第6話 人類はマントルを見たことがない

 ピンポーン。気の抜けた音が廊下に響く。侍の細い人差し指が、呼び鈴からすっと離された。その横で、鶴屋は深呼吸を試みる。が、すぅ、と息を吸い込んだ途端、カビ臭い空気に喉を焼かれた。ゴホゴホと噎せる頭上では、大きなクモの巣が風に揺れている。


 表通りの明るさから一転、裏路地の深層は暗い灰色に沈んでいる。青いバラを持ち去った男「マントル」の事務所は、その灰色の中の雑居ビルに入っていた。伝手を持たないコジロウも、その情報は知っていたらしい。脇目も振らず進む侍に、鶴屋は黙ってついていくしかなかった。マントル、という妙な通称の由来も、訊けずじまいだ。


 一秒、二秒、呼び鈴が鳴ってからの短い間に、緊張が高まっていく。青いバラ奪取のため、コジロウとは簡単に作戦を立ててきた。だが鶴屋は、人から何かを奪えたことなど人生の中で一度もない。果たして上手くできるのか、仮に上手くできたとしても、罪悪感をやり過ごせるのか。硬くなる背筋の痛みに耐える。


 と、ガチャ、と鍵の開く音がした。鶴屋の気管が弱々しく鳴り、コジロウの咳払いが続く。ふたりの緊張がピンと頂点に近づいたところで、錆びた扉が軋んで開いた。


「はぁい、毎度ありがとうございます」


 卑屈な笑顔で現れたのは間違いなく、あの隙間に現れた男だった。背が低く痩せた体格に、濃いクマのある淀んだ目。真っ黒な髪は乾燥していて、生活への疲労が滲み出ていた。青いバラにはおよそ似つかわしくない容姿だ、と鶴屋は思ったが、それは鶴屋たちも同じだった。


「あ、じゃあ、どうぞどうぞ、中へ」


 マントルは上擦った声で促す。不自然に腰の低い態度に、鶴屋はたじろいだ。見た目だけで推測するなら、マントルは三十代半ばといったところだろう。一回りほども年上の人物にこうも下手に出られると、取るべき態度が分からなくなる。


 困惑のまま室内へ上がり、短い廊下を進む。その先では、哀愁溢れる部屋が鶴屋を待っていた。ザラザラと曇ったフローリング、染みの浮いた壁紙に破れかけたカーペット、狭く錆びついた台所、すべてが過剰に哀れっぽい。


 そんな事務所の中央に置かれたソファーを勧められ、鶴屋とコジロウは並んで腰かけた。敷かれた薄いクッションを越え、バネの感触が尻に伝わる。薄い紅茶の注がれたカップが、ローテーブルに並べられた。鶴屋は目だけで部屋を見回し、漠然とした不安を覚える。


「それで、本日は何のご依頼で?」


 向かい側の、さらに煤けたソファーにマントルが座る。ぎこちない笑顔で前のめりになる代行屋に、コジロウは重々しく口を開いた。


「うむ。此度はおぬしに、どうしても頼みたきことがあり参った次第だ」


 コジロウに目配せされ、鶴屋はハッとする。作戦内容を思い出しながら頷くと、侍の視線は正面に戻った。マントルは笑みを保ったまま、眉だけを怪訝そうに寄せる。わずかに張りつめる場の雰囲気に、鶴屋の肩は上がった。


 掠れた音をさせ、侍が空気を吸い込む。そして酸素を閉じ込めるように唇を噛むと、彼は両膝に手を突き、深く、深く頭を下げた。


「マントル。それがしらを、貴殿の下で雇うてはくれぬか」


「……は?」


 間を置いて、マントルの笑顔が引き攣った。元から不自然だった笑顔がさらに無理のある形に歪み、怒っているような泣きそうなような、不気味な表情に変わる。鶴屋の背筋は瞬時に冷えた。


 しかし、コジロウはなおも言葉を続ける。頭を下げたままの彼には、マントルの顔も見えていないのだ。


「それがしはコジロウ、こやつはツルヤと申す者だ。世間を襲う荒波の中、我らも必死に生き延びてきたが、もはや限界が近づいておる。近頃は食うにも事欠く始末ゆえ……ほんのわずかな給金で構わぬ。おぬしの仕事を手伝わせてくれ」


 予定通りの台詞が終わり、コジロウの顔が上がる。不安を帯びたその表情と、目の前に座るマントルの様子を鶴屋は見比べた。


 まずは哀れなふたりを装い、マントルの元へ潜り込む。そうしてバラを回収し、そのまま事務所を後にする……というのが今回立てた作戦だが、果たして上手くいくのだろうか。


 対面の顔と事務所の雰囲気に気圧されて、恐怖がじわじわと増してくる。それでも鶴屋は縮こまって俯き、哀れな若者を演じようとした。


 だが直後、ドサッと横柄な音が聞こえる。続いて、はぁ、と長い溜め息。最悪の予感に目を上げると、背もたれにだらりと体を預ける、豹変したマントルの姿が見えた。


「お前、『侍』だろ。知ってるぞ」


 発された声は、さきほどまでとは打って変わって低かった。ひび割れた唇は左右非対称に歪み、もはや笑顔の「え」の字もない。暗い瞳に睨まれて、コジロウが肩を跳ねさせる。


「俺とおんなじ、こっちの世界の雑用係だ。俺は少しは名が知られてるからか、お前のナリを面白がってか、そっちに客が流れることもたまにあった。そんな商売敵の面倒を、どうして俺が見なきゃならねぇ?」


 気だるげな主張に、コジロウはきゅっと首を竦める。鶴屋はそれを眺めることしかできなかった。マントルの口調は投げやりで、客に対する態度との差にはある種の凄味がある。


「そもそも、そっちのスーツは何なんだ。どこぞのグループの下っ端か? 得体の知れねぇ野郎を送り込んで、俺のとこから情報を盗み取ろうってハラじゃ……」


「い、否!」


 どこか嘆くようなマントルの声を、侍が勢いよく遮った。その頬を滑り落ちる冷や汗を、鶴屋は確かに見る。否定するしかない局面だが、否定したところでどうなるというのか。黙ってヒヤヒヤしていると、横から両肩を掴まれた。思わず出かけた「は?」をも遮り、侍は切羽詰まった笑顔でまくし立てる。


「こ、こやつは左様な、胡乱うろんなヤカラでは決してない! マントルおぬしも、昨日の隕石は知っておろう? こやつはな、あの石に潰された長屋に住んでおったのだ! それゆえ今では行くところもなく、就職活動もおぼつかず、かくて全くの不幸者となってしもうた。頼む、この者だけでもここに置いてやってはくれぬか。給金はなくとも、昼飯に米を三粒分けてやるだけでもよいのだ。のうマントルよ、う、裏路地の住人といえどおぬしも人の子。かようにいたわしき若人を見捨てることなどできまいな? なぁ!」


 今度こそ「は?」と出かけた声を、鶴屋はすんでのところで堪える。


 この侍、まさか俺だけをここに置いていくつもりか? 昼飯が本当に米三粒にされてしまったら、一体どうしてくれるのだ? そのうえ就活のおぼつかなさまで指摘され、鶴屋は視線で抗議する。


 が、コジロウも瞳だけで訴えてきた。こうするしかないのだ、と告げる両目に、鶴屋は何も言えなくなる。どのみち、聞かれてしまった情報は戻らない。恐怖と怒りに震える拳を、膝の上で握った。なんで自分がこんな目に、と、脳内に自分の絶叫が響く。


 そうして黙り込むふたりの前で、マントルもやはり黙っている。冷たい沈黙に全身を撫でられ、鶴屋の恐怖はさらに増した。拳を何度も握り直しつつ、一分、二分、あるいはそれよりももっと短い時間を消費する。それでもどうしても耐えられなくなり、背骨の中心がガタガタと震え始めたとき、答えが出された。


「分かったよ」


 開いた膝に肘を突き、マントルは言う。そうしてひどく億劫そうに、わしゃわしゃと頭を掻いた。


「分かった。もうお前らの好きにしろ。ひとりでもふたりでも置いてやる」


 給金は出してやらねぇけどな。そう続けるマントルに、コジロウはワッと表情を明るくした。「まっことかたじけない! 心より礼を言うぞ!」はしゃぐ侍の隣で、鶴屋は拍子抜けする。


 マントルは、心底面倒くさくなったという様子だ。しかし、それにしてもあっさりしすぎているように思えた。情報を盗まれる危険性にまで気づいていながら、なぜあの程度で「好きにしろ」と言えるのか。違和感に駆られる鶴屋の前で、マントルはぽつりと言葉をこぼす。


「どうせ、俺の家だしな」


 その意味までは掴めなかった。だがその呟きには、病的なまでに深い諦念が見え隠れしていた。ささくれのような不安感が、鶴屋の心をなぞっていく。


 その間に、マントルはゆらりと立ち上がる。そのまま部屋の隅のデスクに寄り、脇に掛けられたリュックを背負った。その様子をただ目で追う鶴屋に、疲れた顔が振り返る。


「じゃあ、俺は仕事に出てくる。部屋のもの、ベタベタ触るなよ」


「は、はい」「相分かった!」


 ふたりの返事を聞き届けると、マントルは再び歩き出した。鍵の開く音と扉の開く音、扉の閉まる音と鍵の閉まる音がして、事務所にふっと静寂が降りる。最初にコジロウが鶴屋を見、次に鶴屋がコジロウを見、ふたりは顔を見合わせた。


「やっ……たな!」


「です、ね」


「いやぁ、一時はどうなることかと思うたが、存外上手くいくものよなぁ!」


 高笑いするコジロウに、鶴屋は苦笑いを返す。言いたいことは様々あったが、それを口にする体力はなかった。

 何はともあれ、計画は確実に前進したのだ。文句を言っている暇があるなら、一刻も早くバラを回収しなくては。


 青いバラさえ手に入れられれば、この事務所から逃げ出せる。内定に一歩近づける。鶴屋は無理やり心を奮い立たせ、黙ってコジロウと頷き合った。そしてふたりは、すぐにミッションに取りかかる。あの青いバラを見つけ出し、盗み出すのだ。


 一見したところ、部屋にバラは見当たらなかった。おそらくは、貴重なものとしてどこかに隠してあるのだろう。ふたりはそう見て、本格的な捜索を始める。鶴屋は東側、コジロウは西側と部屋を二分して、それぞれの持ち場を漁っていった。棚の中から家具の隙間、テレビの裏側に流しの下、床を軋ませ、埃を被り、朽ちた引き出しにヒヤヒヤしながら、ありとあらゆる暗がりを覗く。


 しかし部屋にはこげ茶と灰色とくすんだ白が広がるばかりで、青いバラなど影も形も見えなかった。隕石を取り出してみても、再び光ることはない。探せる場所をあらかた探し、鶴屋は大いに焦りながらも手持ち無沙汰になってくる。


 ソファーの下から顔を上げると、部屋はすっかり散らかっていた。今の状況を客観視して、ふいに違和感が強まる。


「やっぱり、変じゃないですか?」


 ほんの少しだけ躊躇してから、疑念を口に出してみる。床を這っていたコジロウが、「む?」と視線を寄越した。


「マントル……さん、あの人、ちょっと不用心すぎる気がして。商売敵だって言う割にあっさり事務所に置いてくれるし、いきなり俺たちふたりを残して、仕事に出ちゃうし」


 現にそのせいで、こうして部屋を荒らされているのだ。マントルの警戒心の薄さは、鶴屋には信じがたいものだった。コジロウはフム、と天井を仰ぎ、体を起こしてあぐらをかく。


「言われてみれば、そうよな」


「ですよね? な、なんか、大丈夫なのかな。実は盗聴器とかカメラとかで、そういう対策してあって……みたいなこと、ありませんか?」


「いや、それはおそらくなかろう」


 返された否定の素早さに、鶴屋は驚く。否定してほしいとは思っていたが、こうも淡白だとかえって不安になってくる。「なんでですか?」と半ば咎めるように訊くと、コジロウは躊躇うような間を空けて答えた。


「命にかかわるからだ」


 侍の声に抑揚はなく、天井から下ろされた顔には、恐怖も悲しみも見えなかった。何の感情も伴わない、ただそこにある事実に向き合う表情だ。


 鶴屋はガツンと、頭を殴られる心地がした。命にかかわる、という言葉がここまで平坦に発されるのを、これまで聞いたことはなかった。


「それがしやマントルのような者に、仕事を選んでおる余裕はない。それゆえに、さまざまな客を迎え取るのだ。すると多くの者の情報が、嫌でも耳に入ってくる。そのうえ、いがみ合うておる二者のどちらもに手を貸すことなどザラにあるゆえな。さような場に盗聴器など仕掛け、ウッカリ見つけ出されてみよ。たとえ命は取られずとも、それまで通りに生きていくことは二度とあたわぬであろうよ」


 コジロウは、企業説明会の人事よりずっと自然な口調で続けた。脅すことも、反応を煽ることもなく、淡々と声を連ねていく。その滑らかさが鶴屋の恐怖を煽った。


 殺されなくても、それまで通りではいられなくなる。そんな事象を平然と語れてしまう世界に、この侍は生きているのだ。


「コジロウさん、は」信じられない思いのまま、問う。「どんなお仕事、してるんですか」


 瞬間、部屋の空気が凍った。コジロウの目が鶴屋を見、袴の膝に落ち、数度瞬く。しまった、と鶴屋は後悔した。こちらの恐怖が伝わってしまったか。やっぱりいいです、と撤回するべく口を開くが、あと一歩のところで間に合わなかった。


「車の手配、取引現場の人避け、『商品』の梱包や……部屋の、清掃」


 声を出しかけた喉が締まる。並べられた業務内容はどれも、ひっそりとした不穏さを孕んでいた。陰気ながらも善良に生きてきた鶴屋にとっては、めまいがするような響きばかりだ。質問をしておきながら、相槌ひとつ打てなくなる。


「と、とにもかくにも、マントルには用心せねばなるまいな。盗聴器のたぐいがなくとも、あやつが怪しいことに違いはあるまい」


 固着した会話を、コジロウが無理にまとめた。鶴屋も現実に戻る。「あ、は、はい」情けなく返事をすると、コジロウはあぐらから片膝を立てた。傍らに置かれた背の高い棚に手を突いて、「よっ、こら」と大袈裟に立ち上がろうとする。そうして棚に力がかけられたそのとき、異変は起こった。


 棚がずるりと、真横に滑ったのだ。


「ぬおっ!?」


 支えを失い、コジロウが派手に尻餅をつく。イテテテテ……という泣きそうな声を聞きながらも、鶴屋は侍を心配できなかった。


 棚の裏から現れたものに、両目と意識を奪われていたからだ。


「おいおぬし! かようなときには直ちに『大丈夫ですか!?』と駆け寄るのが定石であろう……が……」


 怒鳴るコジロウの勢いも、顔を上げると同時に萎んだ。揃って口を半開きにし、ふたりは「それ」をじっと見つめる。


「扉だ」


「です、よね」


 そこには、白い扉があった。

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