第29話 あなたは強い人間だから

 一瞬にして、部屋が水中に沈んだようだった。誰かが息を吸う音も、窓外の風の音もない静けさが、鶴屋の耳をつんざく。が、それはたった一秒のことだった。


 なんで、と遠近の声がして、鼓膜に音が戻ってくる。


「ちょうど今、お前の話をしてたんだ。なぁ、こっちに来なよ。久しぶりにお前の顔が見たいな」


 座卓から立ち上がり、溝口は手招きする。遠近はその動きを見、またコジロウを睨みつけた。自分のせいじゃない、と抗議するように、侍が肩を竦める。「なぁ」溝口が急かす。


 遠近は俯き、苦しげに二度、瞬きをしてから革靴を脱いだ。一歩、一歩。あってないような短い廊下を、黒い靴下が踏みしめる。その力ない足音に合わせ、どん、どん、と鶴屋の胸も脈打った。座卓の前ではただじっと、溝口が遠近を待ち構えている。


 一歩、また一歩、靴下が進む。そうして最後の一歩を踏んだとき、白い手が金髪へ伸びた。


「なぁ」


 溝口の右手が、遠近の髪を掴んでいる。


「何だよ、この金髪。全然似合ってないぜ」


 白い指先に力が籠る。遠近は苦痛に顔を歪め、食いしばった歯を露にしていた。白い前歯が、切れかけの蛍光灯の光を反射する。チカリチカリと、光と闇が繰り返される。


「そんなので、裏社会に染まったつもりかよ? なぁ、このサングラスもさ」


 カシャ、と軽い音がする。床に叩きつけられツルの歪んだサングラスを、鶴屋は見た。遠近は何も言わない。ただ歯を食いしばり、目を細めて、溝口を見上げている。薄いガラスに似た緊張が、夜の六畳に満ちていた。夜風にカーテンが膨らんで、萎む。


「お前さ、おれに会ってどうするつもりだった? ただおれの恨み言を聞くつもりだったか? それとも、自分から何か言うつもりだった? 言うとしたら、何て?」


 溝口の手が揺れ、遠近の頭も揺さぶられる。噛み合った歯を静かに離し、遠近は答える。


「謝るつもりだった」


 紫の瞳が光る。金色の髪から指が離され、遠近はよろめいて後ずさった。乱れた髪を直すこともなく、彼は言葉を続ける。その指先は震えていて、「総長の右腕」としての威厳は、もはやどこにも見えなかった。そこにいるのはただひとりの、等身大の優等生だった。


「ごめん。あの頃の俺は本当に、どうかしてた。もっと早く、もっと、ちゃんと謝らなきゃいけなかった」


「違うよ」


 遠近の謝罪が終わるや否や、溝口は否定した。遠近の口角がピクリと強張る。しかし、そこに驚きは見えなかった。


「お前は、おれを理解しなきゃいけなかった。おれと話をして、おれのことを見て、分からなきゃいけなかったんだろ。おれが何を求めてるのかを」


「なら、今からでも」


「もう遅いよ」


 蛍光灯が点滅する。遠近の眉に、頬に、わずかな感情が覗いた。蛍光灯が点滅する。溝口は言葉を繋げていく。


「お前は分かろうとしなかった。おれも話そうとしなかった。だからどうしようもなくなった。今さら話し合ったって、どうせどうにもできないよ」


「じゃあ」声が揺らぐ。「なんで、俺をお前に会わせたんだ」


「さぁね」


 声は凪いでいる。


「別に大した理由なんかないよ」


 瞬間、遠近の目が見開かれた。薄く充血した白目が、点滅する光に晒される。その目で、眉で、頬で、感情が色濃く輪郭を結ぶ。鶴屋にはそれが怒りに見えた。だが瞬きをした隙に、顔は俯けられてしまう。ぐしゃぐしゃにされた金髪だけが、頼りなく風に揺れる。


「お前が何を考えてるのか、分かんねぇんだよ」


 震えていた指が握り込まれる。金色の毛先を、殺し屋はじっと見下ろしている。


「ずっと分かんなかったよ。変な奴らに目をつけられて、変な仕事ばっかりさせられて、それでなんでお前が普通でいるのか分かんなかった。あの頃からずっと怖かったよ、お前のこと。何なんだよ」


 遠近は脈絡なく、心情を吐露し始める。呼吸のかすかな歪みまでもが、鮮明に鶴屋の耳に届いた。


 怒っているのかもしれない。悲しんでいるのかもしれない。自分を責めているのかもしれないし、溝口を責めているのかもしれない。判別できない感情が、どろ、と鶴屋の足元に迫る。後ずさりしても、目をつぶっても、到底逃げられそうにない。


「俺はお前のこと、友達だと思ってた。一緒に仕事しようって何度も誘ってくれて、本当にありがたかったよ。こいつと友達で良かったと思った。でもお前は俺のこと、どう思ってたんだよ? 友達だって思ってくれてたか? 俺が苦しんでるのを知ってて、何とも思ってなかったんじゃねぇのか? ただ俺を、俺を利用して自分が、楽したかっただけじゃねぇのかよ。依頼人との話だけ、嫌いな仕事だけ俺に押しつけて」


 溝口はまだ黙っている。床には歪んだサングラスが、音も立てずに転がっている。


「頼むよ、こんなこと言わせないでくれよ。謝ることくらい、ちょっとでもやり直そうとすることくらい、許してくれよ。俺が悪かったんだよ。分かってるから、頼むから、何かさせてくれ、俺に」


「それなら」


 殺し屋の口が、小さく開かれた。色白の手がそっと上がり、黒いスーツの内ポケットに差し込まれる。遠近がかすかに腰を落とした。鶴屋はごくりと、溜まってもいない唾を飲む。


 あのポケットに入っているものを、鶴屋だけは知っていた。


 額に貼った絆創膏が、夜風を浴びて冷える。最悪の予感にこめかみが痛む。


 カシャ、と、銀色が光った。


「おれを、殺してほしいかな」


 ナイフの刃が、溝口の胸に向けられる。細い柄が、遠近に差し出されている。


「……は?」


 遠近が口を縦に開いた。握られた拳が溝口の指に解かれる。解かれた指が、ナイフの柄に添えられる。


「お前がおれに殺しをさせた。おれは行き場を失って、殺し屋なんかで稼いでる。だったらお前ができる償いは、おれに殺しをさせられることだ。そうだろ」


「そ」


 添えられた指は決して、柄を握らない。握らないままで、白くなっていく。


「それは、できない」


「甘ったれるな」


 白くなった指が無理やり、曲げられた。ナイフの柄が遠近の手に、その手を押さえる溝口の手に、握られる。


「そんな中途半端な覚悟で、何ができると思ってたんだ」


「でも、だからって」


「聞いたぜ」


 刃が、スーツの胸に近づく。


「組織の中でしっかり働いて、総長の覚えもめでたいって? 頑張ってるんだなぁ。あぁ、そんなエリートが個人的に殺しなんかしちゃ、せっかくの頑張りも台無しかな?」


「違う!」


 ビリ、と空気が震えた。四方の壁に跳ね返った音が、鶴屋の鼓膜の上で痺れる。遠近の指は白く、しかし瞼だけは、赤く熱を持っているように見えた。違う、と声が繰り返される。ナイフから逃げようともがく指先が、忙しなく瞬く瞼が、感情を必死に叫んでいる。


「俺はそんな風に、お前を裏切りなんてしない。俺は、俺が『頑張ってる』のは、そうしなきゃ筋が通らないからだ。お前に嘘をついて、兄貴まで殺させて、頑張らないわけにいかないだろうが。総長を信じて、ついていかないわけにいかないだろうが」


「知るかよ、そんなこと」


 溝口の手の甲に、青黒い血管が浮き上がる。ナイフの切っ先が前進する。銀色の刃がほんのわずか、ワイシャツの繊維を掬い取る。蛍光灯は点滅する。ふたりの男は一本のナイフを挟んで、向き合っている。


「殺せよ。なぁ、もう話すことなんかないんだから」


「あるよ。あるからもっとちゃんと、話をさせてくれ」


「話してどうなる?」


 ナイフが進む。ワイシャツに血が滲むのを、鶴屋は見た。遠近の瞼がわずかに下がる。黒い靴下が半歩後ずさり、止まる。


「話して、分かり合って、和解して、そしたら昔に戻れるのか? 銀庄の下から逃げ出して、おれのところに来てくれるのかよ」


 ナイフが進む。血の色が広がる。溝口は眉を寄せ、唇の端を一度だけ噛んだ。悲鳴はない。涙を流すこともない。それでも彼は、確かに痛みを晒していた。紫の瞳がチカチカと、蛍光灯の点滅を跳ね返す。光り、暗くなり、また光り、暗くなる。


 溝口の手首に力が入る。もうやめろ、と、遠近はかすかに口にした。しかし殺し屋は聞く耳を持たない。鶴屋の肺が萎み、萎んだままで戻らなくなる。


 遠近と溝口。どちらにどれだけ非があるのか、鶴屋には判断がつけられない。彼らの苦しみを想像できても、理解するには至らない。理解したいとも思えない。それでもひとつ分かるのは、このままでいれば溝口が死ぬということだ。溝口の手に、目に、迷いは見えない。


 彼は本当に死ぬつもりなのだ。ここで、鶴屋の目の前で。


 人が殺されるところなど、絶対に目にしたくない。マントルが発砲したときでさえ、死の瞬間を目の当たりにしたわけではなかった。見たくない。人が死ぬところなんて、人が人に殺されるところなんて、死んでも見たくない。


 やめてくれ、今すぐその手を振り払って、ナイフから手を離してくれ。総長のことなんか裏切って、溝口とやり直すと言ってくれ。頭でどれだけ念じても、喉から声は出ていかない。持てる限りの力を使って、瞼を固く、固く閉じる。


 胸、首、指先、頭頂部、すべてがどくどくと脈打っているのに、まるで温かくならない。汗に湿った肌の表面が、窓からの風にあっけなく冷やされる。吐き気が舌を乾かしていく。断末魔のような耳鳴りに襲われ、わけも分からず塞ごうとした耳を声が、叩いた。


「いい加減にしろ!」


 野太く、感情的な叫びだった。鶴屋は瞼を開き、顔を上げる。声の主は玄関の前で、薄い肩をゆっくりと上下させていた。


 溝口の手が止まる。遠近が、肩越しに背後を振り返る。鶴屋はぽかんと口を開け、緊張と安堵に揺さぶられている。


「遠近殿」


 三人の視線を一身に受け、コジロウは低く、その名を呼んだ。


「それがしらに、手を貸してくだされ」


 侍は淡々と声を投げる。その姿には、一切の感情が見えなかった。だらりと下ろされた両手、外向きに開かれた細い両足。俯きがちな、灰色の影に沈んだ顔から声が続く。


「できる限りの協力はしてやる、と、貴殿は仰せになったはず。今この場で、その『協力』を見せてくださらぬか」


 遠近の眉が、恐怖に波打って固まった。手を貸せ。協力しろ。この状況でそれらの要請が示す行動は、たったのひとつだけだった。


 溝口の右目を、抉り出す。


 遠近の手にはまだしっかりと、鋭利なナイフが握られている。殺し屋は当惑に顔を歪めて、紫の瞳を輝かせている。


 鶴屋は改めてコジロウを見た。侍の表情はやはり、影に沈んでいて窺えない。恐怖によく似た強烈な違和感が、全身の脈を速めていく。


「ふざ、けるな」


 遠近の唇が、ぎこちなく開く。


「ふざけるな、どうして、そんなこと」


「ここはそれがしの家にござる」


 コジロウがかすかに、顔を上げる。その目は、果てのない谷底のように暗かった。


「貴殿らにいかな事情があろうが、貴殿らにいかほどの苦しみがあろうが、それがしには露も関わりなきこと。それがしの城に踏み入ったからには、それがしに関わりある働きをしてくだされ」


「あはは」


 侍の声に被せるようにして、殺し屋はカラリと笑ってみせた。鶴屋はこわごわと視線を動かす。溝口の顔には、もはや苦しみの色はなかった。中身のない、軽薄な笑顔だけが、ただそこにある。


「そうだった、そういう話だったよな。遠近をおれの前に連れてくる。その代わりに、おれがどうにでもされてやる。そうだった、じゃあそれを、ちゃんとやってもらわなきゃいけないよな」


 パタリ、とスイッチを切られたように、溝口の手が下ろされた。ナイフの柄に、遠近の手だけが残される。溝口の胸を浅く刺したまま、ナイフはじっと動かない。青ざめた手は震えることもなく、柄を離さずにいる。


 遠近は動かなかった。ただナイフを握りしめたまま、かつての友を見つめている。遠近の呼吸のおぼつかなさも、滲んだ汗の冷たさも、鶴屋には手に取るように分かった。眉から、唇から、力と感情が失われていく。残された目の充血が、恐怖を叫び続けている。静かに、張り裂けるように、叫び続けている。


 蛍光灯が瞬く。


「遠近殿」


 コジロウの声。鶴屋にはもう、侍の顔を見る勇気はなかった。


「貴殿は、『本当に強い人間』でござろう」


 遠近の唇が開く。は、と、空気が吐き出される。ナイフがほんの少し、後退する。刃についた赤い血が見える。


「なぁ、遠近」


 溝口が、笑ったままの声で呼んだ。遠近の瞳が動く。すぐそこにある、美しい紫色を捉える。ナイフが後退する。赤く染まった切っ先が、ワイシャツの裂け目をするりと抜ける。風が吹き、カーテンがなびき、蛍光灯は点滅している。


 鶴屋はその光景を、吐き気と共に見つめていた。どん、どん、どん、どん、心音ばかりが速まってそれでも、指先は冷えていく。


 目を閉じろ。目を閉じろ。目を閉じろ。脳の中から自分が叫ぶ。足先に血が通わなくなり、切り落とされたように痛む。目を閉じろ。瞼に力を入れる。閉じられない。焦燥と認識する暇さえないまま、焦燥が血管を駆け巡る。


 殺し屋が、笑った。暗く美しい紫の、右の瞳が、微笑んだ。


「おれは本当は内野になんか、全然戻りたくなかったよ」


 そこで鶴屋の瞼は閉じた。悲鳴が聞こえた。何かが倒れる音が聞こえた。生温い水の音が聞こえた。笑い声と、えづく声と、床を繰り返し叩く音が聞こえ、だが想像したよりずっと、静かだった。それでも、鶴屋は耳を塞ごうと手を上げる。手のひらで耳を覆う直前、かすかに殺し屋の声が聞こえた。耳を塞いで、周囲の音が小さくなって、だがその声だけは頭にこびりついて離れなかった。


 やがてすべての音が止む。右肩を軽く叩かれて、鶴屋は耳から手を離した。終わったぞ、と侍の声が、自由な耳に触れる。その優しささえ不気味に聞こえ、しかし、瞼を開いた。


 点滅を繰り返す明かりの下には、血だまりだけが残されていた。


 *


「へぇ、こういう色なのか」


 手元の小箱を見下ろして、長い睫毛が瞬いた。その下に見え隠れする瞳は、湖のように凪いでいる。これまでと何ひとつ変わらない、静謐な無表情だ。


「本当に美しいね。なんだか暗い、炎のような」


 赤い唇でそう形容して、総長は静かに小箱を閉じた。額縁に収まる群青の夜空が、今日も彼女を照らし出している。飾り気のない部屋の空気は、以前より冷たさを増していた。呼吸するたび噎せそうになるのを、鶴屋はずっと堪えている。


「どうだった? この子はちゃんと、お前たちの役に立てたかな」


 コツ、とハイヒールを鳴らして、総長は一歩後ろに下がった。背後に控える遠近の肩に、美しい手を添えてみせる。遠近は黙って目を伏せた。あの色の濃いサングラスは、今日はどこにも見当たらない。ありのままの目はやはり素朴で、金色の髪に似合わなかった。


「無論にござりまする」


 鶴屋の隣で、コジロウが深く頭を下げる。


「遠近殿は、まことのつわものであらせられた」


 その声にも横顔にも、揺らぎは見えなかった。鶴屋は合わせて頭を下げることもできず、ただその場に立ち尽くしている。コツ。二度目のハイヒールの音に、胸を刺される心地がする。よかった、と、総長の柔らかな声が続く。


「でも、これは遠近だけの功績ではないね。彼を使いこなした君たちを、私は評価するよ」


 総長はそう言い、鶴屋とコジロウを順に見る。「もったいなきお言葉にござる」コジロウが感謝し、これには鶴屋も「ありがとうございます」とどうにか続いた。頭を軽く下げ、上げると、総長の瞳に射抜かれる。


 ゾ、と蟻に似た恐怖が肌を這った。とっさに視線を逸らしても、蟻の足音が止むことはない。皮膚の表面を、小さな足で引っ掻かれる。引っ掻かれたところから、体温が失われていく。


「次の品物は、もう少しだけ考えさせてくれるかな」


 重い音を立て、書斎机の椅子が引かれる。総長はたおやかな仕草で、その椅子に腰かけた。そして机に両肘をつき、組んだ指の上に顎を載せる。その姿はあどけない少女のようで、鼻の奥を刺す空気よりも、額縁の中の夜空よりも、冷たかった。


「次を、最後の課題にするから」


 あのとき、瞼の奥から聞こえた声が、鶴屋の耳に蘇る。頭にこびりついて離れなかった、殺し屋のかすかな一言を、まだ忘れられていなかった。


「もっと普通に、生きられてれば」


 ポケットの中には、今も隕石が入っている。思い返せば溝口の前では、あり得ないことを起こす隕石はただの一度も光らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る