ある老人の話(上)

その角は"歴史"をかてに光り輝き、あまねく人々を照らす。

数多の世界が闇に沈み幾多の命が夜へと還る中、唯一その国だけが神獣の加護を受けて形を保っていた。



その神獣はあるとき突然世界にもたらされた。

その神獣がどこから来たのか。


それを、正しく知る者は───





神獣の巣へ至る手前の控室で、男はペンを片手に言った。


「では、貴方の"歴史"をお聞かせ下さい。無論、のこしたくない事柄については任意ですので構いません」


男の目の前に座る老人はゆっくりと大きく息を吸い、吐いた。


長い白髪に隠された顔はかなり歳を重ねているようで、老爺なのか老婆なのか判然はんぜんとしない。


くいう歴史官の男も、もうかなりの歳を重ねていた。最近は少し頭髪も寂しくなっている。数年もしないうちに、彼の師のように後進に道を譲る事になるだろう。

様々な老人たちの話を聞いてきた。

ときに保管所へ行って、彼らの歴史に思いを馳せてきた。


歴史官として、充実した日々を送ったように思う。

神獣へ贄を捧げる頻度を考えれば、この老人の話を記すのが最後になるかもしれない。


「じゃあ、少しばかり聞いてもらいましょうかね」


しわがれた声が老人から漏れた。

やはり、男なのか女なのか、彼に判別はつけられなかった。



曰く、老人は世界の果てよりこの地へ来た。










子供だった老人の世界は、緑に囲まれていた。


大きく枝葉を広げる木々、木々の間を幾重にも渡る蔦。岩々には苔が青々と茂り、潤う大地には生命力に溢れた草花が絨毯のように敷き詰められていた。


世界の果てに位置するその場所は、果てでありながら中心。しかして深い森に囲まれ、多くの人間は知ることのない場所。


子供心に、そんな場所には不満しかなかった。


同年代の友人など、片手で数えるしかいない。その中で親しい者となると更に少なくなる。

性差や価値観の絶妙な違いで生じる小さな齟齬そごは、関わりを増すごとに大きくなり、やがては付かず離れずの距離感に落ち着いてしまう。


子供は、人間と関わることが致命的に苦手だった。


集落とでも呼ばれるような、小さな村。

隣保相互扶助が基本で成り立つその場所では、その子供のような感性は異質とさえ言えた。


「つまんない」


座り込んだ美しい湖畔も、生まれてから変わり映えしない。


他人と深く関わらず、村から出ることもない。

そんな子供の世界の中で変化があるものといえば、季節の変化による風景の彩りだけだった。

しかしこの湖畔は、どれだけ季節が巡ろうと何の変化も見出すことができない。



風も凪ぎ、波立つことさえない湖面。

周囲は白い幹の高木が取り囲み、灰色の葉が覆った空からは僅かな光ばかりが溢れ落ちる。薄暗いとさえ形容できる場所では、昼と夜の変化すら微細なものだった。


白と灰色に彩られたそこは、青々とした森の中で一線を画した異質な場所だった。


他の生き物さえ寄り付かず静寂を破るものが皆無の世界は、子供がいくら孤独でいようと気にかける者は居なかった。

周りの森に溶け込めない異質な場所は、まるで子供自身のようだった。


だから子供はつまらないと漏らしながら、今日も湖畔で1人湖を眺める時間を過ごしていた。


「───、───」


いつもと違い、その日は歌を口ずさんでみた。

今は亡き母がよく口にしていた歌だ。

今は亡き父が笛を吹いて共に奏でていたことを思い出す。


特別な理由はなかった。

ただ、村の誰かが歌っていたのを聞いて不意に思い出しただけだった。


「───……?」


だから、何かが起きることを求めていたわけではなかった。


子供の歌とはまた違う音が聞こえた。

草を踏みしだく音だ。

静寂が支配するこの場所では、些細な音でもよく響く。それは、子供が歌っていても例外ではなかった。


他の生き物さえ寄り付かない場所。

小動物のような軽いものでもなく、人間の大人よりも更に重い音。


なにか、恐ろしい……濃密でありながら清々しいまでに透き通った空気がじわりと染み出す。子供は思わず歌を止めて息まで殺した。草を踏む、という音が子供の後ろから聞こえた。


獣のにおいも、人間のにおいもしない。


しかし、明確に質量を持った"何か"が確かにそこに現れたのだ。子供のすぐ真後ろの木々の間から。


子供は動けなかった。背後の気配もまた、動きを止めていた。

何分、何十分そうしていたのだろう?もしかすると数時間は経っていたのかもしれない。変わり映えのしない景色の中では、時間という概念はあまりに希薄で曖昧であった。


やがて、静止した時間に耐えられなくなったのは子供の方だった。


早鐘を打つ心臓を押さえながら、ゆっくりと慎重に背後の何かを振り返る。

見たくない、けれども見たい。

そんな相反する気持ちで振り返った子供の視界に白い輝きが映った途端、否応なく視線はから離せなくなった。


「わぁ……」


喉に張り付いた声は、はっきりした音として形になったわけではない。それでも溢れた感嘆の声を、子供はどこか他人事として聞いていた。





目の前に現れたるは、神々しい白磁だった。




馬のように逞しく、それでいて鹿のようにしなやかさを兼ねた6本の脚。付いた蹄は作り物のように滑らかでいて汚れひとつ付いていない。

胴体も同様に力強く、野生的でありながらもどこか触れ難いような崇高な造形美を感じる。

そして、その半身から更に生えるのは人間のに似ていた。

凹凸のない薄い胴は男女の区別を付けることができない。ただただ彫刻のように整っている上体は何も纏っていなかったが、扇状的とは程遠く───むしろ、神秘的ですらあった。

人間と同じように生えた腕と、5本の指。節くれや無駄な筋肉は一切見られない。


これら全ては色がなく、白く輝いていた。


直結する頭部は、これまた人間とも獣とも付かぬものだった。


造形こそ人間に近しいが、鼻は獣のものに似ていた。口唇は人間のものに似ていた。

つるり、とした肌には毛穴ひとつ見受けられず、眉もない。

頭頂部から生えている白い髪は、髪といっていいものか───獣の胴を流れ落ち、最終的にたてがみと尾に変貌していた。


そして、


そして、何よりも子供の目を惹いたのは美しく伸びる角と、白い世界の中で唯一鮮やかに色付く不思議な色の瞳だった。



「きれい」





秀麗かつ堂々たる様はまさに




振り返る前の恐ろしさなど、壮麗な姿の前では霧散した。確かに畏れを抱く姿ではあったが、子供にとってはただ美しいという純粋な感情の方が先に立った


その獣は子供を襲うこともなく、かと言って逃げるわけでもなく……子供の横に並び、静かに膝を折った。

座り込んでなお見上げるほどの巨体だが、子供の顔を覗き込む瞳はどこまでも無垢で澄み切っていた。


「なに?どうしたの……?」


答えはない。

人間に似た姿を模してはいるが、その口から言葉らしきものが漏れることはなかった。


「もしかして、もう一度聞きたいの?」


獣からは何の反応も返ってこなかった。

しかし子供の側を離れないところから、何か訴えがあるのだろう。

悩んだ末、子供はとりあえず再び歌を口ずさんだ。いつもと違い、歌っていると現れた獣なのだ。もしかすると歌を気に入って寄って来たのかもしれない。


果たして、子供の考えは正しかった。


歌い始めた子供の横で、獣は瞳を閉じて聴き入っているように見えた。長い睫毛に縁取られた瞼が伏せられると、獣の色はまさに白一色となる。

子供はその美しい姿を横目で眺めながら、ひたすらに歌い続けた。一曲終わると同じ歌を、終わっても同じ歌を、延々と歌い続けた。


いつまでも、いつまでも───。




それが、子供と獣の出会いだった。




獣は、子供が湖畔で歌っていると毎回現れるようになった。いつも子供の横に座り込んでは、子供の歌に耳を澄ませていた。


数日経ち、数週経ち、1ヶ月も過ぎれば、子供はもう獣のことを友人のように思い始めた。


「おはよう、昨日はよく眠れた?」


その頃になると、子供は獣に触れることに躊躇ためらいを無くしていた。獣も同様に、子供に触れられることを拒む様子はなかった。


相変わらず獣は言葉を発することはなかったが、子供は挨拶の代わりに両手を伸ばす。獣は腰を折って子供の手に自分のそれを重ねると、掌に頬を擦り寄せた。

生暖かい、生きた感触。

子供は自らの額を獣の額に軽くぶつけて笑った。


「そっか、じゃあ今日も聞いてくれる?」


静かだった湖畔には、毎日歌が響くようになっていた。

同じメロディ、同じ声、同じ歌詞。

日々変わる事のない歌だけれど、獣はいつも満足したように最初から最後まで聴き入っていた。


満足するまで歌い終えれば、子供は時間の許す限り取り止めのない話を口にする。子供のみが喋るだけの一方通行の会話だったが、1人と1匹にはそれだけで十分だった。

子供と大きな獣。体格の差はあれど肩を寄せ合って過ごす姿は、まさしく友と呼べるものだっただろう。


さらに日が過ぎ、子供と獣の触れ合いは濃密になった。

長々と伸びる獣の髪を、尾の部分まで丁寧に梳かした事もある。獣が子供を背に乗せて、湖から少し離れた森を駆け回った事もある。

数年経てば、言葉を交わせぬままでもお互いの言いたい事は大体わかるようになっていた。


「キミには、家族がいるの?」


それは、ふと口をついただけの話題だった。


子供の問いに、獣はジッと林の奥を見つめた。

久しぶりに獣が何を言いたいのかが分からなかった。

獣は暫く微動だにしなかったが、やがて子供の手を取るとそっと立ち上がり林の奥へ歩を進める。手を引かれるままに子供は獣の後を追った。



辿り着いた先は慣れ親しんだ森の一角だったが、子供の目には見た事のない景色が映っていた。


「そっか、沢山……家族が居たんだ」


そこには、獣と同じ見た目をした生き物たちが思い思いに過ごす楽園だった。

青々と茂る木々の合間からは光が差し込み、花々が咲き乱れている。獣たちは光に当たりながら午睡をしたり、お互いに身を寄せながらゆったりと時を過ごしているように見えた。


「ここがキミの家なんだね」


子供の呟きに、獣はただ重ねた手にゆるく力を込めた。

何年経ってもその姿の神々しさは畏れを抱くべきものであろうが、一度友となった子供にとってはただ美しい光景だった。


「紹介してくれてありがとう」


数年前は姿を見ることすらなかったような警戒心の強い獣。

そんな彼らが棲家に訪れることさえ許してくれた事は、純粋に嬉しかった。子供は暫く手を繋ぎながら楽園の様子を堪能し、彼らに別れを告げて帰途に就いた。




その晩から、子供は体調を崩した。

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