49話 マルガリタの関所越え


ぱらぱらと、降りはじめのまばらな雨のように、矢が届きはじめている。

暗雲を振り切るように船は加速するけれど、その先に待つのは黒い石作りの関所だ。


私はイヴリンと手を繋いだままシレーネ大叔母さんを振り返った。


「シレーネ大叔母さん。船を留める門はどんな形なのでしょう。小さな板が川の上に渡してあるのですか?」

「その程度の訳がないでしょう。黒翼城の城門のように、格子が下がっています。無理矢理通ろうとすれば、船が大破するでしょう」

「なるほど」


頷く私の上空で、ふわふわとマストの中頃まで浮いていたウィルが「もう関所が見えてきてる!」と一声叫んだ。

飛び込むように戻ってきて、ぐしゃりと前髪を乱し、早口で囁く。


「まずいよユレイア。このまま加速したら、すぐにでもぶつかっちゃう! 僕の風で無理矢理に関所を開けるにしても、多分船員が降ってきて、ここに乗り込んでくるよ。戦闘は避けられない……!」


焦燥が喉にせり上がり、私はすぐさま隣を見た。


「イヴリン。ランタンを使って、船をもっと加速できる?」

「ユレイア! 加速してどうするの!?」

「馬鹿者、シレーネの話を聞いていなかったのか!」


ウィルとショーン大叔父さんの悲鳴などまったく聞こえないという風情のイヴリンが、わずかに微笑んで誇らしげに頷いた。


「はい。シレーネ様のネックレスを使えば」


本当に怖い物なしだ。

私はいっそ清々しい気持ちで、シレーネ大叔母さんを振り返った。


「大叔母様! イヴリンにトパーズのネックレスを貸してください」

「……本当に、策があるのでしょうね」

「必ず皆を助けてみせますから!」

「失敗したらどうなるのです」

「その時は、関所で戦闘になるだけです。このまま進んだ時と同じように!」


シレーネ大叔母さんが眉間にしわを寄せて、深くため息をつくと、首の後ろに両手を回した。「ああ、待ちなさい」と呟いたショーン大叔父さんが、太った指で器用に金具を外し始める。


イヴリンに目線で「よろしくね」と告げて、私は舳先に向かって走り始めた。


「ユレイア! 危ないよ!」

「ウィルがいるでしょ!」


ため息をついたウィルが、時折降ってくるまばらな矢を、わずらわしそうに風で弾き飛ばす。

ばちんと空中で回転した矢が、甲板に落下し転がった。


「ねえ、ウィルは見えてるんでしょう? まわりの妖精達が今、何をしているか教えて!」

「いつも傍にいる妖精達は相変わらず、君に寄り添ってるよ。川岸の、森や山の妖精達は……わかんない」

「どんな顔してるの?」

「こっちを見たり、飛び回ったりしてる。面白そうな顔なのかな? 珍しいものが見られるのかなって、そんな気がするけど。僕本当に、妖精の考えてることわかんない」

「とりあえず、こっちを気にしてはいるのね。わかった!」


戻れの矢印みたいに転がった矢をまたいで、私は二本のマストを通り過ぎ、船の鼻っ面、一番先頭の舳先に躍り出た。


何も知らない船員達が見習いの子供を心配して、引っ込んでいろと怒鳴りつける。

彼らを無視して船縁をよじ登れば、猛烈な冷風が激しく吹き付けた。


陽に照らされた川面は波が高く白く泡立ち、黒い石積みの関所が迫っているのが見える。

関所の屋根に登った騎士はまだ指先くらいの大きさだが、いずれ表情が見えるほどに近くなるのだろう。

右手側に広がる森は深く濃く、古そうな幹の木々がみっしりと並んでいる。

川縁の騎士達はもはや隠そうともせず、猛烈に矢を射かけていた。


刻一刻と大きくなる関所を睨み、逆風に吹き飛ばされそうになりながら、私は大きくひとつ息を吸う。


「この地で息づく、私の遠い遠い兄姉よ」


魔術を使った時にわかったのだ。

意識をしているだけでは駄目だ。口に出して、言葉にすることで、魔術はくっきりと動く。


そしてその法則はおそらく、妖精にも通用する。


「眠っていた力を、私のために貸しておくれ」


ざわざわと、肌が粟立つ感覚があった。

船から見える森の木々から、あるいは高い山峰から、何かの気配を感じる。


視線。


肌に光を当てられたような、あるいはわずかな震動が伝わるような感覚が、全身を包み込んでいる。


「妖精が……」


ウィルが恐ろしいものを見たような顔で、震える声で周囲を見渡す。

山峰を、西方大森林を、そして空を見上げ、寒気がするかのように両腕をこする。


「こんなの、見たことない……」


おそらく、居るのだろう。


山を駆けるもの。森で息づくもの。空を飛ぶもの。

それらが一斉に数を増やし、私達を見つめている。


「あなた達の気まぐれを、優しさを、哀れみを、どうか私のところに届けておくれ」


不思議と、恐ろしいという気持ちは湧かなかった。

生まれた時からずっと、妖精は私にとって親切な友達だった。

話も理屈も通じないけれど、それでもいつだって、困った時には助けてくれようとしてくれた。

トーラス子爵領が襲われた時だって、全力で警告をしてくれていた。


「花の天井の下で眠るものに伝えておくれ。丸い苔の上で眠る王を慕うものたちよ。貴方の森の端で騒ぐものたちが、貴方達の遠い弟妹を捕らえようとしていると。無礼な旅人のように、森の王へ頭を下げぬまま、あなたたちの遠い弟妹を狩ろうとしているのだと」


きっと今回だって、助けてくれる。


「彼らの手をすり抜けたい。籠の雛にはなりたくない。誰一人として傷つけず、誰一人として冥府の神の衣に触れず、船を遠く遠く風のように運んでおくれ」


ただし、対価は。


「私は竜のレガリア。いずれこの地に訪れる厄災を払う王を助け、遠い兄姉達を守る者なり」


ツケで!


「あっ、僕まで返済に巻き込んで!」


物凄く嬉しそうにけらけら笑って、ウィルが私の髪を風でかき回した。

帽子がぶわりと弾け飛び、ピンが引っこ抜けて、まとめていた髪が散らばる。


川岸や関所から、いくつもの悲鳴が同時に上がった。


森の端で私を指さして叫ぶ騎士の弓はつるが切れ、突然座りこんでしまった馬を抱きしめる兵士の足はむきだしの裸足だ。


関所の方では、無理矢理に弓を射ようとした兵士は、突然服を脱ぎ始めて倒れ、酔っ払いのように眠ってしまった。

一番立派な鎧をまとっていた騎士は、突然大声で陽気に歌い出して部下の腕を取り、情熱的なリズムと足さばきでダンスを踊り出す。


「すごい……! すごい、何これユレイア! 信じられない、あの妖精が言うこと聞いてる!」


大きく頷いて、私はどきどきする胸に手を当てた。

聞いてくれた。

本当に、ちゃんと聞いてくれた。

しかも、思った以上にごきげんだ。

意地の悪い、ひねた受け取り方はせずに、ちゃんと騎士達を退けてくれている。


「ねえユレイア。すごいけど、でも本当に大丈夫なの? こんな数の妖精を従えて。僕らちゃんと対価を払いきれる? 兵士や騎士を雇うって、本当に本当にすっごくお金かかるんだよ?」

「そうねえ……」


何故か、私はお祖母様のことを思い出していた。

お母様は、不思議で親しみやすい、ちょっとうっかり屋だったりお人好しだったりする妖精のおとぎ話を教えてくれたものだけれど、お祖母様の教えてくれたおとぎ話は、何故かいつも少し怖い話だった。

人の理屈が通じない、無邪気で残酷で愚直な妖精達の物語。


小さな言い間違いで契約がずれたというのに、約束だからと子供の耳をねじり取ってしまう妖精。

優しい青年を気に入ったからと言って、口車に乗せて「はい」と言わせ永遠の命を与えて小箱に閉じ込める妖精。

かわいそうな老人がつい悪口を言ったために、悪い村人をみんなネズミに変えてしまった妖精。


たぶん、お祖母様の言うとおりなのだ。


妖精は愛らしく、不思議で、強い力を持っていても、私の思い通りになるとは限らない。

お祖母様はきっと、妖精の契約が恐ろしいものだという話を伝えたかった。


でも、まあ仕方ないだろう。


「イヴリンを見習うしかないでしょう」


生きてこその誉れなれ。

死んだら支払いの心配だって出来やしない。

生きのびるためには、今は出し惜しみなんてしてはいられない。


「そうは言ってもさぁ……」


動いていない胃をさすって「本当にユレイア、変なところで度胸ある」とぼやくウィルの声をかき消すように、後方から甲高い声が聞こえてきた。


「ユレイア様! できました!」


イヴリンの声だ。

私は後方のメインマストを振り返り、伸び上がって跳ねる彼女に同じく手を振り替えして叫んだ。


「ありがとう! 任せて!」


ちょうど、大きく帆がふくらんで、渦を巻くように強い風が吹きすさんでいるのがわかった。

きっとイヴリンが、シレーネ大叔母さんの首飾りを鉱石ランタンにつけ、風を更に強くしてくれたのだろう。

ウィルがはっとした顔をして、私の肩をすかすかと叩きながら焦って告げる。


「あ、関所! 格子がまだ落ちてるよ。はやく、ユレイア! 上げてくれるように頼んで!」


私はちょっと笑って肩をすくめた。


ウィルは妖精に物事を頼む方法がなっていない。

彼らは、人間が作ったものを正しくいじるのがとっても苦手だ。理屈が分からないし、覚えられないし、楽しくもない。

彼らが喜ぶようなやり方は、いつだってもっと単純だ。


それでもやっぱり緊張はして、私は必要以上に大きく息を吸い「遠い兄姉達よ」と告げた。


「川を渡る船が、あなた達のように風とたわむれられたなら、どれ程嬉しいことででしょう。森の梢を波飛沫に、山峰を小島に、鳥を魚とできたなら、どれ程嬉しいことでしょう」


がたん、と大きく船体が揺れ、私はとっさに船の縁を掴んだ。

船員達のどよめきと、ショーン大叔父さんの悲鳴が聞こえる。


帆の周囲で不規則に風がうなり、甲板は大きく上下に揺れながら、波しぶきは高く、船はますます加速する。


「う、うそでしょ!? こんなに妖精が、うわっ、怖っ! 雨雲みたいになってる!」


船の横を覗き込んだウィルが、落ちた果実をひっくり返したら虫がびっしりついていた時のような顔をして戻ってきた。

妖精って、群れで見ると結構びっくりするものだよね。


私はわずかに微笑んで、腹の中でめぐる熱に意識を向けてた。

指先に力を入れ、船の中を流れる魔力にそっと触れる。


「ねえ、ちょっと待って、ユレイア何してるの!? 今、風を使うなら格子を……! わかった、いいよ僕があけてくる! 何とか関所に侵入して……あっ、招かれないと入れない!」


ウィルの悲鳴を聞きながら、私はマストにかけられたランタンの気配を探りにいった。

ランタンの中で回転する象牙や油が、今どれほどの魔力の渦を生み出しているのか。その激しい流れが、宝石にぶつかって火花を散らすかのように風を巻き起こしていたのかが、するするとまぶたの裏に浮かぶ。


その激しさに、明るさに笑ってしまう。

イヴリンが要求したトパーズのネックレスは、相当立派な品だったらしい。


私は両手で船の縁を掴んで身体を支え、歌うように囁いた。


「私も遠き兄姉達を助けましょう。あなた達がしてくれるように。かつて回帰の竜の背に乗ってこの地に訪れた妖精姫のように」


腹でため込んだ熱を指先から広げ、塊になった魔力を掌のようにかたちづくった。まぶたの裏では、宝石からあふれ出る風をまとめるイメージが浮かぶ。


風はまるで怯えて暴れる猛禽か、あるいは羽の生えた蛇のようだ。絶えずばたばたと跳ね回る風を撫でて落ち着かせ、その勢いを受けとめ、船の側面に流してやる。

再び大きく船が揺れ、がくんと大きく首が揺れた。

ロープでくくられた甲板の荷物が跳ね、フタが弾んでずれる。


「ねえユレイア、ユレイアってば間に合わない! ぶつかるって……!」


ふっと。

あれだけ激しかった振動が唐突に消え去った。

船が斜めにぐらりとずれて、そのまま風が強くなる。


「え……?」


ウィルが目を見開く。

私は歯を食いしばって、押さえつけた風を強くする。

お風呂のお湯を手でかき回して流れを作るような感覚だ。

全身の力を使って頼りない風を押し、必死に魔力を注ぎ込んで船の底へ、マストの真ん中へと吹き付ける。


「うそでしょ……」


ありえない、と言わんばかりにウィルが両手を頬に当てる。

船員達の、歓声とも悲鳴ともつかない声が甲板に響く。


「船が、飛んだ……!」


三本マストの帆船は、妖精と風の魔術に助けられ、ふわりとヘリコプターみたいに浮き上がったのだった。


関所の石壁が、目の前を勢いよく流れていく。さっきまで見上げていた塔の窓を横目に、滝を登る人魚のように空中をさかのぼる。

川にかかる橋に似た関所の屋上で、踊り回っている兵士達と一瞬目が合った気がした。


ちょっとやせ我慢して微笑んで、私はとびきり晴れやかに彼らへ挨拶してみせた。


「ごきげんよう!」


私の声にかぶせて、悲鳴が聞こえた気がしたけれど、その声はすでに足下に流れていって風へと飛ばされた。

倒れ込んでいる岸辺の騎士も、あっけに取られた顔をして私達を見上げている。


下を見るのをやめれば、空は霞がかった宝石のように青く、森は足下に広がって地平線がゆるやかに伸びていた。


森のふちをえぐるようにしてのびる銀色のカウダカウダ川は遠くで大きく蛇行して、ちょうど曲がり角のあたりで高い山脈にぶち当たる。

白っぽい日差しに照らされて山肌に広がるのは、茶色い街。

山頂にそびえるのは、黒い城。


私は息をのみ、ほとんど同時にウィルが呟く。


「黒翼城だ」


懐かしきスペラード伯爵の黒い城が、変わらぬ壮大な姿で私達を待っていた。


思わず声をあげかけたが、瞬間、がくんと船が傾いたので慌てて集中し直した。

とたんに、きーんと耳鳴りがして視界がぐにゃりと揺れた。


当たり前だが、船を飛ばしたのなんかはじめてだ。

一瞬の短い間なのに、既に息が上がっている。

魔力が勢いよく流れたせいで、体中が熱い。鼻の奥の血管が切れて血が流れた。


「ユレイア!」


叫んだウィルが、勢いよく指を鳴らして暴風を巻き上げた。

途端に身体が楽になり、私は大きく息を吸った。

船の底を支える風が柔らかく大きくなり、鼻の下を流れる血を拭う余裕ができる。

ウィルと私の風、それから妖精達に支えられた船が、徐々に川面へ降りていく。


ゆっくり、ゆっくり、本の下に敷いたテーブルクロスを引くように船底へ送る風を減らして、川岸にぶつからないようマストへ送る風を増やす。

ぐらぐらとぶれた舳先が、水面について盛大に水しぶきをまき散らした。

白い線が水上に引かれ、船尾が尻餅のように沈んで大きく甲板が揺れる。


「超え……た……」



どこかで快哉を叫ぶイヴリンの「やったあ!」という無邪気な声が聞こえた。


ほっとした瞬間にめまいがぶり返した。

吐き気が喉にこみ上げて、視界の端が白くぼんやり欠けていく。心臓が爆発しそうに鳴り響いて、背中を冷や汗が流れた。


「やるなら最初から僕を巻き込んでよ!」


心底心配そうな顔のまま、腹立たしそうに言う彼に、ぜいぜい肩で息をしながら揺れる手を顔の前に立てた。


「ご、ごめ……だって……」


だって船を飛ばすなんて信じてくれなさそうだから、と言いかけて、でも苦笑して本音の方を告げる。


「ちょっと……いい格好したくて……」


格好付けの王子様は、きいっと叫ばんばかりに頭を抱えて、やけくそめいて指を鳴らした。


「気持ちは誰よりわかるけど言わせて。馬鹿!」


かすかに笑って、手すりに崩れ落ちるようにして倒れた瞬間、ウィルの冷風が全身を包むのを感じた。



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