第10話 摘んで帰る

「おい、どうした」


 背後からの弱々しい声に、意識を引き戻される。動揺と高揚、緊張を抱えたまま、鶴屋はマントルを寝室へ運んだ。腰が悲鳴を上げる中、どうにかベッドに横たわらせる。


太腿の血はだいぶ引いており、ハンドタオルで拭ってみると横一文字の傷口が見えた。鶴屋は銃創を見たことはないが、この傷がそれでないとは分かる。おそらく、銃弾が掠めただけなのだろう。はぁ、と深く息を吐く。


しかし、まだ安心はできなかった。棚の上の青いバラが鶴屋を焦らせる。青いバラを、いや、それよりもまず、傷の手当てをしなければ。ざわつく心を落ち着かせ、喉から声を絞り出す。


「あ、あの、救急箱とか」


「ねぇよ、そんなもん」


「あ……そうですか」


 そして沈黙が訪れる。マントルの呼吸が鼓膜を震わせ、視界の端には青いバラが見え、鶴屋はどうしても落ち着けなかった。マントルに背を向け、バラを見つめる。


そこに銀色の光はない。それでもバラは輝いているように見えた。摘まれた日から六日も経っているというのに、青い花弁はピンとしている。


鶴屋の胸が激しく脈打つ。内定を得るための、自分の未来を明るいものにするための鍵が、目の前に咲いている。荒くなる呼吸を必死に抑えると、思考が熱を持って回り出す。


マントルはこのまま寝るつもりだろうか。寝かせてやったほうがいいのかもしれない。だがそうなれば、自分は部屋を追い出されるのか? だとすれば、バラを盗むチャンスは今しかない。


……「盗む」? そんなことが、臆病な自分にできるのか? マントルから、この哀れな男から、貴重な花を盗み出す。そんなことをすれば、罪悪感は一生消えないかもしれない。そんな人生に耐えられるのか? 


しかしこのバラを諦めれば、自分はずっと、弱いままだ。


「その、バラ」


 突然思考を遮られ、反射的に振り返る。計画を察知されたのでは、と頭皮に汗が滲んだ。マントルの目にもう涙はなく、虚ろな黒色が戻ってきている。その暗さをただ見つめていると、平坦な声が続いた。


「持って帰ってくれ。もういらねぇから」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。持って帰ってくれ、何を? 脳の中心がストンと冷え、バラ、と言う声が思い出されてようやく、「え」と声が出る。


「持って帰っていい、んですか?」


 口に出した瞬間、背骨がぼうっと熱くなった。指先にまで熱が籠って、頭がくらくらする。


喜びよりも安堵よりも、驚きが大きかった。かけられた言葉を信じられず、胸には不安すら広がり始める。自分が求めてやまないものをこうもあっさり譲られるなんて、ほとんど初めてのことだった。


「いいよ」


 しかしマントルはどう聞いても、青いバラを手放すつもりだ。不安がいよいよ胸を覆い、鶴屋は礼すら言えなくなった。時間が止まる。それでも、バラの花弁には白い埃が舞い落ちていた。空気は確かに動いていて、時計の針を指で無理やり進めるように、マントルが静かに、語り始める。


「何年も前……そんときのバイトを辞めさせられた日、帰り道に花屋が、あって。そこの窓から、青いバラが見えた。けど店に入ってよく見たら、青色に染めただけだって書いてあって、がっかりしたんだ。けど、そのことはずっと覚えてた」


 乾いた唇が震えながら動くのを、鶴屋はじっと見下ろしていた。


「それでこの間、そのバラが生えてるのを見て、信じられなかったけど……これは本物かもと思って、摘んで帰った。そしたらお前らが事務所に来て、温かい飯が出されて、事務所が掃除されて、あの侍が、俺のために腹を蹴られた」


 窓の光に照らされて、マントルは眩しそうに、目を細める。


「たぶん、期待したんだ。そのバラのせいで」


 だからいらない、お前らももううちに来るな、と、声は続いた。作文を読み上げる子供にも似た、つたなく、舌足らずな発音だった。耳から体に入った音が気管を傷つけながら落ち、肺に溜まる。鶴屋はそんな、重く、黒い罪悪感を覚えた。


 鶴屋とコジロウの「作戦」は、マントルに確かに響いていたのだ。食事を振る舞い、事務所を整え、危険が迫れば助太刀する。そんな単純な方法で、マントルはふたりに期待を寄せた。孤独な人間が他者に期待するのは何か。鶴屋には痛いほど理解できて、だからこそ、後ろめたかった。


鶴屋たちには、マントルの仲間になる気などなかった。ただ彼の持つ青いバラを、奪い取りたいだけだった。マントルの足にネクタイを巻いたときでさえ、鶴屋は自分のために動いた。


 マントルは、何に救われればいいのだろうか。孤独で、弱く、誰にも求められない者は、何にすがればいいのだろうか。


「……あの」


 鶴屋は冷えた指先でそっと、青いバラに触れた。重なり合う花弁の、一番外側の一枚を摘まむ。スゥ、と鋭く息を吸い、なけなしの思い切りで手首を引く。と、青い花弁はかすかにぷちりと音を立てて、千切れた。


「じゃあこれだけ、持っててください」


 ベッドに投げ出された左手に、千切った花弁を載せる。まだ曲げられる五本の指を、慎重に畳んで握らせた。


鶴屋の指先と同じくらい、マントルの指も冷えている。枯れ枝のように頼りない五指は、引き金などとても引けそうになかった。


「その、掃除にくらいなら、また来ます。め、迷惑かもしれないけど、あ、コジロウさんがどうかもちょっと分からないけど、でもあのたぶん……コジロウさんに言ってもらえたら、少なくとも俺は来るので。ほ、本当に」


 マントルの目がチラリと上がる。鶴屋はその暗い瞳に、一度だけ頷きを返した。


 この判断が正しいのかどうか、鶴屋は知らない。もしかすると、かえって相手を傷つけたかもしれない。そうでなくても、無意味な慰めに過ぎないかもしれない。しかしどうしても、こうしなければ気が済まなかった。


自分が最後までひとりぼっちで、強く生きられなかったとき。自分の人生が行き詰まって、裏路地の底へ落ちたとき。マントルとのことを思い出して、絶望するのが怖かった。弱い自分は救われないと、諦めるのが怖かった。ほんの少しの良心と、自分自身の不安のために、こうしないわけにはいかなかった。


 細い親指がぎこちなく動き、青い花弁をゆっくりと撫でた。ゆっくりと、ゆっくりと、確かめるような動きの奥で、ふ、と鼻で笑う音がする。


「なぁ、俺が『マントル』なんて呼ばれてる理由、知ってるか」


 その問いの意図が読み取れず、鶴屋は固まった。だがマントルはそのまま柔らかく、解答を示す。


「マントルは地面の下にあるだろ。全人類が、靴で踏みつける地面の下に。だから俺にはちょうどいいって、昔名付けた奴がいたんだ」


 青い花弁を撫で続ける指を、鶴屋は見ていた。


「お前はちゃんと、地面の上を歩いてろよ」


 その声はやはり平坦だったが、突き放された気はしない。だがマントルが自分に何を求めているのかは、鶴屋には少しも分からなかった。



「あぁ。綺麗だ」


 静かな瞳に、鮮やかな青が映される。額縁に囲われた夜空の前で、銀庄総長は真っ青なバラの香りを嗅いだ。尖った鼻先が花弁に近づき、ふわりと離れる。


「造花ではない。こうして私に渡すのだから、染色花でもないはずだね」


「無論、まことの青いバラにござりまする」


 コジロウの瞼が、総長に向けて大きく開く。跪く侍の横顔を、鶴屋は隣から見下ろしていた。冷えた空気を吸い込むと、肺がチクチクと細かく痛む。殺風景な総長の部屋には、硬い酸素が満ちていた。


「今日は、ふたりともいい顔をしているよ」


 相変わらず、総長の声に感情はない。意図の読めない褒め言葉に、鶴屋とコジロウは顔を見合わせた。コジロウの眉は不自然に引き攣り、吊り上がっている。変な顔、と思う鶴屋の額にも、浅い横ジワが走っていた。


 総長の白い人差し指が、青い花弁を撫で上げる。


「いい顔だ、とても」


 次の課題はもう少し考えて決めるから、待っていなさい。そう続けられた総長の声を、鶴屋はどこかぼんやりと聞いた。


重い扉を追い出され、絵画の廊下を行きながら、耐えきれなくなって口を開く。


「あの、マントルさん、怪我は大丈夫なんですかね」


必定ひつじょう、大丈夫であろう」


 コジロウの声はやけに素早く、きっぱりと返された。草履の足音は、叩きつけられるように鋭い。鶴屋は軽く小走りになったが、大股で歩く侍には惜しいところで追いつけなかった。


「俺たちが青いバラをもらって、本当によかったんですかね」


「あやつが譲ると言うたのだろう、よくなきことなどいささかもあるまい」


 返答はやはり頑なだ。その硬い響きに気圧されて、鶴屋は顎を引く。


マントルの事務所から帰った後、鶴屋はコジロウにすべて話した。自分がマントルと何を話したか、マントルが、青いバラをなぜ摘んでいったか。彼がどうして、鶴屋にバラを持ち帰らせたか。だがその話をどう感じたかは、侍はついに語らなかった。


「でも」


「ツルヤ」


 パタ、と草履の音が止まった。艶のない長髪を翻し、コジロウは振り向く。蛍光灯に光る瞳が、鶴屋を射すくめた。


「それがしは、あやつにはならぬぞ」


 そしてまたくるりと踵を返し、コジロウは真っ直ぐに歩き出す。抽象画たちに睨まれる鶴屋を、ぎこちなくひずむ声が呼ぶ。


「さぁ、昼餉だ! 味噌ラーメンをば食いに行こうぞ!」


 ポケットの中の隕石に、鶴屋は指先で触れた。隕石はただゴツゴツとして、触れただけでは光らなかった。

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