敬虔な老婆の話

パンテオニウムには美しい神獣が棲んでいる。


その角は"歴史"をかてに光り輝き、あまねく人々を照らす。

数多の世界が闇に沈み幾多の命が夜へと還る中、唯一その国だけが神獣の加護を受けて形を保っていた。


神獣はにえの歴史を喰らって角を伸ばす。

贄の歴史が長ければ長いほど、神獣の角は著しく壮麗に成長する。

故に、贄は歴史を重ねた老人が選ばれた。






神獣の巣へ至る手前の控室で、男はペンを片手に言った。


「では、貴方の"歴史"をお聞かせ下さい。無論、遺したくない事柄については任意ですので構いません」


男の目の前に座る老婆は瞳を閉じ、指を組み、祈りの姿勢のまま口を開いた。


「神獣様に捧げる前に、どうぞこの哀れな老人の話を聞いて下さい。抱え込んだまま召されるには、あまりにも穢れた身ですので」


曰く、老婆は神に仕える身だった。




少女だった老婆は、敬虔けいけんな信徒である両親の元で育った。

家は教会の敷地内にあり、戦禍に見舞われることのなかった少女は、比較的平和な日常を送っていた。


そうは言っても、近くの町で戦闘が起こった際には怪我人が運び込まれ、壮絶な経験をしたことはあったが。


「お父さん、どうして戦争が起こるのですか」

「世界が闇に沈んで、土地が失われているからだよ。国を失った者たちが、他の国土を奪おうとしているんだ」

「みんなで残っている国土を分け合うことはできないのですか?主は我々が手を取り合うことを望んで、この試練を与えたはずです」


少女の言葉に、父はいつも曖昧に笑うだけだった。


少女は毎日のように神に祈った。

早く争いが終わりますように、と。

祈りは届かず、争いは日々激しさを増した。

教会が直接攻撃を加えられなかったのは、争う民たちのモラルだけの話ではない。きっとみんな怖かったのだ。世界が闇に沈み始め、神の試練かたわむれかわからない中で、神の怒りまで買ってしまうのが恐ろしかったのだ。


あの時の民の心理はそういうものだったのでは、と、今でも彼女は思っている。


激しさを増す争いの中、教会にはどんどん孤児があふれていった。少女と同じほどの年齢から、乳飲子ほどの年頃まで、安全地帯である教会には子供が増え続けた。


たとえ人々が神の怒りを恐れ、教会で無体を働かなくても、段々と教会の経営は怪しくなっていた。


ある日、子供の1人が体調を崩した。


そこから瞬く間に子供たちが倒れ、熱を出し、苦しみ始めるようになった。

───疫病だった。


あふれすぎて栄養状態も衛生状態も悪い子供たちは、次々にその牙にかかった。特に、免疫力の弱い小さな子供ほど悪化するのは早かった。


「痛い」

「苦しいよ」


少女は祈りながら、子供たちの看病をすることしかできなかった。

祈って病気が治ることはなかったが、神への祈りを促したときだけ子供たちの表情は穏やかだった。それは召されるときも同様に。


病気の子供たちの近くにいたに関わらず、彼女は一切疫病に罹らなかった。

これは、神の思し召しだと思った。


少女は数々の子供を見送った。同時に、疫病に罹患りかんした両親と神父も見送った。


少女は知っていた。

神父も両親も確かに以前は敬虔だった。しかし、疫病の対応に追われて祈りを疎かにしていたことを。彼女は再三、神への祈りを促したが彼らの態度が改善されることはなかった。


少女だけが神を心から敬っていた。

だから神は。それは明らかだった。


神を恐れていたはずの村人は、疫病を恐れて教会に火を放った。神を敬うことよりも、目先の恐怖に目が眩んだのだろう。

住む場所を無くした彼女は、なんとか怪我を負うこともなく追われるようにその地を後にした。


家族もいなければ、教会に火をつけるような人間たちのいる地で祈りを捧げる道理もないのだ。


少女は、当てもなく旅をした。

戦時の子供……しかも、女の一人旅など危険以外の何物でもない行為であったが、神を信じている少女は躊躇ためらわない。

その証拠に、彼女が危険な目に合いそうになるたび何処からともなく救いの手が差し出された。



人攫いに遭遇したときには、運良く役人が見回り中でことなきを得た。

森で男に襲われそうになったときには、熊が現れて相手の男を食った。そのあと満足したのか、熊は少女に目もくれず去って行った。

浮浪者に身ぐるみを剥がされそうになったときには、相手が足を滑らせて転けた先に折れたパイプがあり───。


とにかく、少女は危険な目に遭っても上手くかわすことができた。


少女はそうやって数年と旅を続け、とある海沿いの町に辿り着いた。


戦禍から遠いが、粗忽者そこつもの蔓延はびこり治安の悪い街。彼女はそこに辿り着いたのも神の御心だと、町の古びた教会へ身を寄せた。

故郷と同じく孤児は居たが、抱えきれないほどではなかった。


「貴女が来てくださってから、この場所もとても平和になりました」


神父は少女と共に毎日祈りを捧げるほど信心深かった。


「私はただの主の忠実なしもべです。平和になったというというのであれば、それは主の思し召しに相違ありません」

「でしたら、貴女はきっと御使みつかいなのですよ。貴女がここへいらしてから、言い掛かりをつけて教会への寄附金を奪って行く者たちが居なくなりました。捕まえてもらってもキリがなくて、ずっと困っていたのですよ」

「まあ……」


そんな事は初耳だった。

少女がここへ来てからというもの、そんな事は一切無かったからだ。


タイミングの話だったとしても、世話になっている教会の憂いが解消されていた事は、少女にとって嬉しい話だった。

少女は思わず綻んだ口元を手で覆いながら微笑んだ。


「でしたら、今後はその感謝も込めて祈りを捧げる事に致しましょう。主よ、貴方の哀れな被造物をお救いいただき、ありがとうございます」





そんな少女が教会に身を寄せて数年。

年頃の女へと成長した彼女は、1人の男と結ばれた。流れの傭兵で、例によって女が危険な目に遭ったときに彼女を救った男だった。


傷を負ってまで彼女を救ってくれた事に、女はいたく感謝をして男にお礼の品を渡した。かつて故郷の教会に運び込まれた兵士が「世話をした礼に」と、くれた1対の指輪だった。


兵士は軽傷だった。大した世話もしていないからと彼女は断ったが、兵士は笑って御守り代わりだからと無理に手渡して行った。

───彼は、次に向かった戦闘で命を落としたという。


返す人間のいなくなった指輪はその時から女と共にあった。彼女は律儀に兵士の言うことを受け取り、御守り代わりとしてそれを持ち歩いていた。


傭兵だという男に礼として指輪を渡したのは、御守りとしての意味以上に深いものはなかった。

しかし、指輪の対を貰ったという男が女を意識するのはごく自然の流れだっただろう。




2人は仲睦まじく暮らしたが、その幸せは長く続かなかった。


町まではまだ遠いが、戦禍の足音は着実に迫っていたのだ。

夫は愛する女を守るためにも戦地へ身を投じた。女は毎日彼の無事を祈り、ひたすら神に祈った。


そして夫が戦地に向かってすぐの深夜の事。


寝る間も惜しんで祈っていた彼女は、侵入して来た盗人に運悪く遭遇した。逃げようとした女を捕まえた盗人がまずした事は───彼女を執拗に犯す事だった。


「"姦淫は、主の教えに反する罪"なんだろ?」


盗人が嘲るように耳元で囁いた言葉は、今も彼女の背筋に嫌悪の震えを走らせる。


「旦那は悲しむだろうな。戦争から帰って来たら、敬虔な嫁が教えに背いて石打ちにされちゃあ。誰にも俺のことなんか言えないよなあ」


女に夫がいることも、神の教えも、信徒の姦淫は石打ちに処されることも、彼はよくわかっていた。もしかしたら教会の関係者だったのかもしれない。すでに確かめる事は出来ないが。


女を存分に犯したあと、盗人はそれなりに溜まっていた寄附金を根こそぎ奪って行った。



盗人の目論見通り、女は誰にも相談することができなかった。夫へ立てた操を守れなかった事を知られるのも怖かった。石打ちも怖かった。


「嘘を憎み、真実に忠実であれ。分かってはいるのです。主よ、私をどうかお赦し下さい……」


女は初めて、神の教えに素直に従えなかった。


奪われた寄附金を誤魔化すために、女は帳簿を誤魔化し、身の回りのものを売り、自分の食事を少しずつ孤児たちに分配した。

幸いだったのは、元より質素な生活をしていたという点だった。寄附金で賄っていた部分を少し誤魔化してもバレる事はなかった。


「おめでとうございます、ご懐妊です」


それから暫くして、女は自分が身籠みごもっている事を知った。

仲睦まじい女と夫を知っている医者は、晴れやかな笑顔を向けてくるが、女は気が気でなかった。


の子供なのだろう?


時期としても、はっきりとした答えを出せなかった。


夫の子ならば産みたかった。

盗人の子ならば、堕ろしたかった。

しかし、堕ろす場合はどうやって?

自分と夫の子だと信じている医者に、どう伝えれば良い?


ぐるぐると考えを巡らせている間にも、日々は過ぎる。そして、悪い事は立て続けに起こるものだった。


「そんな……」


夫の訃報を持ってきた男は、顔の横一直線に刻まれた生々しい傷を歪めながら頭を下げた。


「すみません……。敵の攻撃による損傷で、持ち帰ることができたのはこれだけしか……」


男が差し出したのは、紛れもなく自分のものと対になる指輪だった。女はそれを受け取り、目を閉じた。

夫との思い出が浮かんでは消える。

悲しくて辛くて、苦しかった。


しかし同時に「これは、主が自分に与えた罰だ」と思った。


姦淫の罪に対する罰。

罪を黙秘し、真実を隠した罰。

そのために他人を欺いた罰。


それが夫の死となって与えられたのだ。

それは、甘んじて受け入れねばならない女の罪だ。


「差し上げます」

「え?」


女は自分の指輪も外した。


「これは御守り代わりとして、夫と私で持っていた指輪です。……宜しければご自由に使って下さい」


慌てる男に、不要ならば棄てろと付け加えて指輪を握らせた。


「戦場にはお戻りに?」

「いえ……。もう故郷に戻って親の後を継ごうと」

「でしたら、道中の御守りとして持って下さい。どうしてもの時には、少しの路銀にはなるでしょう」

「ですが」

「見ていると辛いのです。もし良ければ、貴方が大切に思う方と分け合って持っていただければ───あの人も浮かばれるでしょう」


形見として腐らせることなく、誰かの守護の象徴として。

見ているのが辛いという気持ちも本当だったが、愛する自分のために戦場へ行った男に対する敬愛の形でもあった。


御守りとして譲り受けた指輪を、別の人間の御守りとして譲る。

女にとっては至極当然の流れだった。


「分かりました。───貴女のこれからに、幸多からん事を」


男はそう言って、男の訃報だけを残して去って行った。

男が去った後、女は嗚咽を漏らして座り込んだ。




赤子を産もうと思った。

むしろ、夫の子であれば産まねばと思った。

そこからは毎夜、夫の子であるように祈りを捧げた。


そして。


そして、産まれた女の子は女とも夫とも違う目の色をしていた。




子を取り上げた産婆が、慈しむような笑みで赤子を差し出す。初めて我が子を抱いた女の絶望たるや、筆舌に尽くしがたかった。


夫の目の色など、細かく覚えているものは女くらいしか居なかった。だから、子供の目の色が女と違うくらいでは誰も夫の子だと疑う事はなかった。



「かあさん!花の冠を作ったのよ、かあさんにあげるわ!」


子どもはすくすく育ち、器量は良くないが愛嬌のある娘になった。

しかし、そこに盗人の面影ざ見える気がして、女は我が子を愛することができなかった。


「要らないわ」

「でもほら、かあさんの髪によく似合う色を選んで……」

「要らないと言っているでしょう!?」


弾かれて散り散りになる花冠。

驚いたあと泣きそうに顔を歪める娘に、ハッとして女は顔を背けた。どうしても、その瞳の色を見ながら話すことができなかったのだ。


我が子へ向けることができない分、孤児たちへしっかり愛情を向けた。愛情を向けた孤児たちが娘と仲良くしてくれれば、それもまた愛と言えるのではないかと。


当たり前だが、そんな事はなかった。


年頃になった娘は、母からの愛情を諦めて早々に教会から出ていった。女はそれを止める事も、咎める事もしなかった。


町の路地で身を売りながら暮らしているという事だけは知っていた。愛してもいない盗人に犯された記憶がよみがえり、胸の奥がズキズキと痛む。

それでも女は、時折思い出したかのように教会を訪れては近況を報告する娘の瞳を、見れないままだった。


「アタシ、結婚するから」


そんな娘からの突然の報告に、女は思わず彼女の顔を見た。

相変わらず夫とも自分とも違う瞳の色だったが、久しぶりに合った視線に絶望感を抱く事はなくなっていた。


「っても、式もしなけりゃ多分内縁なんだけどネ。一応報告しとくよ、母さん」

「あ……」


踵を返して去って行こうとする娘を、初めて女は引き留めた。


相変わらず愛情というものが湧く気配はないが、それでも言っておかねばならないと思ったのだ。


「……幸せになってね」


娘は目を見開き、暫く瞬きを繰り返す。

やがて、あまり上品ではないが昔のまま愛嬌のある顔で笑った。


「うん」




娘が結婚をすると報告して十数年。

母娘が会話を交わす頻度は変わらなかったが、会話の数は少しずつ増えていった。

女が娘に対して愛情を持っているかと聞かれれば首を横に振ったが、確かに情のようなものは生まれ始めていた。


娘の指に嵌められた指輪が、かつて自分が手放した物に似ていることも何も聞かなかった。


十数年で女は、少し離れた町の養護院と提携を結んだ。孤児の環境は良くなり、女は教会で告解を聞く余裕も出てきた。

前の神父が亡くなって暫くは忙しく、人手を割けない懺悔室に足を運ぶ者はいなかった。しかし、女が人々の話を聞くようになり再び懺悔室には人が訪れるようになっていた。


この町には、犯罪者紛いの粗忽者が多い。

娘の夫も同じような者だということは風の噂で聞いていた。

同時に、犯罪に手を染める事に悔恨を抱く小心者も多かった。

秘匿を約束する懺悔室は、そんな彼らにとっての救いの場であった。

女は町のどこで犯罪が起こるのか、どんな事が起こるのかを事前に知れたが、それを通報するような事はしなかった。


信徒である彼女に与えられているのは"懺悔を聞く"ことのみで、主より与えられし役目を裏切るつもりはなかったからだ。



それを破ったのは、娘がボロ雑巾のような姿で教会の扉を叩いた日だった。


「貴女……!どうして、どうしてこんな」

「捨てられたのよ……。あいつ、アタシを散々利用して捨てやがった……!」


目を潰されて至る所に打撲の痕を晒した娘は、最期の力を振り絞って教会への道を探ったのだろう。息はもう絶え絶えで、その命の灯火は今にも燃え尽きようとしていた。


「母さん、アタシは、愛が欲しかったの」


血の涙を流す娘が言った。

女が嫌いだった瞳が失われた顔は、ただただ女に似た面影を持っていた。


初めて、彼女に愛情を感じた。


「アタシ、愛されたかった。誰かに愛されたかった」


それが、最期の言葉だった。


女の目から、涙が溢れた。

まさか、娘の死に対してこれ程までに胸が掻き乱されるとは思わなかった。産んだ時から今まで、彼女を愛しいとも思わなかったから。

それが今はどうだ?身勝手だとわかっていても、幼い頃に花冠を差し出して笑う娘の顔が浮かんで止まなかった。


女は泣いて泣いて、娘の指に嵌められたままの指輪を抜き取った。やはりそれは、かつて自分が夫と分かって持っていた物に酷似していた。

そうであれば、その半身は娘を裏切ったという者が持っているのだろう。


女は、泣き腫らした目で立ち上がった。


「主よ、これで最後に致します。貴方から与えられし役目を裏切る私をお赦し下さい」


女は役人の元へ行き、下っ端の粗忽者たちが告解した内容を全て報告した。程なくして、今晩立てられていた犯罪の計画もあったという知らせが、女の元へ届けられた。

首謀者たちは捕まったようだが、その中に娘を裏切った者がいるのであれば───少しでも報いは受けただろうか?


女が心にぽっかりと空いた穴を感じながら教会へ至る道を帰っていると、不意に道の端に座り込む少年が目に付いた。


「どうしましたか?迷子ですか?」


少年は首を横に振る。


「帰る家はもうないよ。この町なら、悪いことでも仕事があるって聞いたから」

「ああ……」


つまるところ、別の場所から流れてきた孤児だった。

女は悲しげに顔を顰め、少年の手を取った。


「うちへおいでなさい。小さな教会ですけど、ちゃんと温かいご飯も、人数分のベッドもありますからね」


少年は目を輝かせて頷いた。

女は少年の手を引いて、教会への道を歩き出す。


そうだ。悲しんでいる暇はない。

先程、神に最後の裏切りだと告げたばかりだ。

自分の役割はまだまだ残っている。手始めに、哀れな孤児たちの未来を守らねばならない。


「あの、これ……」


少年がおずおずと何かを女に差し出した。




───見たことのある、指輪だった。




「さっき捕まった人が、その、落としてしまったみたいで……僕、返そうとしたんだけど」

「そうですか……」


昔に手放した指輪が、2つとも手元に戻ってきた。

これを譲った男は、更に誰かに指輪を譲ったのだろうか?知るすべもなければ、知るつもりもない。


それでも、戻ってきた指輪に何かしらの因果を感じずにはいられなかった。


「良いのですよ。これは、元々私のものですので……ほら、この指に嵌めているものと同じでしょう?」

「ほんとだ!それなら良かった」


少年はホッとした笑みを浮かべた。

女は彼に微笑みかけながら、もう一つの指輪を大事に懐にしまった。


帰ったら娘の墓を作ろう。そして、もう一度この指輪を大事にしよう。

因果はともあれ、女と夫、そして娘が間違いなく皆使っていたという繋がりのあるものなのだから。


夜空を見上げた。

散りばめられた星が美しく輝いている。

女の視界の端で、一条の流星が長い尾を引いて落ちていった。







老婆は懐から小さな袋を取り出し、机の上に中身を転がした。


「これが、その指輪です。その町も今や闇に沈み、これだけはと思ってずっと持っていたのです」


くすんだ金属の指輪。台座には不思議な色の石が付いている。透明度はあまりなく、宝石といえそうにはなかった。

男がどこかで見たことのあるような色の気もする。


「以上が私の歴史です。姦淫も虚偽も、罪の子を孕んだ事も、その子を愛せなかった事も、秘匿を守らなかった事も、全てが愚かな私の罪です。本来ならば石打ちを受けるはずだったこの身が、御使いである神獣様の糧になれるなんて……なんて身に余る光栄でしょうか」


老婆は心底幸せそうに笑った。

あまりに晴れやかな笑顔は、今から歴史を失う人間とは思えないほどに輝いているように見えた。これが、信心というものなのだろうか?


男は思いを馳せてみるが、神獣ならともかく姿を見たこともない神へ祈るのはよくわからなかった。


「最後に……この"歴史"をどう扱いますか?」

「渡したい人もいませんし、保管所で構いません。───ただ、望めば小さな物は歴史と一緒に残していただけると聞きました」

「可能です」

「良かった……」


老婆はまた指を祈りの形に組んだ。

口の中でボソボソと唱えているのは神への感謝だろうか。やがて祈りを終えた老婆はしっかりした足取りで立ち上がった。


「この指輪を、共に残して下さい。私たち家族を繋いだ歴史の一部ですので」


頭を下げた老婆に、男はしっかりと頷いてみせた。


「お望み通りに」






角が光り輝き、老婆の形が失われる。

光が収まった後、暫く贄を摂らず短くなる一方だった神獣の角は、壮麗に壮大に成長していた。


「やはり、長寿の歴史は凄まじいな」


優に100を超えていただろう老婆の姿を思い出す。世界が闇に沈み決して環境が良いといえない中で、長寿の老人が残っているのは珍しいことでもあった。

それに、老婆は歳以上に若々しくも見えた。

体質だったのだろうか?


男は机の上に残った指輪を見下ろす。

ふと、その石の色への妙な既視感に合点がいった。


「瞳の色……」


それは、神獣の瞳の色に近い気がした。

赤く、あかく、瞳の奥を覗けば覗くほど青白く輝く不思議な色の瞳。

直視すると"魅入られる"ために横目から、もしくは硝子越しにしか見たことはなかったが。


顔を上げて巣の中を見やれば、神獣が無言でこちらを見つめていた。



「……気の所為だな」


男は自分の考えを笑って打ち消すと、神獣にひとつ頭を下げてその場を離れた。

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