第二章 ともだちの琥珀

第11話 猫背が見下ろすのは地面だけ

 講義室に入るとき、鶴屋はいつでも猫背になる。元々姿勢は悪いほうだが、輪をかけて肩が縮まってしまうのだ。


 重たいドアを閉める背に、大雑把な笑い声がぶつかる。その声の主たちを視界に入れないように歩き、ロの字に組まれたテーブルの角にカバンを置いた。再び笑い声がして、今度はこっそり目を上げる。鶴屋のひとつ下の後輩たちは、以前からいやに仲が良かった。ありえねー、という声を聞きつつ、スカスカのカバンに視線を下げる。


 怒涛の九月中旬が過ぎ去り、今日は九月三十日。八月から続いた夏休みは、昨夜あっけなく幕を閉じた。といっても、鶴屋の生活にそれほど変化はない。前期のうちに卒業必要単位数はどうにか満たしておいたので、後期はこうして週に一回、必修のゼミに出席すればいいだけなのだ。卒論も、そう労力のかかるテーマに取り組むつもりはない。


 えーっ、と女子の甲高い声。それに続く笑い声。こういう喧騒に耐えるのも、これからは週に一度でいいのだ。何も辛いことなんてない、苛立ちなんてしない……と、自分に言い聞かせる。壁の時計を見上げると、講義開始まではあと十二分。もっとギリギリに来れば良かったと犬歯を擦り合わせつつ思う。


 若者特有の無遠慮な声量が、鶴屋は昔から苦手だった。笑い声を聞くと嘲られている気がするし、雑談に弾む声を聞けば責められている心地になる。音が分厚い壁となって、肩をぐいぐい押してくる感覚だ。どうしてお前はひとりでいるんだ? どうしてそうも弱いんだ? 肩を押されている間は、決まってそんな声が聞こえる。呼吸を止めて歯を噛みしめていなければ、ぽいっと押し出されてすぐそばの崖を落ちそうになる。


 もう一度時計を見上げてみる。あと十一分。なぜ一分しか経っていない? もうトイレにでも逃げ込もうかと腰を上げかけたとき、入り口のドアが開いた。


「もう遅いと思うかもしれないけど、まだまだ若い人が欲しいってところもあるから、諦めずにね」


 過剰に柔らかい声に続いて、水色のカーディガンが部屋に入ってくる。二か月ぶりに見るゼミの教授は、相変わらず目がギョロギョロと大きかった。ベージュのパンプスが二歩目を踏み出すのと同時に、もうひとつの声が講義室に届く。


「まぁ、頑張ります」


 その気だるげな口調に、鶴屋の肩はピクリと跳ねた。上げかけた腰を落ち着け、無意味に背後を振り返ってから再びドアへ視線を戻す。目の先では、シンプルな白のノーカラーシャツが揺れていた。黒いスニーカーが一歩踏み出すと、肩まで伸ばされた黒髪も揺れる。キィ、と甲高い音をさせながら、細長い手が扉を閉めた。


「まぁとにかく頑張って! ね! がたさんならきっとすぐ内定出るから」


 教授に肩を叩かれ、阿潟は「ありがとうございます」と頭を下げる。彼女の一挙一動に釘付けにされる感覚を、鶴屋は久しぶりに思い出した。


 右肘のあたりがソワソワと落ち着かなくなり、スーツ越しにそっと爪を立てる。阿潟は迷いなく講義室を進み、笑い合う後輩たちをするりと通り過ぎて鶴屋のふたつ隣に座った。心臓の痛みを感じながら、鶴屋はその横顔をチラチラと見る。


 阿潟が他の学生といるところを、鶴屋は一度も見たことがない。入学式後のオリエンテーションから四年前期のゼミまでずっと、彼女はひとりっきりでいた。


 友人のいない同級生は、もちろん他にも数人いる。しかしいつでも真っ直ぐに前を見て歩くのは、阿潟ただひとりだけだった。どんな笑い声に囲まれていても、グループワークを強制されても、常に落ち着いて気だるげに振る舞う。そんな彼女に鶴屋はずっと憧れていて、三年で同じゼミに入ってからもとにかく惹かれる一方だった。


「そうそう、それと鶴屋くんもね!」


 ぽうっとしていると名前を呼ばれる。左胸が跳ね、我に返って顔を上げた。テーブルの対岸で教授が眉を下げている。


「あなたも就活、ほんとに頑張ってね。今日はどこかの面接を受けてきたの?」


 教授の目が、鶴屋の首元のネクタイに向く。鶴屋はとっさにネクタイを押さえ、「あっ」と声を上げた。


 隕石が落ちたあの日から、このスーツばかり着てしまっている。寝るときや数日おきの洗濯の間はコジロウの浴衣を借りているので、不自由もしていないのだ。他人の衣服を、しかも慣れない和服を着るのは落ち着かなかったが、新しい服を買いに行く余裕もなかった。


 と、実情はこうなのだが、上手く説明できる気はしない。しかしどのみち、教授には自宅がなくなったことを報告しておく必要がある。ゼミ生の視線は気になるが、鶴屋はなるべく小さな声で、最低限の情報だけを告げることにした。


「その……こ、この間の隕石で、家が潰れてしまったので。それで、服も全部……これ以外、なくて」


「えーッ!」


 教授が甲高い声を上げ、ひっくり返るジェスチャーをする。後輩たちも雑談をやめ、揃って鶴屋の顔を見た。空気の流れがぴたりと止まるのが分かる。やば、と後輩のひとりが呟いた。集まる視線が、鶴屋の肌を刺す。


「いっいやその、今は、えっと……知り合い? の家に置いてもらってるので。全然、大丈夫、なんですけど」


 集まる視線を振り払うように声を出す。上擦った語尾が情けなく反響した。「大丈夫じゃないでしょー!」と教授が悲鳴のように言い、次々と質問を投げてくる。「ご両親には言ってあるの?」「他の荷物はどうしてるの?」「次の下宿は探してるの?」ハイテンポで続くインタビューに、鶴屋の目はぐるぐると回る。それでも必死についていき、講義開始まで残り三分になったところで教授が再びワッと叫んだ。


「ごめんなさい、プリント持ってくるの忘れちゃった! 鶴屋くんごめんね、頑張ってね!」


 そう言い残し、教授は嵐のように去る。ガチャリとドアが閉まる音の後、講義室には静けさが残った。その二秒後には視線が散って、後輩たちも雑談に戻る。だがおそらく、話題は鶴屋のことに移っているだろう。居心地の悪さに胃が縮む。


 やっぱり馬鹿正直に答えず、この場は適当に誤魔化せば良かった。うぐ、と密かに呻いていると、隣から声が飛んでくる。


「なんか、大変ですね」


 口から心臓、とはまさにこのことだった。痙攣するように首を動かし、鶴屋は声の方向を見る。机に頬杖を突いて、阿潟がじっと鶴屋を見ていた。細く鋭い両目は黒く、真珠のように艶めいている。彼女と目が合うのは、これが初めてのことだった。


「えっ、あっ、い、や」


 気になる相手ができたことは、鶴屋の人生にも何度かあった。が、その相手から話しかけられた経験はない。過剰な動揺ととてつもない緊張と行き過ぎたときめきに舌が言うことを聞かなくなり、無意味な単音ばかりが口から逃げていく。


 まずい。このままではロクに会話もできず、おかしな奴だとみなされてしまう。何か言わなければ、何か、それもできるだけカッコいい、気の利いた返しをしなければ。


 脳内で自分自身に急かされ、どうにか「いや」と発音はできても、気の利いた言葉など出てこない。結局阿潟に返せたのは、


「いや、ほんと、あの、大変です」


 と、これだけだった。そのうえ声も尻すぼみに小さくなっていって、自分が情けなくなる。ハハハ、と絶望を誤魔化すように笑う。が、阿潟は鶴屋に失望の目を向けることも、そっぽを向くこともしなかった。


「隕石にぶつかる確率って、宝くじの一等に当たる確率より高いんでしたっけ」


 彼女はただ淡々と、会話を進めようとする。記憶を辿ろうと斜め上を見る仕草に、鶴屋はドキリとした。


 阿潟が、自分と話そうとしてくれている。それだけでお腹いっぱいになりそうだったが、ここで言葉に詰まっては本末転倒だ。頭をフル回転させて溺れるように言葉を探し、どうにか舌を動かしていく。


「え、と、そういう話も聞いたことあるし、そうじゃないって話も、は、はい」


「あ、そうですか。どっちの説もあるんですね」


 ふぅん。鼻にかかった声を、阿潟はのんびりと漏らす。その響きがこの上なく甘く聞こえ、鶴屋の体はじぃんと痺れた。その感覚に浸っていると、「はぁーいごめんなさいごめんなさい」と教授が講義室に戻ってくる。直後に聞き慣れたチャイムが鳴り、びりびりと痺れたまま鶴屋は、講義の波に呑み込まれた。


 *


 革靴の底はフワフワとして、地面を蹴っている気がしない。夕日の街はいつもよりずっとカラフルに見え、鶴屋の頬は自然と緩んだ。大学からの帰り道、阿潟に向けられた表情や言葉が、頭上をプカプカとたゆたっている。


 圧迫面接に隕石に侍、それにマントルの一件と、最近は疲れることばかりだった。ここ数日は寝つきも悪く、どんよりした朝が続いていたが、明日は久しぶりに爽やかな目覚めを迎えられそうだ。


 ポケットには、今日も隕石が入っている。この隕石は鶴屋の平穏な生活を奪ったが、それを償うかのようにいくつかの恩恵をもたらしてくれた。総長からの評価、青いバラ、そして、阿潟との会話。


 ……いや、最後のひとつはともかくとして、残りのふたつを「恩恵」と呼ぶのは違うかもしれない。


 青いバラさえ見つからなければ、あんな現場も見なくて済んだ。そもそも総長に評価されなければ、過酷な裏路地に踏み入らずに済んだ。そう考えると、隕石はやはり忌むべきものだ。マントルの一件は、裏路地のシビアさを実感するにはじゅうぶんすぎるほどだった。


 嫌な記憶に脳が冷えると、浮ついた心も落ち着いてくる。心が落ち着いてくると、思考がネガティブになってくる。よく考えれば、阿潟との会話もひどいものじゃなかったか? 阿潟はスムーズに話してくれたが、それにどれだけ応えられたか? 教授が戻ってくるまでに、上手い相槌のひとつくらいは打つべきだったんじゃないか? それ以前に、気持ち悪い顔で話してしまったのではないか?


 革靴がどんどん重くなり、視線もどんどん足元へ下がる。一歩進むごとに、恥ずかしさと不甲斐なさが膨らんでいく。膨らんだそれらに神経を圧迫され、感覚を奪われ、わぁっと叫び出したくなったとき、どん、と何かにぶつかった。


「あ?」


 頭上から低い声が降る。腹の中身が急速に萎んで、アスファルトを踏む足の感覚が戻ってきた。同時に、眼前に広がる派手なオレンジ色に気づく。その鮮やかさに見覚えがあって、思わず短い悲鳴が漏れた。


「おい、どういうつもりだ」


 総長の右腕、遠近が、サングラス越しに鶴屋を睨んでいた。


 とっさに声を出せず、鶴屋は忙しなく目を泳がせる。狭い駐車場、汚れた外壁、赤錆の浮いた玄関扉。ネガティブ思考に囚われているうちに、コジロウ宅の玄関先まで帰り着いていたようだった。そしてそこにはどういうわけか、遠近がいる。


 混乱していると、オレンジの向こうにコジロウが見えた。開いた玄関扉を支えて、侍は不安げな顔を覗かせている。その唇の紫色に事の重大さを実感し、鶴屋は「あ」と声を絞り出す。


「す、すみませ、申し訳ありません、その、つい、ついというか、あの」


 焦りばかりが先行し、言葉が上手く出てこない。うっかり、うっかりというかぼんやり、ぼんやりというか……。曖昧な言い訳を出しては引っ込め出しては引っ込めするうちに、コジロウの紫はみるみる範囲を広げていく。唇から顎、頬、瞼と順に血の気が失われ、眉の上までが紫色に染まったところで、はぁ、と深い溜め息が聞こえた。


「もういい、すっとろい謝罪に付き合ってられるほど暇じゃねぇよ」


 はぁ、ともう一度溜め息を繰り返し、遠近は苛立たしげに頭を掻いた。冷めた諦めの空気を感じ、鶴屋は首を竦める。


 総長の右腕にはやはり、どっしりとした威厳が見えた。彼の足元を支える地盤は、鶴屋のそれより固く分厚い。そしてその厚さのぶんだけ、遠近は高い場所に立っているのだ。


 鶴屋はトボトボと歩き、コジロウの隣に収まった。と、肘で脇腹を小突かれる。少し前までの浮ついた気分は、もう見る影もなくなっていた。うぅ、と呻いていると、遠近の声が重く降ってくる。


「今日はな、総長からの課題を伝えに来たんだ。それ以外に用はねぇ」


 その言葉に、指先が冷えて強張る。言われてみれば、遠近がここを訪れる理由など他になかった。ガァ、と一声、頭上でカラスが乱暴に鳴く。眼前に立つサングラスの奥で、素朴な両目が細められた。金属めいて冷たい瞳が、厚い地盤から鶴屋とコジロウを見下ろしている。


「いいか、声を出すのが俺でも、これは総長のお言葉だぞ。心して聞いて、一度でしっかり記憶しろ」


 遠近は続ける。凄むような響きに、鶴屋の背筋はぶるりと冷えた。


 マントルの顔が蘇る。膝がかすかに震え始める。が、「内定」の二文字は鶴屋をとらえて離さなかった。気づけば「はい」と口が動いている。すると同時に、「承知」とコジロウの声も聞こえた。もはや流れは止められない。鶴屋は奥歯をぐっと噛みしめ、耳を澄ます。


 そして遠近の口が厳かに、開かれる。


「『真っ白な命を閉じ込めた、木漏れ日のような緑色の石』」


 だ、そうだ。投げやりにそう付け加えて、遠近はジロリと鶴屋たちを見る。サングラスの向こうで、丸い瞳が輝いた。試すような光に、鶴屋はたじろぐ。


 真っ白な命を閉じ込めた、緑色の石。前回の「青いバラ」に比べて、抽象的な指令だった。木漏れ日のような緑とは何か? 命を閉じ込める、という言葉は、一体何を表しているのか? 強張ったままの指先を握り込む。爪が手のひらに刺さって痛むが、緩めることはできなかった。


「しかと、承り申した」


 鶴屋の隣で、コジロウが頷く。やはり余裕には欠ける声だが、青いバラを指示されたときよりは、緊張が薄らいでいた。一度、隕石も含めれば二度、課題を達成した経験が彼を支えているのだろう。が、鶴屋にはどうしても自信が持てない。


「承り申した、な」


 そんな鶴屋とコジロウを見比べ、遠近はフンと鼻を鳴らした。腕を組み、眉間に深くシワを刻む。その神経質な表情を見て、鶴屋は思わず縮こまった。


「承るってことは、この課題に本気で取り組むっつうことだ。小手先のズルで切り抜けるって意味じゃねぇからな」


 総長の右腕は、威厳を遺憾なく発揮して言う。鶴屋はさらに肩を縮めるが、隣のコジロウは控えめに反論した。


「ズルなど、元よりするつもりはござらぬ」


「どうだか」


 遠近はぴしゃりと吐き捨てる。総長に謁見したときから、彼は鶴屋たちに懐疑的だ。それは当然だと鶴屋も思うが、この緊張感は耐えがたかった。俯くと、頭上を険のある声が飛び交う。


「例の隕石とバラ、怪しいんだよ。バラなんて特に、この世にあるはずねぇモンだろうが」


「されど、我らはこのうつし世で見つけ申した。そこに嘘偽りはござらぬ」


「そんなの信じられるかよ。総長の優しさにつけ込んで、つまらねぇトリックでも使いやがったに決まってる」


「総長を奸計にかけるなど、滅相もござらぬ! それがしはただ忠義を示さんと……」


「何が忠義だ。お前もどうせ、総長にすり寄って甘えたいクチだろ。総長の優しさ、慈悲深さにしか目が向いてない。違うか?」


「さっ左様なことは」


「お前もだぞ、就活生」


 いきなり矛先を向けられ、鶴屋はギクリとした。唾を飲み、俯けた顔をこわごわ上げる。


 と、その瞬間、空気を吸い込めなくなった。


 ネクタイを掴んで捻り上げる手が、視界の下端に映り込んでいる。ネクタイもろとも締め上げられた喉に手を当て、鶴屋は足をばたつかせた。酸欠に潤む目のすぐ前に、遠近の顔が迫ってくる。深い暗闇を湛えた瞳が、鶴屋を飲み込むように捉えた。


「他人の強さを借りたいんなら、相応の力と覚悟で挑め。力にも覚悟にも自信がねぇなら、諦めて別の道を行け。自分がどうするべきなのか、よく考えてみたほうがいい」


 発された一音一音が、鶴屋の頭蓋を震わせる。答えられずにいるうちに、するりと喉が解放された。急激に酸素が飛び込んできて、むせる。ゲホゲホと濁った咳の向こうで、遠近の声が続いた。


「総長に認められていいのは、本当に強い人間だけだ」


 その響きには、底の見えない暗さがあった。凄味に紛れて、ほんのかすかな揺らぎが聞こえる。鶴屋は顔を上げた。サングラスの奥で、遠近の瞳は震えている。その動きに、鶴屋は馴染み深い何かを見た。コジロウの中に、あるいは自分の中にある何かを。


 そうするうちに「じゃあな」と吐き捨て、遠近はふたりに背を向けた。鶴屋は最後に咳払いして、遠ざかる後ろ姿を見つめる。


 整えられた金髪に、よく磨かれた黒の革靴、ピンと真っ直ぐに伸びた背筋。そこにはもう、揺らぎはなかった。「本当に強い人間」になれば、ああして堂々と歩けるのだろうか。それともああして歩ける者だけが、本当に強くなれるのだろうか。安定した地盤を、所属という後ろ盾を得られるのだろうか。


 親指の爪を前歯で削る。力も覚悟も、努力ひとつで手にできるなら苦労しない。


「ツルヤ、閉めるぞ」


 コジロウに呼ばれ、鶴屋はハッと振り返った。ほれ、と急かされて玄関に入る。バタン、とドアが閉められると、夕日の赤さは見えなくなった。


「なかなかに高き壁よなぁ、遠近殿は」


 げっそりした顔でコジロウがぼやく。弱々しい声に力が抜けて、鶴屋は削った爪の先を撫でた。ギザギザとした感触を覚えつつ、「そうですね」と同調する。


「総長に認めてもらえても、あの人に認めてもらえなきゃ駄目、ですかね。やっぱり」


「遠近殿は三国一の『総長信者』ゆえ、駄目ということはなかろうが……このままというのもちと安げないな」


「そうですよね……」


 ふたりの溜め息が重なり、天井に溜まる。色褪せた壁にそっともたれて、鶴屋は改めてコジロウを見た。艶のない長髪に黒ずんだ草履。背筋を丸めた痩せた長身。情けないな、と思う鶴屋も大して変わらないことは、鶴屋自身にも分かっている。


「まぁ、とにもかくにも、務めを全うせぬことにはどうにもなるまい! うむ」


 舞い降りた重い沈黙を、コジロウがぎこちなく破ってみせた。自らに言い聞かせるように「うむ」を何度も繰り返しながら、侍はぽいと草履を脱ぐ。部屋へと上がる狭い背中に、鶴屋も続いた。


 目の前の不安から逃げるためにも、「務め」に向き合う他はない。力をこめて瞬きし、恐怖と焦りと懸念を振り払った、つもりになる。


 白い座卓をふらふらと囲み、ふたりは座った。コジロウは顎を親指で撫で、鶴屋は額に手を当てて、思考をどうにか新たな課題へ切り替える。


「ツルヤ、よもや忘れてはおらぬだろうな。『真っ白な命を閉じ込めた』?」


「『木漏れ日のような緑色の石』、で、合ってますよね?」


「うむ。しかし、それがしには分からぬ。命を閉じ込める、とはいかなることだ?」


「それは俺にもちょっと。た、魂、みたいなことなんですかね?」


「左様であれば、ただびとには到底手に入れられぬぞ」


「です、よね。真っ白、っていうのもよく分からないし……」


 コジロウと鶴屋はそれぞれに唸り、天井を見上げる。だが天井はまだらに染みを浮かべるばかりで、何も答えてはくれなかった。ふたりが首を捻り、こめかみを押し、喉を掻きむしるうちにみるみる沈黙が蘇り、空気は淀んでいく。そうして揃って呻き声しか発せなくなった頃、侍が突然「あぁっ!」と叫んだ。


「くそっ、やはりそれがしにはできぬというのか!」


 悲鳴めいた響きに、鶴屋も泣きたくなってくる。


 課題を達成できなければ、内定のチャンスがふいになる。それだけではない。犯罪者に名を知られたことも、マントルの片棒を担いだことも、あの暴行を見たことも、すべてが無駄になってしまうのだ。そう考えるとあまりに虚しく、焦りに肌が痒くなる。


 もう二度と、あんな経験はしたくない。しかし、それほどの経験を無駄にしたくもないのだ。


「隕石が、再び光ればよいのだがなぁ」


 そう言って、コジロウは鶴屋の顔を見る。その目を、鶴屋は見つめ返した。侍の瞳は、いつも以上に黒く濁っているように見える。そこには期待と同時に、うっすらとした無力感が宿っている気がした。


 その無力感の意味は掴めないが、隕石に頼りたくなる気持ちは分かる。ポケットの中の確かな重みに、鶴屋は意識を傾けた。


 隕石は確かに、普通ではない力を秘めている。だがそれに頼って良いのかどうか、鶴屋にはやや疑問でもある。このまま先に進んでしまえば、あの暴行よりさらに痛ましい何かに直面することになるのではないか。


 ……だめだ、そんなことは考えても分からない。今はせめて、この暗い空気だけでも打破しなくては。明るい言葉を必死に探し、対面の顔から目を逸らした、そのとき。


 ピンポーン、と、軽薄な音が部屋に響いた。


 鶴屋の肩が大きく跳ねる。この部屋に来て二週間、インターホンの音を聞くのは初めてだった。驚いていると、コジロウが「おっ」と声を出す。侍は慌てた顔で立ち上がり、小走りに玄関へ向かうと、ドアスコープを覗いて声を飛ばした。


「客だ!」


「きゃ、客?」


 鶴屋は声を裏返す。それから遅れて、侍の生業を思い出した。以前聞いた業務内容が脳内を駆け巡り、ぞわりとする。


「えっ、じゃ、じゃあ俺、どうしてたらいいんですか?」


 恐怖に急かされ、周囲を見回してみる。殺風景な六畳間には、隠れられそうな場所などなかった。オロオロしつつとりあえず中腰になると、侍の声がまた飛んでくる。


「おぬしは茶でも淹れておれ! ほれ、開けるぞ!」


「はっ!? ちょ、ちょっと待って!」


 その制止も聞かず、コジロウは扉の鍵を開ける。鶴屋が「ちょっと!」ともう一度叫んで足を踏み出すと、開いた扉から夕日の赤が帰ってきた。

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