第7話 負け犬たち

 突如現れた白い扉を、鶴屋とコジロウはただ見上げる。


 棚に隠されていたおかげか、扉の表面には染みひとつない。黒ずんだ壁紙に挟まれて、そこだけが光っているようにも見えた。鶴屋はハッとして、ずらされた棚の足を見下ろす。短い足に隠すようにして、キャスターが取りつけられていた。


 動かせる棚に隠された扉。予想外の展開に、鶴屋の心は沸騰する。恐怖も怒りも一瞬のうちに消え去って、声を出さずにはいられなくなる。


「ぜ、絶対、絶対このドアの向こうですよ、青いバラ。こうやって隠してある部屋なんて、貴重なものが仕舞われてるに決まってます!」


「うっうむ、そうであろうな! これだけ探して見つからなんだのだ、重要なものはすべてこの戸の奥に隠されておるに違いなかろう!」


 当然コジロウもハイテンションだ。数十秒前までの冷えた雰囲気は綺麗さっぱり消し飛んで、ふたりの顔は紅潮している。青い希望に照らされて、弱い男たちは浮き足立った。


「よぅし! そうと決まれば早速ここに踏み込んでやろうぞぉ!」


 そう力強く声を張り、コジロウは扉に手を伸ばす。骨ばった指がドアノブを掴むさまを、鶴屋は見つめた。親指、人差し指、中指、薬指、小指、順に力の入れられた五指が細いステンレスに沿って締まり、手首が回、らない。


 ガチャ。ガチャガチャガチャ。


 ノブの回転が妨げられる、非情な音が壁に跳ね返る。ガチャガチャガチャガチャ。しつこく繰り返してから、侍は泣きそうな目を上げた。


「鍵、かかっておる」


「みたい、ですね」


 熱気に満ちたふたりの間に、再び冷えた木枯らしが吹いた。あぁっとコジロウが額に手を当て、鶴屋も深い溜め息をつく。今日はなんだか、期待の縁から突き落とされることばかりだ。疲労に頭がズキズキと痛む。


「それらしき鍵をどこぞで見たか?」


「見てない、と思います。たぶん、マントルさんが持ってるんじゃないかと」


「そうよなぁ」


「その、もしかして……無理やり奪い取るしかない、ですか?」


「いや、正面衝突はちとマズかろう。たとえ鍵を奪えたとて、我らはそののちに扉を開き、バラを見つけ出し、逃げおおせねばならぬのだぞ」


「あ、そ、そうか」


「そも、この戸の先にバラがあるとも限らぬしな……」


「じゃあ、どうしたら」


「うむぅ」


 眉間にシワを寄せ、コジロウは唸る。鶴屋はもはや考える気力すら湧かず、侍の様子をぼんやりと見ていた。そして思考を手放しかけると、「もはや」と低い声が聞こえた。意識をわずかに浮上させる。「もはや」と再度繰り返し、コジロウは静かに、こう続けた。


「残されし手立ては、ただひとつのみよ」


 *


「何だ、これは」


 ローテーブルの前まで来て、マントルはぴたりと足を止めた。おざなりに肩から下ろされたリュックが、床でどさりと音を立てる。


「マントルさんの、ご昼食……です」


「んなもん見りゃ分かる。なんでこんなに気合入ってんのかって訊いてんだよ」


 マントルが指したテーブルは、湯気の白色に霞んでいた。サニーレタスのサラダ、クルトン入りのコンソメスープ、パセリのかかったチーズリゾット、チェーン店のものを皿に移した骨付きチキンに、クリームたっぷりのショートケーキ。何でもない日の昼食にしてはいくらなんでも豪華すぎると、鶴屋も当然気がついている。


「無論、貴殿に精がつくようにと、この腕によりをかけたまでよ」


 一方、コジロウは満足そうだ。事実、卓上の料理は八割が彼の作だった。が、マントルはにべもなく眉をひそめる。


「そりゃあ精はつくだろうけど、うちにはこんなに材料なかったろ。お前ら、金がないんじゃなかったのかよ?」


「えっ!? そ、それは貴殿の恩に報いるべく、なけなしの銭をはたいてだな」


「馬鹿じゃねぇのか。そもそも侍がリゾット作るな」


 鋭いツッコミが入り、コジロウは肩を縮める。だがマントルは、またしてもあっさりとソファーに座った。スプーンを掴む細い手を見て、鶴屋とコジロウは顔を見合わせる。


 残されし手立てはただひとつのみ。それは、「マントルの心に入り込むこと」。雇人として信頼を勝ち得て、あの青いバラをこと。


 あの後コジロウが提案したのは、そんな穏当な作戦だ。それだけに成功は遠そうだったが、鶴屋は頷くしかなかった。「まずはやはり、胃袋を掴んでやることだ」そう言うコジロウの指令通りに食材を買い、この献立はやりすぎではと忠告するも聞き入れられず、こまごまとした作業をしぶしぶ手伝って、現在に至っている。メニューはとにかく豪華だったが、これをマントルが気に入るかどうかはまた別の問題だ。


 骨のような指がスプーンを動かし、リゾットを掬う。細く伸びてから千切れたチーズが、米、ベーコン、玉ねぎと共に口の中へ消えていった。鶴屋の胸に緊張が走る。鶴屋は玉ねぎを刻んだだけだが、それでも料理への評価は気になった。


「い、いかがか」


 気の早い侍が尋ねた。マントルは特に反応を返さず、モソモソと咀嚼を続けている。神経質な雰囲気に反して緩慢な動きだ。宙ぶらりんの沈黙が舞い降り、やがて肌荒れした喉がゴクリと動くと、マントルは呟いた。


「味が薄いな」


 鶴屋は浅く溜め息をついた。正直予想はしていたが、やはり期待もあったのだ。落胆していると、隣のコジロウも声を震わせる。


「ま、不味かったか?」


「いや」


 返された声に、コジロウが目を見開く。鶴屋も驚いて眉を上げた。マントルは暗い目をしたまま、次の一口をするりとすくう。


「不味くはない」


 そして二度目の、緩慢な咀嚼が始まった。鶴屋は再び溜め息をつく。が、今度は安堵の溜め息だ。

 味は薄いが不味くはない。そういうことなら、心象を悪くしてはいないだろう。褒め言葉まではもらえなかったが、いくらか気持ちは楽になる。隣のコジロウも気が抜けたように口を開けていた。


 しかしそうしているうちに、マントルは音もなく立ち上がる。彼はスプーンをテーブルに放り、リゾットをごくりと飲み込んだ。鶴屋が「えっ」と声を上げるが、それを無視して代行屋はまたリュックを背負う。


「ごちそうさま。あとはお前らで全部食っとけ」


 そう言い捨て、マントルは真っ直ぐ玄関へ向かう。「はっ?」「あっ」「えっ?」鶴屋とコジロウは困惑のまま、遠ざかる背中とローテーブルを見比べた。背中は玄関で靴を履き始め、昼食は当然減っていかない。


 味は薄いが不味くはない、不味くはないがこれ以上は食べない、ということか? そういうこともまぁありそうな、なさそうな。思考に呑まれる鶴屋の横で、コジロウは玄関へ声を投げていた。混乱がありありと表れた響きだ。


「ま、また何ぞ手伝いが必要となれば、憚りはばかりなく申せよ!」


「ねぇよ、そんなもん」


 しかしマントルは即答する。痩せたその背中は、ふたりを振り返ることもなかった。


「お前らに頼むことなんか、何もねぇ」


 玄関の鍵が閉まる音に、鶴屋とコジロウは取り残された。マントルの真意、作戦の成果、昼食の美味さ、何ひとつ分からずただ立ち尽くすふたりだったが、とりあえず今すべきことだけは、はっきりと分かっていた。


昼餉ひるげ、食うか」


「はい」


 鶴屋の腹が、ギュルルと音を立てる。


 *


 マントルは言葉の通り、鶴屋とコジロウに全く仕事を与えなかった。ただひとつ下した指示といえば、「事務所に来るのは午前九時より後にしろ」ということだけ。言われた通り午前九時過ぎに足を運ぶと、マントルはもうデスクに向かっているか、ちょうど仕事へ出かけるところか、客の対応の真っ最中かで、鶴屋たちの出る幕はなかった。仕事の内容は特に隠されなかったが、手伝おうとすれば迷惑がられる。


 仕方がないので、ふたりは片っ端から仕事を探した。初めに手をつけたのは掃除だ。床をピカピカに磨き上げ、棚の埃を一掃し、カーペットの端のほつれを繕う。これ見よがしに染みをしつこく擦ってみたり、キュッキュッとわざと音を立てたり、「綺麗になると、なんだか気持ちがいいですね!」と出ていない汗を拭ってみたりしたが、マントルの表情は変わらなかった。


 次に試したのは身の回りの世話。マントルの寝ぐせに櫛を通し、ボタンの掛け違えを直し、肩を揉み茶を淹れてやりながら、お世辞を言うことも欠かさなかった。「まっこと櫛通りの良い髪よのう!」「こっこのシャツ、手触りがいいですね!」「ややっ、意外に筋肉があるな!」「ここの事務所のヤカンって、なんかあの、沸騰が早い気がします!」だがこれも、マントルの心にはまるで届かないようだった。抵抗もせずされるがままで、代行屋はただ以下の反応だけを返す。「ふぅん」、「へぇ」、「はぁ」、「ほぉん」。気の抜けたハ行が聞こえるたびに、鶴屋は苛立ちを堪えなければならなかった。


 そうしていくつかの仕事を試すも、どれひとつとして手応えのあるものはない。懲りずに食事も作ってみたが、二度目は箸すら手に取られず、コジロウの生活費が無為に削られただけだった。


 マントルはいつもじっと俯き、濁った瞳に自分の指先を映している。時折デスクで仕事をしては何らかのミスをし、苦笑していたが、それ以上の感情は見せなかった。心に入り込むどころか、彼の人格に迫ることすら困難な状況。鶴屋とコジロウは、ただひたすらに苦しめられた。


 しかしそんな中、鶴屋はたった一度だけ、彼の人柄を垣間見ることに成功していた。


 *


 事務所に通い始めた三日目。掃除に勤しむ鶴屋のポケットで、スマートフォンが大きく鳴った。バイブレーションにしていたつもりが、失敗していたらしい。「す、すみません」と慌てて謝罪しスマートフォンを取り出すと、一通のメールが届いていた。その差出人名を見て、鶴屋は息を呑む。


 隕石が落ちた日に面接を受けた企業から、試験結果の連絡が来ていた。ゆっくりと二度瞬きして、呑み込んだ息を細く吐き出す。


 あの面接の内容だ、合格であるはずはなかった。にもかかわらず肩は強張ってしまうのだから、就活というのはつくづく疲れる。どくどくと無意味な心音を聞きつつ、鶴屋はメールを開封した。


 だが当然、不採用だ。「鶴屋様の今後一層のご活躍をお祈り申し上げます」と、ゴシック体は淡白に言う。これだけ祈られまくっていたら、俺の名前は神々に知れ渡っているだろうな。そう思いついて笑おうとしたが、そういえば自分は神に見放されているのだった。笑うことすらできなくなり、鶴屋は深い溜め息をつく。と、


「人の事務所で溜め息ついてんじゃねぇよ」

 

 不機嫌な声が飛んできた。鶴屋は慌てて振り返る。部屋の隅にあるデスクから、マントルがジロリと鶴屋を見ていた。じっとりとした陰気な視線に、二の腕が冷える。


「もっ、申し訳ありません。あの、ちょっと、メールがきてて」


 とっさに言い訳を口にしてから、しまった、と後悔が噴き出す。気に入られたい相手に対して、言い訳は一番のご法度だ。背中が冷や汗に濡れる。コジロウが買い出しに出ていることが悔やまれた。あの侍なら、とっさにフォローをしてくれたかもしれない。いや、してくれなかったかもしれないが。


 なす術もなく目を泳がせる鶴屋の手元に、マントルはチラリと視線を移した。明かりの消えたスマートフォンのを見て眉を寄せる。鶴屋がその意図を読めずにいると、代行屋はまた不機嫌に口を開いた。


「就活か?」


 ぴたりと言い当てられ、鶴屋は悔しくなった。不採用通知を受けとったことなど、他人に知られたくはない。だがここでプライドを守ったところで、相手の心象を悪くするだけだ。なるべく感情を殺しつつ、答える。


「はい」


「だろうな」


 マントルはふっと鼻で笑った。鶴屋は無意識に歯を噛みしめる。一斉に頭へ上ろうとする血を、深呼吸して必死に抑えた。今は、怒りを見せるわけにはいかない。はは、と無理やり口角を上げると、マントルはくるりと背を向けた。愛想笑いを無視するな。激しい屈辱に震えているうちに、呟くような声が続く。


「まぁ、溜め息つける間が華だな」


 その抑揚は平坦で、ひどく空っぽだった。小さな背中の空虚さに、鶴屋は怒りを阻害される。なんとなく毒気を抜かれた気分で、口を開いた。怒りの余韻が残っているせいか、比較的するりと声を出せる。


「溜め息、つけなくなるんですか。いつか」


「つけなくなるよ」


 即答して、マントルはもう一度ふっと笑った。空っぽの後ろ姿から、力が抜けるのが分かる。


「だからせいぜい、つけなくなる前に何とかしとけ」


 そう言ったきり、マントルは黙った。鶴屋の怒りはすっかり消える。かけられた言葉が挑発なのか、応援なのか、いまひとつ判断がつけられない。しかしそれでも、マントルの人柄を少し覗いたような気はした。


 人の寝室にうっかり踏み入ってしまったようで、どことなく落ち着かなくもなる。それを誤魔化すフリをして、スマートフォンの通知を切った。


 *


 だが、鶴屋が迫れたのもここまでだ。そこから先にはどう努力しても踏み込めず、鶴屋とコジロウはもはやお手上げ状態だった。これは自分たちの力不足か、それともマントルの心がむやみに堅牢すぎるのか。どちらにしてももはや希望は絶たれたかと思われた勤務五日目、憔悴するふたりの前に、ついにチャンスが顔を出した。


 ゴト。重く硬質な音を伴い、ローテーブルに拳銃が置かれる。


「明日の朝六時四十五分、俺が指定するビルまで行って。で、一階の窓に穴、開けてあるからさ。そこから二発、撃ち込んでほしいんだけど」


 ソファーに浅く腰かけた、パーカーにジーンズの男が言う。男は鶴屋とそう変わらない歳に見えたが、大学の同級生たちにはない鋭利な雰囲気を纏っていた。


 鶴屋は生唾を飲む。本物の拳銃を目にしたのは、生まれて初めてのことだった。来客だからと追いやられた台所から覗くだけでも、金属の冷たさが伝わってくる。すぐ背後から首を伸ばしているコジロウも、かすかな音を立てて息を呑んでいた。


「なるほど……なるほど」


 パーカー男の向かい側で、マントルはそう繰り返した。鶴屋たちが初めて訪ねたときと同じ、不器用な営業スマイルだ。接客中の彼はいつでもこの笑みを浮かべていたが、今回は特に不自然だった。細められた目の上で、眉が左右非対称の山を描いている。


 マントルの事務所で四日間過ごし、鶴屋にもなんとなくマントルの仕事内容が掴めてきていた。来客時に頻出する言葉は三つ。「受け渡し」、「後処理」、「教える計画通りに動け」。それらの仕事は、相手方に直接顔を見せる業務であったり、ともすれば犯罪を発見されかねない業務であったり……有り体に言えば、リターンのないちょっとしたリスクを伴うものばかりだった。


 要するに代行屋とは、「面倒な仕事引き受け係」なのだ。裏路地事情に疎い鶴屋でも、それがいかに損な役回りかは察することができた。


「簡単な仕事でしょ? 報酬はちゃんとした金額出すし、やってくれるよね」


 だが、いくら損な生業といえど、銃まで出てくるのは鶴屋の知る限り初めてのことだ。実際珍しい依頼なのか、マントルの額も汗でテラテラと光っている。


「えぇ、えぇもちろん、撃つだけでしたら喜んでお受けいたします。ただそのぅ、申し訳ありませんが、もう少し詳細な内容を教えていただいても?」


 へりくだる声はわずかに震えていた。彼の緊張が空気を伝い、鶴屋の肌をぬるりと撫でる。しかしパーカーの男はまるで気にする素振りも見せず、威圧的な仕草で足を開いた。


「詳細って?」


「はい、あの……たとえば、その穴はどういった部屋に繋がっているのでしょうか」


「そんなの言う必要ある? あんたは何も気にしないで、ただ撃ち込んでくれればいいの」


 いやぁ、と言葉に詰まりながら、マントルが頭を掻く。鶴屋の背後で、コジロウもウームと低く唸った。振り返ってみると、侍は忌々しげに唇を曲げている。


「まずいぞ、これは」


「まずい、ですか」


 問いを返すと、まずい、と苦い声で繰り返される。そこには、コジロウ自身が追い詰められているかのような焦りが見えた。


「殺しなど、銭を積まれてすれば最後よ」


 ころし、という三音に、鶴屋のこめかみが縮まった。具体的な単語を聞いてようやく、事の重大さを実感できる。


 今マントルは、殺し、の依頼を受けているのか。うっすらと感じていた緊迫が、輪郭を結んで鶴屋の喉を詰まらせた。ローテーブルに視線を戻す。現実味のない恐怖の中でも、拳銃は確かに、鶴屋の瞳に映っている。ドクン、ドクン、心音の奥から会話が聞こえる。



「そうおっしゃいましても、申し訳ございませんがうちは、殺しの依頼は」


「殺しなんて一言も言ってないじゃん。殺さなくていいよ、銃を撃つだけ」


「でしたら、その確証が得られないことには」


「確証? 待ってよ、あんたに仕事頼むときって、そんなお堅い感じなんだっけ? いいじゃん今更、守る面子もないんだから」


「しかし、さすがにこればっかりは……」


「あのさぁ」


 ガタン、と乱暴な音に、鶴屋の肩が跳ねる。止まった呼吸を取り戻してようやく、ローテーブルに男の足が載せられたと気づいた。拳銃の横で組まれた足が、腹立たしげに揺れている。その天板は二日前に鶴屋が磨き上げたものだったが、恐怖が怒りを上回った。パーカーの男はさきほどまでと変わらない態度で、纏う雰囲気をさらに尖らせる。


 冷えきった空気が鶴屋の肺を打つ。ざらりと濁った感触の声が、爪先から耳へ、這い上がってくる。


「あんた、人様に文句言える人間じゃないから、こんな仕事してるんじゃないの?」


 そのとき一瞬、マントルの目から笑みが消えるのを、鶴屋は見た。だがその次の一瞬にはもう、卑屈な営業スマイルが戻ってきている。「それは、ごもっともで」ははは、と続く笑い声は上擦っていて、それでも普段とそう大きくは変わらなかった。客の話を聞いているとき、鶴屋たちのお世辞に相槌を打つとき、そのどちらかの声色しか、鶴屋は聞いたことがない。


「行くぞ、ツルヤ」


 と、背後から突然促された。ハッとして再び振り向くと、コジロウはいやに決意の籠った表情をしている。その眼差しの鋭さに、鶴屋はついていけなかった。


「行くって、どこに」


「決まっておろう、マントルの奴を助けに行くのだ」


 緊張の色濃く表れた顔で、コジロウは言う。嫌な予感が湧き上がり、鶴屋は肩を縮めた。「助けるって、どうやってですか」向こうには拳銃があるのだ。こちらに勝算はこれっぽっちもない。しかし侍は鼻息荒く、「どうやってでもだ!」と言ってのけた。


「ここで恩を売れば、青いバラの一本や二本、あやつは喜んで譲るに相違あるまい。さらにあの心悪しき男も斬れるとなれば、これぞ一石二鳥というべきものよ」


「き、斬れるってコジロウさん、本気で言ってるんですか? あの人、銃を……」



「ええいやかましい! 男も鉄砲も皆まとめて、この名刀の錆にしてくれる!」


 怒鳴るや否や鶴屋の肩を押し退けて、コジロウは台所を飛び出していく。名刀って、文字通りの物干し竿だろうが! 鶴屋はとっさに叫びかけたが、声が出ずぱくぱくと口を動かすに留まった。ぞわぞわとした焦りが全身をくすぐる。


 マントルと同じく裏路地の底辺をさまよう者として、侍も怒りを覚えたのだろう。それは鶴屋にも理解できたが、だからといって考えなしに突撃するのは愚かすぎる。「たのもー!」と叫ぶ声を聞き、鶴屋は台所の隅へと逃げた。バクバクと震える胸を押さえ、コジロウの背を覗き込む。侍は半端に背筋を伸ばすと、束ねた長髪をひと揺らしして大音声の名乗りを上げた。


「やぁやぁ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは日の本最後のまことの侍、名をコジロウと申す者ぞ! この身に宿るもののふの誇りに従いて、そこな無道なる者の征伐に参った!」


 コジロウ、マントル、パーカーの男。三者の間に漂う空気が、ガチ、と固まるのが分かった。征伐なんかできるわけないだろ、ここに「遠からん者」はいないだろ、鶴屋の脳裏には言いたいことが溢れてくるが、声を出すことは許されない。響き渡る銃声、倒れるコジロウ、逃げ場を失う自分自身……最悪の想像が瞬時に展開されていき、奥歯がギリギリと削れていく。


「はぁ? 何、あんた」


 パーカーの男がコジロウを睨む。侍を前にしても動揺しないその姿に、鶴屋の絶望は深まった。絶対勝てない、意地を張らずに早く引っ込め、いや俺のほうには引っ込まないで、どこか遠くに引っ込んでくれ。念を送ってみるものの、コジロウには届かない。


「何、とは無礼な! 今しがた、『侍』と申したであろう!」


「その意味が分かんないから訊いてんだけど」


「御託はよい! いざ、尋常に勝ーッ負!」


 正論を無理やり叩き落して、コジロウは帯から名刀を引き抜く。大袈裟な動きで振りかぶり、座ったままの男に向けて振り下ろした。


 しかし、男は打たれる寸前で上体をひねる。「ぬぅっ!」体勢を立て直すべくコジロウが一歩下がる間に、男がテーブルから足を下ろした。物干し竿の突きをかわして立ち上がり、侍に歩み寄る。


「小癪な!」コジロウは再び竿を振り上げたが、その手首に伸ばされた指が、それ以上の攻撃を許さなかった。細い手首に、若い指先が深く食い込む。


「だから、何なんだよ、あんたは」


 幼い子供を諭すように、男は低く繰り返す。なぁ、とダメ押しのように続く声が、コジロウの頬を青ざめさせる。


「え、なんかさ、噂と全然違うんだけど。代行屋のマントルってさぁ、やっすい金で何でも押しつけられてくれるんじゃなかった? こんな変な用心棒置いて、何したいの。自分の商売分かってないの」


 クレームの直後、侍の腹にジーンズの膝が刺さった。声にならない声で呻き、コジロウがその場にくずおれる。名刀がフローリングに落ちる音は、カタン、とひどく軽かった。


 鶴屋の全身が冷え、しかし眼球だけが熱くなり、乾いた瞳に涙がしみる。体の芯が、音を立てて震えていた。感じるのは恐怖だけではない。小さな虫食い穴のように安っぽい、それでいて確かな絶望が、鶴屋の肌を刺していた。


「申し訳ございません」

 

 部屋の奥から、細い謝罪が聞こえてくる。いつの間にか、マントルが立ち上がっていた。彼のその表情に、鶴屋の涙が引いていく。


「ご依頼、喜んでお受けいたします」


 恐怖も、悲しみも、絶望も、何もかも、マントルの目には宿っていなかった。


 コジロウの咳が、部屋の静寂を虚しく叩く。台所に白い埃が舞って、鶴屋の目の前でチラリと光った。

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