打ち切ると、溝口は床から立ち上がる。腰に手を当てて軽く仰け反り、紫の瞳だけを下げた。は、と笑った唇のまま、かつての少年は言葉を連ねる。


「自分を傷つけた相手となんか、一緒に遊びたくなかったな」


 この話にはまだ続きがあるけど、それはまた明日の夜にするよ。溝口はそう言って軽やかに、開けっ放しの窓から去った。


 ふわりと揺れたカーテンの向こうは、少しだけ明るくなっている。鶴屋は浴衣の襟を整え、夜の寒さを誤魔化した。


 *


「どう思いました?」


 布団を畳みながら、鶴屋は訊いた。寝不足の目に午前九時半の陽光が痛い。窓から逃げて後ろを向くと、台所に立つ侍も鶴屋を振り返っていた。


「何をだ」


「何をって……溝口の話を、ですけど」


 ばたん、と布団から手を離す。かすかに舞い上がる糸埃が、キラリと一瞬白く光った。


 溝口が去って行ってから、鶴屋はなかなか寝つけなかった。ショックを受けたわけではない。ただ、胸に引っかかる小さな棘を外せずにいたのだ。遠近の善意、溝口の不満。どちらも理解できるからこそ、棘は複雑に絡みついた。


 自分には関係ないことだ、考えたところで無駄なことだ、どちらも分かっているはずなのに眠気は訪れず、結局意識を手放せたのは朝日が昇ってからだった。


「どう思うも何も、あんなもの、至極ありふれた話であろう。『続き』というのがいかようなものかは知らぬがな」


 しかし、コジロウはあっさりとそう言ってのけた。コンロにかけていた鍋を持ち上げ、中身を椀に移していく。そうして台所を離れると、「ほれ」と鶴屋に椀を渡した。プラスチックの軽い椀には、薄い味噌汁が注がれている。


 献立はいつでも寂しかったが、侍は朝食を欠かさなかった。意外ですね、と以前鶴屋が言ったとき、「誰においても体が資本だ」とコジロウは答えていた。この侍は、案外健康にうるさいようだ。


「そも、それがしは彼奴らのことになど興味はない。おぬしにもそう申したであろう? なにゆえあれを問うたのだ」


 不満げな声に刺されつつ、鶴屋は今日の朝食を啜る。これまで何も言われなかったので許されたかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。湯気に曇った眼鏡を外し、それにかこつけて下を向く。


「す、すみません。でもその、知らないでいるのも危ないかな……と、思って」


「危うきことなどあるか。まったく」


 つまらぬ話を聞かせおって、とコジロウはぼやく。曇りを拭った眼鏡をかけて、鶴屋は侍の顔を見上げた。むっと細められた両目の下には、青黒いクマが確かに見える。陽光を浴びた右頬も、いつも以上に血色が悪い。


「あの、ありふれた話って、言いましたけど」


 侍の心が見えた気がして、声を投げた。ズズ、と味噌汁を啜りつつ、コジロウはジロリと鶴屋を見下ろす。遠近とも溝口とも違う目つきは、少しも怖くなかった。


「コジロウさんは、他にも知ってるんですか。溝口の話みたいな、そういうこと」


 侍の口角がかすかに引き攣る。鶴屋は緊張を和らげようと、また一口味噌汁を飲んだ。淡い塩気が舌先にしみる。その痺れが引くと同時に、侍はフンとそっぽを向いた。


「別に、知っておるというほどではない。ただ、物語にも多かろう話だということよ」


「あぁ……」


 コジロウの声は淡白で、投げやりだった。嘘を誤魔化しているようにも、単に苛立っているようにも聞こえる。はぐらかされた気分になって、鶴屋は少し悔しくなる。仕返しをしてやりたくなって、わざと意地悪に質問を重ねた。歯の裏に塩気が残っている。


「コジロウさんは、小学生の頃から侍だったんですか?」


「はぁ?」侍は丸く見開いた目を、そのままキョロキョロと泳がせる。「そー、れは、無論、その通りよ。それがしは赤子の時分から、もののふの魂をこの身に宿しておるゆえ、うむ」


 これは明らかに嘘だった。彼が侍になったのは、小学生時代より後なのだろう。分かりやすい動揺に、鶴屋は安堵する。味噌汁をさらに飲み込むと、自然と喉から声が出た。


「コジロウさんって、なんで侍なんですか?」


 侍の目が泳ぎを止め、鶴屋に向く。鶴屋はその目を見つめ返すことで、無言の圧をかけてみた。


 コジロウはなぜ侍なのか? それは初めて会ったときから、ずっと気になっていたことだ。こんなタイミングで訊くことになるとは思わなかったが、せっかくならばここで答えを知りたかった。


 無意識に呼吸を止めながら、コジロウの瞳を見つめ続ける。切れ長の目はやはり卑屈で、侍らしさは薄かった。


 一秒、二秒、沈黙が続く。カチ、カチ、と壁掛け時計の秒針が鳴り、味噌汁の湯気は薄くなり、やがて緊張に耐えかねたように、コジロウの背筋がぐにゃりと、丸まる。


「侍は、強いからだ」


 尖らせた唇でそう言うと、コジロウは味噌汁を一気飲みして台所へ戻った。曲がった背中を見送りながら、鶴屋も味噌汁をごくごくと飲む。薄い塩気を感じつつ、返された答えを反芻した。


 侍は強いから。単純な理由だが、嘘だとは思えなかった。コジロウは強くなりたいのだ。どれだけ不自然でも、無理があっても、自らの弱さを隠したいのだ。だからこそ彼は侍で、殺し屋の右目を求めている。与えられた課題に縋っている。そういうことなのだろう。


 疑問のあっけない解決に、鶴屋は正直拍子抜けする。だがそれだけに、納得感は大きかった。コジロウの「強さ」への執着なら、とっくの昔に知っている。


 ぷは、と浅く息を吐き、空っぽになった椀を覗き込む。味噌汁には結局、ワカメの一枚も入っていなかった。

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