第8話 背中に重石をありったけ

 殺しは最も割に合わない仕事だ、とコジロウは語った。


「我らはとうに罪人なのだ、今さら人倫じんりんを説くこともあるまい。されどそれゆえに、己が身だけはいかにしてでも守らねばならぬ」


 彼によれば、裏路地は「責任」の世界だという。何か不利益を被ったなら、その責任者を殴らなければ「チョロい標的」と見なされる。誰が売ったか、誰が買ったか、誰が用意し、誰が使い、誰が縄張りを侵したか。責任の所在を常に把握し、いつでも制裁を下せるようにしておかなければ生き残れない。


 しかし責任をのは、強い者たちに限られる。弱い者たちは、いつでも責任を側だ。


 どうして仕事をしくじったのか? どうして仕事を断ったのか? どうして断らなかったのか? 一度責任を追及されれば、抵抗することはまずかなわない。それがどれほど八つ当たりじみた制裁でも、逃れる力も術もない。だからこそ、負う責任は最小限に留めておかねば身がもたない。


 裏路地においても、殺人は最も重大な罪だ。となればもちろん、取らされる責任も他の比ではない。だが一度でも金で殺人を引き受けてしまえば、事務所はたちまち殺しの依頼者でいっぱいになる。それらを断れば「なぜ最初だけ」と無責任さを追及され、断らなければ当然のごとく、背負う責任は増えていく。


「ひとたび殺し屋なんぞになれば、畢竟ひっきょう殺されるのは己よ」


 赤信号に照らされる侍の横顔を、鶴屋は黙って見つめることしかできなかった。


 午前六時過ぎ。街はまだ暗く、海中のような青に染まっている。緑に光った信号に従い横断歩道を渡りきると、鶴屋の首は冷たい風に撫でられた。クシャミのために立ち止まり、鼻水をすすりつつ顔を上げる。三歩先を行くコジロウが、路肩に停まった車の横で立ち止まっていた。鶴屋も追いつく。無個性な軽自動車は、ガチ、と硬い開錠音でふたりを迎えた。


「早く乗れ」


 助手席の窓が開き、マントルの指示が飛んでくる。運転席の代行屋は、目の下のクマをいつも以上に濃くしていた。助手席にコジロウが、後部座席に鶴屋が乗り込むと、シートベルトを締める間もなくアクセルが踏まれる。


「お前ら、自分の仕事は分かってるな」


 走行音に溶け出すような、力なく掠れた声だった。シートベルトを慌てて締めて、鶴屋は「はい」と返事する。「うむ」と重なったコジロウの声が、車窓の景色と共に流れる。


 今日は初めて、マントルから仕事を任された日だった。


「事を済ませた貴殿を、この車で逃がせばよいのであろう」


「そうだ。待ってる間、エンジン切るなよ」


 うむ、とまたコジロウが頷き、鶴屋もはい、と追いかける。そして車内からは声が消え、タイヤの滑る音と、かすかな衣擦れの音しかしなくなった。沈黙の重さに、鶴屋は喉を掻きむしりたくなる。緊張、恐怖、罪悪感、諦念。すべてがぐちゃぐちゃに混ざったような不快感が、車内に満ちている。


「昨日は、すまなんだ」


 同じ苦痛に耐えかねたのか、コジロウが小さく謝罪した。マントルは侍を一瞥し、フロントガラスに目を戻す。


「それがしが無用な口出しをしなければ、貴殿は断れていたやもしれぬ」


「いいよ、もう」


 コジロウの声を叩き落して、マントルは左にウインカーを出す。急かすような矢印に従って、車は左折する。


「お前が出てこなくても、どうせ断れてなんかなかった。だからいいんだよ。こういうもんなんだ」


 その声はやはり平坦だった。昨日、依頼を受けたときと同じように、感情が読めない。何らかの思いが隠されているのか、それとも本当に空っぽなのか、それすら判断がつけられなかった。


 鶴屋にはそれが恐ろしく、腹立たしい。肩を突き飛ばされるのにも似た、力任せの拒絶が感じられた。


「されど」


 その拒絶に気づいているのかいないのか、コジロウは続ける。


「せっかく、貴殿の事務所に置いてもらっておるのに」


「だから、もういいって言ってるだろ」


 ドン、と突き飛ばされる侍の幻覚を、鶴屋は見た。


「お前らがいてもいなくても、俺はひとりでやっていくんだから」


 コジロウが息を吸う音がして、だがそれ以上、言葉が発されることはなかった。車はまた静かに、ひたすら静かに進んでいく。窓外を過ぎ去るドラッグストアの看板が朝日に黄色く染まっていくのを、鶴屋は眺めていた。


 マントルはこれから、おそらく人を殺しに行く。それがどういう心持ちなのか、鶴屋には想像できなかった。人を殺す。その責任を負う。それらの重さも、恐ろしさも、フィクションを通してしか知らない。


 それから目的地に至るまで、会話はなかった。走行音が小さくなり、荒いブレーキに車が止まる。背の高いビルに挟まれた、薄暗い路地。そこから枝分かれした細い脇道のそばが、到着地だった。この脇道の突き当たりに建つのが、パーカー男の指定したビルらしい。


 鶴屋は窓を覗き込む。車は、脇道に後部座席を半分ほど覗かせる形になっていた。ビルと車の間の距離は、おおよそ三十メートルほど。発砲を済ませ、真っ直ぐ走って戻ってくればまず問題なく逃げられるだろう。


 カーナビの液晶が示す時刻は、午前六時二十九分。決行時刻の六時四十五分まで、まだ余裕はある。


「行ってくる」


 淡白な声と同時に、サイドブレーキが起こされた。運転席を慎重に開き、マントルはアスファルトに降り立つ。そのズボンには、あの拳銃がきっちりと差し込まれていた。いってらっしゃい、と言うべきかどうか鶴屋が迷っているうちに、ドアが閉まる。誰の挨拶も必要ないとばかりに、痩せた背中は脇道の奥へ向かっていった。


 助手席から、ガサ、と布の音が聞こえる。目を向けると、コジロウが運転席に移動していた。少しでも早く車を出せるよう、帰りの運転はコジロウがすることになっている。鶴屋はこっそりと首を伸ばし、運転席を覗き込む。長身の侍はシートをがたりと後ろにずらして、ミラーの角度を調整していた。


 ルームミラーとハンドルと侍。見れば見るほど不思議な光景だ。コジロウは運転免許を持っているのか。あるいはやはり、無免許運転をするのだろうか。疑問はあるが、考えられる気分でもない。


「何とも言えぬものよな」


 視線に気づいたのか、コジロウが言った。その悲しげな声色に、鶴屋は居心地が悪くなる。かたわらの窓に視線を逸らして答えた。


「何が、ですか」


「こうして我らに身を守らせておきながら、『ひとりでやっていく』と言うたろう、あやつは」


「あぁ」


 確かに、マントルの言動は矛盾していた。自分を逃がさせるということは、自分を守らせるということだ。そんな大役を任じておきながら、マントルは「お前らなんかいてもいなくても同じなんだ」と言ってのけた。改めて整理してみると、あの振る舞いはひどく身勝手に感じられる。


「ちょっと腹、立ちますよね」


「そうか。おぬしはそう思うか」


 コジロウの視線が鶴屋に向き、離れる。彼も怒っているのかと思ったが、違うらしい。鶴屋は取り残された気分になった。じゃあコジロウさんはどう思うんですか。そう訊いてみたくはあったが、負け惜しみじみていてはばかられる。


 ガサ。また袴を鳴らして、侍は座り直した。ハンドルを指で撫でながら、フロントガラスを睨みつけている。鶴屋も脇道に目を凝らした。マントルは、ビルの外壁に背をつけて腕時計を確認している。彼の隣には指定通りの窓があったが、カーテンが引かれていて中の様子は覗けなかった。


「もしマントルの身に何ぞ起これば、責任があるのはそれがしであろうな」


 そしてまた、コジロウが呟いた。「責任」という言葉に、鶴屋の背筋は冷える。


「です、かね」


「うむ」


 侍が息を吐く音がした。浅い響きに抑揚はなく、悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえる。


「だがあやつには、責任を取らせることなどできまいよ」


 しかしそう続いた声には、はっきりと悲しみが宿っていた。深く寒々しい声色に、鶴屋は俯く。


 コジロウとマントルがまとう寂しさを、共有することはできなかった。共有したいとも思わなかったし、そう思ってはいけない気もして、言葉がひとつも見つからなくなる。後部座席に背を預けると、ぼす、と鈍い感触があった。背もたれを使って座ってはいけない。マナー講師の教えが蘇り、消えた。


 静けさの中、時間は過ぎる。三十七、三十八、三十九、四十。カーナビの画面で、計器盤の隅で、六十秒ごとに数字は増える。


 四十三、の表示と同時に、マントルは動かなくなった。銃口をビルの窓につけ、足を肩幅に開いて構えている。車内からでは見えなかったが、きっとあそこに穴が開けられているのだろう。その先に何があるのかは、マントルも鶴屋もコジロウも知らない。


 もしあの先に、本当に人がいるのなら。銃口の延長線上で、早くから仕事に勤しんでいたら。デスクの前にじっと座って、書類を整理していたら。あるいはそこは個人の私室で、寝起きの顔を洗っていたら。姿見の前に立っていたら。殺風景な監禁部屋で、椅子に縛りつけられていたら。


 想像を巡らせてみればみるほど、現実感は薄くなる。目の前で殺人が行われるなど、正直とても信じられない。どう努力しても実感が湧かず、恐怖すらしきれないことが余計に恐怖を掻き立てる。


 そうするうちに、「四十三」が切り替わった。午前六時、四十四分。チカ、チカ、チカ、チカ。鶴屋の呼吸が細かく震える。冷えた指先が痛み始め、目頭が痒くなり始め、チカ、と点滅に耐えられなくなりついに目を閉じた、そのときだった。


 パン。


 乾いた音。鶴屋は弾かれるように目を開けた。パン。間髪入れずもう一度、音が響く。想像よりもずっと掠れた、味気ない音だ。しかしきっと、間違いなく、ふたつの音は銃声だった。そう考えてやっと、あぁ、と喉の奥が鳴る。


 銃声を聞いた。今、自分は確かに、銃声を聞いた。人が殺されたかもしれない音を、この両耳で聞いたのだ。だがそれはひどくあっけなく、無味乾燥な音だった。路地を囲むビルも、夜明けを迎えたばかりの空も、少しもざわめく気配はない。


 銃が撃たれることでさえ、裏路地においては「この程度」なのだ。肩から力が抜けていく。胸の内側が、空っぽになったような気がする。


「来ておるか」


 運転席からコジロウが訊いた。鶴屋は我に返り、慌てて脇道を覗き込む。マントルの小柄なシルエットが、パタパタと車に近づいてきている。


「来てます」


「よし」


 細い手がサイドブレーキを掴む。「おい」と声をかけられ、鶴屋は慌ててシートベルトを外した。脇道側の窓から離れ、マントルのために席をずれる。ドアのロックが外れる音を聞いてから、遠くなった窓に目を戻した。


 マントルは真っ直ぐに走ってきている。拳銃を掴んだままの右手が、ひどく重そうに揺れていた。一メートル、五メートル、十メートル、シルエットは着実に車に近づき、だがその力ない足取りが、鶴屋にはもどかしくてたまらなかった。十五メートル、十九メートル、薄闇の中、影が大きくなるたびに少しずつ、マントルの輪郭がくっきりとしてくる。二十二メートル、二十四メートル、二十五メートル、そこでようやく、表情が見える。


 マントルの目は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。


 パン。


 そして三発目の銃声が、響く。


「え?」


 鶴屋の唇から声が漏れ、窓からは、マントルの姿が消えていた。


「いかん!」


 鋭い声に重なって、ドアにロックがかけられた。サイドブレーキを下ろす音の後、窓の景色が動き出す。「ちょ、ちょっと!」加速の感覚にしがみつくように、鶴屋は運転席の背もたれを掴む。鳴るはずのない銃声と侍の行動に、理解が追いつかなかった。


「あの、これってどういうことですか、どうなっちゃったんですか、何で車、動いてるんですか! い、いいんですか!?」


「やかましいわ、このたわけ!」


 怒鳴り返しながらコジロウはハンドルを回す。目の前の角を右に曲がってもまだ、暗い路地が続いている。


「見て分からぬか、マントルが撃たれた! どこぞに見張りでもおったのだろう、今頃はあのビルの連中が、あやつを取り囲んでおる。あのまま呑気に留まっておれば、それがしもおぬしも同じだったやもしれぬのだぞ!」


「だ、だからって!」


 運転席に身を乗り出し、侍の耳に声をぶつける。義憤とも使命感とも違う、暗い焦りが鶴屋を突き動かしていた。


「だからって、俺たちだけ逃げていいもんなんですか!?」


 責任、と口にした侍の声が蘇る。


「阿呆が!」


 暴言と同時に、ガクンと車体が大きく揺れた。鶴屋はとっさに歯を食いしばり、目を閉じる。ガチャ、と音がして瞼を開けると、車は停まり、運転席のドアが開いていた。


「ここで逃げれば、青いバラが手に入らぬであろう!」


 早く参れ、ただし静かに! 乱暴な小声を投げて、コジロウは来た道を小走りに戻る。〇・五秒ほど唖然としてから、鶴屋も慌てて車を降りた。後部座席の戸を閉めて、前方で揺れる長髪を追う。数秒前のやり取りを思い出し、顔の表面が熱くなった。だってあんな言い方をされたら、逃げるのかなと思うだろうが! 羞恥にわぁっと叫びたくなるのを、奥歯を噛みしめて必死に堪える。


 そうして隣に追いついても、コジロウは鶴屋を見もしなかった。路地は暗く、カビとガソリンのにおいがする。軽自動車で曲がった角を、今度は草履と革靴で曲がる。


 と、その瞬間、聞き覚えのない声が空気を震わせた。


 らぁ、がぁ、だぁ、どれともつかない音の連なりが周囲の壁に反響する。草履と革靴が同時に止まった。コジロウがすり足で道の端に寄り、改めて一歩そろりと踏み出す。鶴屋もそのやり方をなぞった。


 一歩一歩、あの脇道に近づくごとに、声と気配が大きくなる。ドサ、と何かが地面に落ちる音。ひとりのものだと思っていた声が、複数人のものだと分かる。


 頬が急速に冷えるのを、鶴屋は感じた。そうだ、あの程度のことを恥ずかしがっている場合ではない。頬を張られた気分になって、左胸の脈が加速していく。どくどくどく、やがて自分の心臓が耳のすぐ横で鳴り始め、侍から聞いたふたつの台詞が、思い出される。


 ――今頃はあのビルの連中が、あやつを取り囲んでおる。

 

 ――ひとたび殺し屋なんぞになれば、畢竟殺されるのは己よ。


 申し訳ありません、と、聞こえた。


 コジロウが止まり、鶴屋も立ち止まる。あの脇道に続く角はもう、ふたりのすぐ隣にあった。


 申し訳ありません。上擦ってかすれた舌足らずな悲鳴は、確かにそう言っていた。申し訳ありません。申し訳ありません。それが何度も何度も、不規則に繰り返される。その合間にはあの喚き声と、鈍く反響する衝撃音と、ヒュウヒュウと荒い息遣いが滅茶苦茶に重なって繰り返されていた。


 コジロウが壁に背をつけて、角の向こうを覗き込む。鶴屋もまた、無意識に右足を踏み出していた。恐怖ににじんだ視界が動き、気がつけば、コジロウの足元にしゃがみ込んでいる。脇道に続く角が、顔のすぐ横に迫っている。


 やめろ、見るな、顔を背けて耳を塞げ。警鐘が頭をぐわぐわと揺らし、その警鐘を心音が掻き消す。どくどくどくどく、左胸が熱くなり、体の芯は冷える。角の向こうを見たくなくて、見たくない、見たくないと思えば思うほどなぜか首は回り、コンクリートの灰色の奥を見た瞬間、マントルの額が地面に叩きつけられた。


 衝撃に跳ねたマントルの背を、白いスニーカーが踏みつける。その爪先がぐりぐりと背骨を圧迫すると、地面に向き合った口の端からカエルのような呻き声が漏れた。間髪入れず太い腕が伸び、代行屋の右手を押さえつける。そのまま人差し指が掴まれ、手の甲へ向け勢いをつけて倒された。コキ、と軽い音に反して、上がる悲鳴は甲高い。続いて中指が掴まれる。それと同時に、脇腹に鉄パイプが叩きつけられた。コキ、とまた軽い音。悲鳴の顔が持ち上げられて、開いた口に尖った革靴が突っ込まれる。コキ。薬指が鳴らされると、舌は靴底を舐めるように波打つ。白のスニーカーが移動して、左足の前で立ち止まる。赤く染まった太腿に、尖った踵が突き立てられた。靴底の下でマントルは叫ぶ。鉄パイプがその喉を押す。コキ。小指が鳴る。


 う、と、鶴屋の喉が鳴った。胃液が泡立つ感触と共に、温い濁流が喉をのぼってくる。口元を手で押さえると、「吐くな」と声が降ってきた。「ここに痕跡を残すでない」涙の溜まった両目を閉じて、濁流を無理やり押し戻す。逃げるように見上げると、コジロウは血の気を失った顔で、それでも暴行の現場を見ていた。


 そうなのか。五つの文字が、鶴屋の脳で点滅する。


 そうなのか。これが、そうなのか。これが、責任を取るということなのか。これがマントルの生きている世界で、コジロウが生き抜こうとする世界か。こんなところで、たったひとりで、彼らは生きてきたっていうのか。


 恐怖だった。はっきりと現実感のある、ただ真っ暗な恐怖だった。マントルが発砲する前の恐れとは、まるで比べ物にもならない。自分が恐怖を感じるのではなく、恐怖の中に自分がいて、全身に杭を打ち込まれている。そんな感覚だった。


 逃げ出せない。そもそも逃げ場が見つからない。悲鳴はまだ続いている。ゴポリと胃液がまた泡立つ。早く、早く終わってくれ、早く、早く。溺れる海から顔を出すように口を開き、か、と息を吐いた瞬間、声がした。


「おい、そいつマントルだろ」


 それは角の向こうから聞こえてきたが、これまでの喚き声とは違っていた。抑揚のない、冷静な発音だ。暴行の気配がぴたりと止まる。


 固まった首を無理やり動かし、鶴屋は再び角の先を見た。マントルとそれを取り囲む数人の元に、スーツを着た男が歩み寄っている。


「そいつはただのパシリ屋だ。そんなのいつまでも殴ってたって、大した見せしめにならねぇぞ。そいつの依頼人も大体割れてるから、とっとと戻ってこい」


 指示を受け、スーツの手下たちはマントルから離れた。踵を返すスーツ男に、そのままぞろぞろとついていく。マントルを振り返る者はなかったが、去り際に一度、股間を蹴り上げていく者はいた。「お前、そういうの好きだな」とひとりが言って「好きなわけじゃねぇよ」と蹴りの主が答える。


 そうして一団が去っていき、マントルだけがアスファルトの上に取り残された。あの集団に取り上げられたのか、拳銃はどこにも見当たらない。嘘のような静けさの中で、鶴屋は指先すら動かせなかった。


 ビルの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでくる。淡く冷たい金色が、傷だらけになった敗者をひとり、ただ粛然と照らしている。

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