寡黙な老爺の話

パンテオニウムには美しい神獣が棲んでいる。


その角は"歴史"をかてに光り輝き、あまねく人々を照らす。

数多の世界が闇に沈み幾多の命が夜へと還る中、唯一その国だけが神獣の加護を受けて形を保っていた。


神獣の眼は人を魅了する魔眼。

直視すればたちどころに魅入られる。

最期に神獣を人間の顔は、幸福そうか不幸そうかの2つに分けられるという。






神獣の巣へ至る手前の控室で、男はペンを片手に言った。


「では、貴方の"歴史"をお聞かせ下さい。無論、のこしたくない事柄については任意ですので構いません」


男の目の前に座る老爺ろうやは、年老いてもなお精悍な顔に僅かな緊張を湛えていた。その瞳が、巣の中を一望できる窓にチラリと向けられる。

男もつられて目をやれば、そこには天井を見上げて座り込む神獣の姿があった。


白く、美しく輝く姿。

短くなり始めたが、それでも美しく伸びる角。


その姿を眺めながら漏れた老爺のため息は、今から消えるという絶望ではなく感嘆を孕んでいた。


「あれが、神獣」

「ええ。にえになる方と、お世話をさせて頂いている我々しか見ることが叶わないお姿です。美しいお方でしょう?」

「とても」


暫く窓から神獣を眺めた後、老爺はおもむろに口を開いた。


「あの方の姿を、ずっと思い描いていました」


曰く、老爺は彫刻を生業としていた。






老爺の父は寡黙な男だった。そして、父の背中を見て育った少年の頃の彼もまた、寡黙だった。母はそんな彼と父を愛おしそうに眺めるだけで、決して言葉を無理に求めることはなかった。

家の中は優しい静けさに溢れていたことが多かったように思う。


少年の村では、彫り物を生業なりわいにする者が多かった。昔からの伝統などではなく、わりと最近にできた風習だった。

彼が親から聞いたところによれば、昔はこの近くに教会があり、戦時中も人々の心の拠り所として成り立っていたそうだ。


いくら戦時とはいえ、子供と神職者しかいない教会に手を出すような者は、敵にも味方にもいなかったという。


その不文律が破られたのは、争いが激化して暫くのことだった。


"魔女"が、子どもを媒介に疫病を広めようとしたのだ。


魔女とは、誰が言い出したのかはわからない。しかし、疫病の巣窟になった教会内で、唯一その魔女だけが元気な姿をしていたという。支援のための物資を届けに行った何人もが、その姿を目撃していた。

苦しむ子どもらの中で、ただ1人だけピンピンとした姿で動き回る様子はとても不気味に見えたそうだ。

その魔女を如何せんと、補給物資の中に毒を混ぜ込んだ事もあるらしい。だが失われたのは疫病に罹った子どもらの命だけで、魔女自体は全く毒の影響を受けているように見えなかった。


村の者たちは悩みに悩み抜いた。その結果、敵と争いを止めることを約束した。疫病を広げるような魔女が居るのに、人間同士で争っている暇はなかった。

彼らは結託し、背信行為だとは理解しつつも教会に火を放った。


疫病を焼き尽くすため。

そして、魔女が教会に住み着くという更なる背信を正すため。


教会の火が消え、魔女を見ることがなくなっても、争っていた両陣営は和解を保ったままだった。

争っていては、いつまた不和を嗅ぎ取った魔女が現れないとも限らない。争いで傷つく者が多ければ、また疫病を広められるかもしれない。


かくて、魔女は姿を消し、村は平和を取り戻し、領地を求めていた相手は村に住み着いた。

争いで失われたお互いの命は、ちょうど半分ずつだったのだ。


やむを得ぬ状況があったといえ、神を敬う場に火を放った彼ら。

赦しを乞うために、1人の男が神像を彫った。

そしてそれに1人、2人と続き、やがて村の者の大半が神像や彫刻を生み出すわざを学んだ。それこそが始まりだという。




───魔女などという眉唾物の存在を素直に信じている少年ではなかった。

しかし、彼らの祖父が彫った神像が村の生業のルーツになっていることは間違いなかった。



「父さん、これ」

「ああ……お前は手先が本当に器用だ」


だから、少年は彫刻師であることを誇りに思っていた。

父よりも手先が器用なことを活かし、様々なものを彫った。

神像だけでなくロザリオの十字架や、ただの置物も。家具のレリーフも。ボタンへ彫刻を施したこともあった。祖父は指輪や耳飾りなどの装飾品も手掛けていたというので、極めればさらに細かなものまで彫れるだろう。


少年が15に満たない頃、村はとうとう闇に沈んでしまった。


ひと足先に父が異変に気付いた。

母と少年を逃したことで彼らは難を免れたが、父はそのまま闇に沈んで帰らぬ人となってしまった。


「弱い母でごめんなさい」


母はあまりのショックに倒れた。


「貴方を孤独にしたいわけではないの。でも、どうしてもあの人の最期が忘れられないの」


結局、数ヶ月後には心労が祟って父の後を追うように亡くなった。

少年は独りぼっちになった。


少年は逃げた先の町にある養護院へ入ることになった。

周りは戦災孤児で幼い子どもらばかりだったが、まだ庇護が必要と判断された少年に周りの大人は優しかった。

親を失った心の傷が無くなることはなかったが、それでも日々を過ごす事で確実に癒されていった。


なにか自分にも出来る事をしたい。


少年がそう思い始めたのは当然の流れだった。

彼は不要な材木や石材を貰ってきては、それを彫った。見事な腕で施された細工は大人達を唸らせた。一度ひとたび、腕前を見せられては彼がやる事に口出しする者は居ない。

少年は村にいたときのように様々なものを作り出しては、それを売ることで養護院に貢献をしていた。


彫っているときには無我になれたことも、彼自身には良い影響だったのだ。


少年のことは町中に広まり、彼が青年になる頃には最早その名を知らぬものは居ないほどだった。

家の柱、扉、机に椅子。

細かな装飾品、燭台や置物。

町の至る所で彼の作品を見る事ができた。


青年が自ら生計を営めるようになり、養護院を去ろうかという頃。

彼の元へ1人の女が訪ねてきた。


「ここに、とても美しい彫り物をする方がいると聞きました」


それは、美しい女だった。

青年が思わず目を奪われて動けなくなったほどだった。


言葉に詰まりながら自らを紹介する青年に向かって、女はたおやかに一礼し、微笑む。


「貴方のおかげで、ここの財政は以前にも増して良くなったと伺いました。お礼が言いたかったのです」


彼女は、養護院設立者の次女だった。後継の長男が暫く出ているため、青年が去る前に礼を言いに来たらしい。

女の一挙手一投足に目を奪われているうちに、彼女との会話は終わっていた。何を話したか覚えていないほど、彼女の事ばかりを見ていた。


「では、今後とも貴方のご活躍を願って───」

「あ、の!」


無我夢中。

青年は自分でも思考の追いつかぬままに女を引き止めた。そして、そのまま捲し立てるように彼女の美しさを褒め称え、恋に落ちた事を伝えた。

残念な事に、寡黙な彼は多くの語彙を持たなかった。しかし、それが返って女の心に強く響いたのだろう。

彼女は最終的に頬を赤らめて、俯いた。


「お友達から、始めましょう……?」


彼は、天にも昇る気持ちだった。


青年と女は、相性が良かった。

彼女は彼のミューズだった。彼女を想って彫れば、今までの何倍も美しく荘厳で繊細な物を生み出す事が出来た。


彼女にとっても、彼はとても良い相手だったのだろう。いつぞや女は言った。


「言葉なんて、上辺はどれだけでも取り繕えるのです。愛しているという言葉もそう」


悲しそうに言った女は、青年を振り返ると表情を柔らかくしてにこり、と笑う。


「……でも貴方の作品からは、とても愛を感じられるの。貴方から贈られる言葉は少ないけれど、これだけの物を作るのに込めた想いを疑うことなんて出来ないわ」


青年は彼女の境遇や経験を問う事はしなかった。代わりに、万感の思いを込めて抱きしめた。

そして2人は夫婦となった。




妻は子を望まなかった。

成長し、父親そっくりになった男はそれを是とした。家族に憧れはあったが、まだ見ぬ子よりも妻のことを愛していたからだ。


妻と2人、小さな家で慎ましく暮らした。

寡黙な男のことを好む反面、彼女は文字を書く事が好きだった。日常を綴ったり、唄を書いたり、沢山の言葉を書いて生み出した。

それは決して美しいだけの言葉ではなかったが、男はその心中を垣間見れる彼女の作品を愛していた。





ある日。

買い物から帰って来た妻は、悪戯めいた笑顔を浮かべながら彼に箱を渡した。


「開けてみて」


怪訝な顔をして男が箱を開くと───そこには、見たこともない材質の物が入っていた。


「市場で売っていたのだけれど、誰も何の角かはわからなかったの。何に使えるのかもわからないから残っていたらしくて……貴方なら、とても素敵な物が作れると思って」


それは、だった。

鹿の角のようにも見えるが僅かに輝きを帯びており、なによりも純白だ。野生の動物でこの白さの角を持つものなど、見たこともない。

節もなければ、すでに磨かれた象牙のように滑らかだった。


妻に見惚れた日のように、思わず目を奪われる。


「どうかしら?」

「素晴らしい、素材だ……」

「気に入ってもらえたならよかった。あなた、初めての素材を触るときは、とてもワクワクした顔をしているもの。もうすぐ誕生日でしょう?」


妻が悪戯めいた顔をしていたのは、そういうことだったのか。

男は呆れたように笑い、角から視線を引き剥がすと妻を抱き寄せた。彼女はくすぐったそうに身を捩って、男の腕の中でくすくすと笑みをこぼす。


「あまり太さもないから、大きなものは作れないでしょうけど……何かに使えるかしら?」

「考えてみよう」


男は箱の中身へ再び目を向けた。

手を加えるのすら勿体無いように思えるが、それでは妻の好意を無碍むげにしてしまう。だが、像を作るには確かに細く、装飾品を作るのが無難だろうがデザインが降りてこない。


妻を抱きしめながら、ふと男は自分の胸元に添えられた彼女の指を見た。

ほっそりとして白く、美しい指。

その指が書き記す、数々の言葉たち。


瞬間、男の作るものは決まった。


「ペンを作ろう」

「ペン?」

「君に、似合う」


目を見開いていた妻は、言葉の意味を飲み込んで花が咲くように笑った。


「素敵ね、楽しみにしているわ」




それから、男は寝る間も惜しんで細かい作業に集中した。


角は思ったよりも柔らかく、それでいて脆かった。切り出すことも模様を刻むことも容易いが、少しでも力加減を間違えればすぐに欠けてしまう。ペンに向かないのではとも思ったが、刃物を入れない分には驚くほどに硬く丈夫でもあった。

ますます、不思議な素材だった。


彼は熱中した。


彫る時の不思議な手応えは、指先から快楽を得るほどに気持ちのいいものだった。失敗するたびに残りが少なくなっていく焦りと、何が何でも完成させたいという意地が湧いてくる。

脳裏で妻の指先を思い浮かべて、その指に踊らされるペンの姿をひたすらに追った。

美しい素材を扱うのは寝食を忘れるくらいに楽しく、自分の人生を賭けているのだと思うほどに壮絶だった。


幾夜が過ぎ、また幾夜が過ぎた。


「出来た……」


男の手元には、見事な細工を施されたペン。

幾重にも絡む蔦のようなデザインに、さらにそこから枝分かれした蔦が別の蔦と絡み合う。ときに途切れ、ときに花を咲かせるそれはさながと彼自身感じていた。


「あなた、流石にそろそろお休みを……」

「出来たんだ、出来たんだよ」


幾日も部屋に閉じこもる男を心配した妻が、泣きそうな顔で部屋に入ってくる。そんな彼女の目の前にペンを差し出した。


「君に、似合うと思う」

「───ああ、とても美しいわ」


震える手でそれを受け取った妻は、見惚れるようにかざした。彼女の目を奪うほど、男の彫った細工は美しかった。


「ありがとう、ありがとう。とても素敵だわ。本当に、素敵」

「たくさん使ってくれ」


ペンを胸元で抱きしめる妻に、またしても男は気の利いた言葉を伝える事はできなかった。しかし、2人の間にはそれ以上の言葉は要らなかった。


男が作った物が、何よりも妻への愛を。

妻の涙が、何よりも男への愛を現していたのだから。






妻はそれからも男のペンを使って様々なものを書いた。


インクは市販のものを使ったが、不思議とそのペンで書くと文字は輝くようにも見えた。実際に発光するなんて事はなかったのだが。


数年、そうして2人が穏やかに過ごしていた頃、その日々は唐突に終わりを迎えた。


「あと、半年もないんですって」


妻の言葉に、男は愕然とした。

ここ最近で妻が患った病状が良くない事は知っていたが、まさか余命を宣告されるほどだとは思ってもいなかった。

病人独特の、痩せ細った妻の手。男は折れないように加減をしながらその手を握って涙を溢した。


「どうして、君が」

「運命なのよ、病は誰にだって等しいわ。だからね、私の最期のわがままを聞いてくれるかしら?」

「最期だなんて、言わないでくれ」


男は縋るように妻を抱きしめた。

何年も抱きしめていたが、その中でも今が1番儚く、弱々しい体だった。妻は男の背をあやすように撫でながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「最近、神獣様が見つかったという御触れがあったでしょう?」

「ああ、だからもう、君が闇に沈む心配もないと思ったのに」

「私ね、神獣様の"贄"になりたいわ」


妻の思いもよらない告白に、男は思わず彼女の肩を掴んで引き離した。伺えるようになった彼女の顔は、痩せ細り色も悪くはあるが男に向かって優しく微笑んでいる。

男の唇がわなわなと震えた。


「贄だなんて……!すべて、消えるんだぞ!?」

「ええ、だから誰も怖がって志願しないでしょう?でも、神獣様の角が闇を祓い続けるには、誰かがやらないといけないわ」


微笑みは崩れず。彼女は折れそうな手で男に再び抱きついて、その背を撫でた。


「本当は長く生きた人の歴史が必要だそうだけれど……背に腹は変えられないでしょう?志願する人間がいれば、受け入れてもらえるわ」

「君を失って、俺は、どうやって」

「大丈夫よ。私がいたこともゆっくり忘れていくもの。きっと、大丈夫」


男の涙が、ぼたぼたと妻の頭を濡らす。

神獣という存在が見つかって早数ヶ月。その存在の特異性は世界中の人々が知るところとなっていた。


曰く、その角は光り輝き闇の侵食を防ぐ。

曰く、角は光るたびにその長さを失っていく。

曰く、神獣は人の歴史を喰らって角を伸ばす。


曰く、歴史を失った人間は……人の記憶からも、人の記録からも徐々に失われて最終的には消えてしまう。


人々は闇に沈むことのなくなった残る世界を楽園パンテオニウムと呼び尊ぶ一方、神獣の贄になって存在を失うことを恐れていた。

何故ならば、歴史を失う事は生きた証すら残せないことと同義であるからだ。


妻は、その贄になろうと言うのだ。


「わざわざ、贄になんて」

「どうせ死ぬのであれば、私はあなたの生きていく世界を照らす糧になりたいの」

「そんな、そんな……」


男は情けなくも泣いて縋ってみせたが、妻は黙って微笑むだけだった。




───そして、妻はその命尽きる前に宣言通り贄となった。




妻を失った男は、暫く自暴自棄に生きていた。

男の記憶からは確かに妻がいたという痕跡が消え始めていた。彼女の顔も声も、朧げにしか覚えていない。そのことが男を苦しめた。

いっそのこと、一気に全て消えてくれれば忘れているということすら忘れられるのに。


さらに日は過ぎて、男は家の中に違和感を感じていた。

誰かが一緒に住んでいたような違和感。記憶を探るが、生まれてこの方両親以外と過ごした人間なんて養護院の孤児達しか思い浮かばない。

もどかしい思いを抱きながら、男は机の上に置いてあった身に覚えのないノートを開いた。



それは誰かの日常を綴った、所謂日記だった。



その瞬間、男の脳内に鮮明な記憶が浮かび上がって来た。


男が送ったペンを大事そうに抱えた妻。

2人で祝った、少し遅れた男の誕生日。

彼女が病を患った直後、精をつけるためと2人で久しぶりに食べ歩いた道。

進行していく病状の中、男の作品を眺めては微笑む妻。


他にも様々、彼女との日々が彼の脳裏に蘇る。


「ああ、ああ……どうして」


どうして、彼女の事を思い出せたのか。

どうして、消えるはずの彼女の日記の内容が残っているのか。


男は夢中で日記を読み漁り、妻がいかに日々を愛しく思っていてくれたか知り、泣き、更に遡って読み進めた。

そこでようやく、彼は気付いた。


「ペンを、送った日」


日記は、その日から始まっていた。

その日以前には不自然な白紙のページが続いており、何かが書かれていたのだろうと言うことだけは伺える。

何とか頭を働かせて思考を巡らせてみれば、彼女との出会いも何故結婚したかも覚えていない。ただ、日記と同じくペンを送った日からの事だけは鮮明に思い出せた。


このペンの素材をどう手に入れたかは覚えていないが、どういった素材だったかは確かに覚えている。


確か、何かの角だったはずだ。僅かに輝きがあり、白く、野山の生き物とは少し違うような。

そして妻がこのペンを使うたびに、文字が輝いていたように見えたのも思い出せる。日記の文字は発光することもないが、確かにそう見えたのだ。


「まさか」


男は日記の横に置かれたままのペンを手に取った。

記憶の中の妻。美しい彼女の指に似合いそうなデザインのものだ、おそらく自分が彼女のために彫刻を施したに違いない。


男は震える手でペン先をインクに浸し、少しだけ文字を書いた。

やはりその文字は、薄らと輝きを帯びたように見えた。




男は神獣を管理しているという、パンテオニウムの中心へと足を運んだ。

今までの経緯を隠さず話し、怪訝な顔をする管理者たちにペンを見せた。


「では一度、こちらを使わせていただいても?実は今日に1人、罪人を贄にするつもりでして……誰も志願をしませんからね」


管理者の1人がそう言った。

男は躊躇ためらうことなく頷いた。

妻の遺品ではあったが、歴史を残せる事に気付けたのも、彼女の導きあってのものだと思ったからだ。


男は管理者が用意した部屋で数日を過ごした。


自由は制限されなかったが、男はその数日間ひたすら妻の日記を読み込んだ。何とかして、記録前のことも思い出したかったからだ。

しかし、無情にも妻との出会いはおろか、それ以降の空白の日々を思い出せる事はなかった。


やがて2週間ほどが過ぎた頃だろうか。

男の部屋に、嬉々とした表情の管理者が姿を現した。


「間違いありません、これは歴史を残しておくことの出来る聖具です!!」


ついぞ2週間前、贄となった罪人の"歴史"がまだ色褪せずに残っているという。

男の推測は正しかった。


「十分な見返りをお約束しましょう、代わりに、この聖具をこちらでお預かりさせていただく事は可能でしょうか……!?」

「構いません」


男は頷いた。

見返りも要らなかった。慎ましく暮らしていたのだ、今更贅沢をするつもりもなかった。


「来たるべきとき……。私も贄にしてください」

「それは……それは勿論!むしろ、これがあれば歴史を失う恐れがない分、贄になっても構わないと仰る人間は増えるでしょう。パンテオニウムの未来は明るいのです!最期まで寿命をまっとうされても構わないのですよ!」

「いいえ。あと……それは妻の遺品です、大事にして下さい」

「当たり前です!他に何かご要望は?」

「いえ……ただ」


男はそこで少し口籠った。

聞いていいものか分からなかったからだ。

しかし、何でもいいと言われた手前、質問したって構わないだろう。


「それはやはり、神獣様の角なのでしょう。それが、なぜ市場に?」

「───さぁ、申し訳ありませんが、それは分かりかねます」

「……そうですか」


男はそういうと、一つ頭を下げてその場を後にした。後ろで管理者たちが何かを言っていたが、男は全て無視をして自分の家に帰って行った。

妻との記憶を思い出した、愛しい家に。








「では、貴方が……」


歴史官の男は、目の前の老爺をまじまじと眺めた。

聖具をもたらしながら、いつか贄になる事を望んで去っていった変わり者の聖者の話を師から聞いたことはある。

それが彼だったとは男も思っていなかった。


「貴方のおかげで、生きてきた証を失うことがないと知った老人たちが贄を拒む事は無くなりました」

「そうですか」

「家族に忘れられたくないものは、歴史を家族に託し……家族がいない者でも、公共の保管所に歴史が残されれば、誰かに証を見てもらうことができる。とても素敵な物です。貴方がお作りになったとは」


男の賞賛にも老爺はただ微笑んで応えるだけだった。

その瞳は、未だに神獣へ向けられている。彼は眩しそうに皺の刻まれた目元を細めた。


「彫っていた間、この美しい角を持つのはどんな美しい生き物だろうと考えていました」


何を想っているのだろう。

老爺はゆっくりと瞳を閉じて、数秒黙した。

男は彼の沈黙を邪魔することなく、同じく口を噤む。


やがて目を開けた老爺はようやく男へと視線を戻し、頷いた。


「もう、大丈夫です」

「わかりました。では、最後に……この"歴史"をどう扱いますか?」


老爺は、微笑んだ。


「誰に読まれずとも構いません。私の家の、妻の日記の横へ」






神獣の角が光を放ち、老爺の姿は完全に失われた。


「……それにしても、興味深い」


歴史官の男は、自らの持つペンに視線を落とした。繊細なレリーフが施された、美しい道具。

師から託された際に、歴史を書き記すための聖具だと教えられたこの世にふたつとないペン。


「神獣様の角が、市場に流れることなんてあったのか……?」


管理者の中でそんな話題が上った事はない。

昔のことといえ、師から聞いたこともなかった。


実際、そんなことがあれば何で不敬なことだと思う。しかし、その因果ゆえにこのような聖具が作られ、贄の不安は解消された。


「私の考えることではないな」


自分は、ただ歴史を書き記すだけの"歴史官"なのだから。

男はかぶりを振って、いま聞いた歴史の扱いを別の担当に伝えるために踵を返した。

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