42話 運河駆ける小船


「さあユレイア、逃げようか! 僕さえいれば、この船はもう誰にも追いつけない!」


金色の流星のように降ってきたウィルは、まさしく支配者の風格でそう宣言して、頭上に掲げた指を高らかに鳴らした。

途端に、波に翻弄されていた小舟の帆がぱんっと膨らみ、まるでよく懐いた犬のように桟橋へと寄ってきた。


「乗って!」


私は泣きながら笑って大きく頷くと、再会の喜びを込めて半透明の身体をぎゅっと抱きしめた。

もちろん腕の中には冷たい風がふわりと漂っているだけだったが、歓喜を込めて心から叫ぶ。


「ウィル、あなた今、世界で一番格好良いわ!」


それだけ言って、私はかかとを翻して桟橋を走ると、船縁を飛び越えて甲板へ着地した。

何故かウィルは棒立ちでぽかんとしたままだ。周囲で冷風がぐるぐると渦巻いて霧雨が白く蛇のとぐろのように靄となっていていたので、船の上で振り返り、両手を振って声をかける。


「ウィル! ショーン大叔父さんをお願い!」

「えっ! あ、うん、わかってる!」


何度も頷いたウィルが、リズミカルに数回指を鳴らす。

途端に、頭を打って気絶しているらしかったショーン大叔父さんは、両腕を前にぶらんと垂らしてひとりでに起き上がり、白目をむいたままふわふわと甲板へと浮いてきた。


「ウィル! 船倉に兵士が二人居るの知ってる?」

「大丈夫、空から見てた!」


私がショーン大叔父さんを丁寧にマストに寄りかからせている間に、勝手に甲板は下から開き、中から二人の兵士がスイカの種でも噴き出すように放り出される。


「飛ばすよ!」


兵士達が桟橋に着地したのを確認するが早いか、小舟には素晴らしい順風が吹き付けて、運河を弾丸のごとく駆け出した。

この世界にあるはずがないモーターボートのように、時折波の上で弾みすらしながら、船は水面を切り裂く。

あまりの早さでひっくり返りそうになるのをこらえ、私は船縁に掴まって、マストの近くでふわふわ浮いているウィルを振り返った。


「黒翼城までの道、わかる!?」

「僕が何回王子様やってると思ってるのさ。実際に行ったことがなくても、国内の地図は全部頭に入ってるよ!」

「流石! 天才! 尊敬する!」

「わあユレイア優しい、僕の想像するユレイアよりかなり優しい! えへへもっと褒めて!」


彼の中のイメージする私が相当厳しそうなのにはちょっと文句を言いたかったが、船を操っている姿は頼りになる以外の何者でもなかったので、大人しく「おとぎ話の竜騎士みたい! 危機に颯爽と天から現れる救世主!」と言って更に褒めた。ウィルはごきげんでくるりと空中で一回転し、船の速度は更に上がった。


関所を抜けると、周囲の民家はより一層小さく、小さな木の板を寄せ集めたような建物ばかりになっていた。

お陰で頭上からの矢を気にする必要はなく、時々聞こえる馬のいななきや兵士達の声も、あっという間に後ろへと消え去っていった。

追っ手は振り切れるだろうが、それでもまだ助かったとは言えない。

私はショーン大叔父さんを振り返って唇にぐっと力を込めると、再びウィルを見上げた。


「ねえウィル、このあたりに妖精がいるんでしょう?」

「僕に聞くまでもないだろう、ユレイア。この国は気付かれないだけで、どこだって妖精に満ちているよ」


よかった、と頷き、私は白い波が激しく立つ運河を睨んで叫んだ。


「人魚達! いるんでしょう? 居たら私の声に応えて!」

「あ、いや、このあたりの水あんまり綺麗じゃないから、人魚は全然見てない……うわっ!」


ウィルがぎょっとした声を上げると同時に、船の真横で不自然に波が立った。

まるで水に浮かべた布を、真ん中からつまんで立たせたように、むくりと水の塊が膨らんでいる。

イルカが船に併走し、水面すれすれを泳いでいる映像が、ふっと頭にうかぶ。きっと、あそこに居るのだ。


「僕がいくら呼んでも応えないくせに……」


恨みがましげなウィルの声に被せるように、私は波に向かって手をさしのべた。


「優しい歌声の隣人さん。親切で優雅な湖の貴婦人さん。どうか私に人魚の花をちょうだい! 代わりに、綺麗な石のはまった豪華な靴をあげるから!」


とたんに、ざぶりと大きく波が立ち、船縁に海水がかかった。手や胸を盛大に濡らされ、とっさに海水が目に入らないよう目を閉じる。

「つめた……」

「えっ、船を運んでもらうんじゃないの? 人魚の花ネレイス・フォリアだなんて!」


そう騒ぐウィルの声を聞きながら目を開いた時には、膝の上には五枚花弁の青い花が数十輪、こんもりと乗っていた。

私は顔を輝かせて急いで靴を脱ぐと、運河の中に放り込む。


「ありがとう、人魚達! 大好きよ!」


豪華できゃしゃな、ダイヤモンドがちりばめられた靴は、大きく波立った白い飛沫の中に消えて瞬く間に見えなくなる。

しばらく裸足生活になるだろうが、ちっとも惜しくは無かった。


「ちょっと軽率すぎるよユレイア。まだこのあたりには監視の目があちこちについてるんだよ!」


ウィルが、青ざめながらこそこそと私に囁いた。

そういえば、王家だけが使える不死にも近い力を持つ万能薬の原材料は、人魚の花だった。

王太子だったウィルですら、どうやって人魚の花を手に入れるのかを知らされていない、王家の権威を象徴するひとつである神秘の薬。

秘密を知ったとバレれば、確実に王家に目をつけられるらしい。


だけど、それが何だって言うんだろう。



「どうせもう王家には目をつけられてるんだから、今更ちょっと話題が増えたってほとんど同じよ」

「たまにびっくりする程に思い切りいいよね、ユレイア……」

「お褒めにあずかりまして」


私はふんとショーン大叔父さんのようにお行儀悪く鼻を鳴らして、人魚の花を両手で抱えて立ち上がった。

未だに目を覚まさないショーン大叔父さんの正面まで回っていくと、彼の顔色は紙のように白かった。でっぷり突き出た脇腹には矢が貫通し、未だにじわじわと血があふれている。

すぐにでも矢を抜いてあげたかったが、黒翼城の訓練で、矢傷はすぐに抜いてはいけないと教わっていたので堪えた。

それでも心配で口元に手をやれば、ちゃんと息を感じたけれど、触れた頬はぞっとする程冷え切っていた。


人魚の花ネレイス・フォリア、使い方わかる?」

「え、むしって飲ませるつもりだったけど」

「その使い方は、ちょっとわんぱくが過ぎるよ」


トーラス子爵領では軟膏にしたり、煎じてお茶にしたりしていたけれど、こっちを言った方がよかっただろうか。

だけど昔、お兄様が溺れてその身が危なかった時は直接食べさせてどうにかしていたし、普通に効果があったので引かれるのは心外だ。


「そう言うウィルは、作り方を知ってるの?」

「十五歳になった時に、王家の者は作り方を教わるんだよ。最初の人生で覚えたきりだから、ちょっと作り方は怪しいけど」

「お願い、ウィル! 教えて!」

「わかってるよ。もうこうなったら、治すしかないよね。何でショーン叔父さんがユレイアを守ってくれたか知らないけど……」

「本当に色々あったの。ウィル、船を操るのってどれくらい大変? 薬作りを教えながらできそう?」

「君がいない間、僕もただ浮いてただけじゃないよ。物を動かしたり、風を起こしたりはかなり上手くなったから、大丈夫。身体も冷えるし船倉へ降りよう」


ウィルはそう言って指を鳴らすと、再びショーン大叔父さんをふわりと浮かせて、甲板に開いた船倉への入り口へゆっくりと降ろしていった。

私も後を追いかけて、人魚の花をスカートで包み込んで縛り、縄ばしごで慎重に船倉へ降りていく。


マストに引っかかっていたランタンをつけて見渡せば、室内は中々にひどい有様だった。

縄で固定していた木箱は崩れ、毛布がぐちゃぐちゃに絡まっている。

それでも、ウィルがゆっくりと小さな寝台にショーン大叔父さんを寝かせてくれたので、私も毛布を引っ張って抜いて、彼の身体に被せた。

濡れた服を換えてあげたかったが、矢傷を動かすこともできないし、下手に体温を上げたら血が噴き出してしまうかも知れない。仕方なく、濡れた顔をぼろきれで拭いてあげるだけにした。


「ありがとう、ウィル。早速だけど、薬の作り方を教えてくれる?」

「木箱の中にお酒ってあるかな。花と一緒に煮出して、水蒸気を集めて、その水滴を香油や蜜蝋に混ぜ込むんだ」

「お酒はあったけど、香油はないと思う……。燃料の油でいいかな」

「臭うと思うけど、そんなに間違ってはいないはずだよ」

「よかった」


私はほっと頷いて、木箱を正しい位置にひっくり返してランタンの近くに寄せ、鈍い灯りの中で箱を漁った。

まだ酒がもう一本あったので取り出し、小瓶のラベルをいちいち確かめて取り出し、やがてランタンに足す植物油を見つけた。何とトーラス産のひまわり油だ。

食事に使ってもおいしいのに、照明に使うなんて贅沢な船だ。流石、もともと大きな商家の私物なだけある。


「ねえウィル、ランタン取ってくれる? あと、人魚の花って、お酒が冷えてる時にいれていい? それとも、沸いてから入れる? そのまま入れる? 千切って入れる?」


ウィルを振り返ってそう言ったら、ウィルは人形のように完璧に整った顔で深々とため息をつき、指を鳴らした。

マストに吊り下げられたランタンは、彼の力でふわりと浮き上がり、周囲の影はかしづくように伸び縮みする。


「何、ため息なんかついて。思い出せない?」

「いや……冷たいまま、千切って入れるんだけど……」

「あ、よかった」

「なんか、僕、もっと再会ってこう……余韻というか、何しろ久しぶりな訳だからさ……」


どうやら、怒濤の勢いで人魚の花クッキングが始まってしまったのが、今更ちょっと気になったらしい。

空中に手を伸ばしてランタンを受け取って、そう? と私は照れ笑いをした。


「ウィルが居るから、これだけ元気でいられる、ってことよ。頼りにしてるわ、回帰の王陛下」


ウィルは、低い天井付近まで浮き上がると、しばらく黙って天を仰いだ後、あー……と呻いた。

何だかちょっと会わない間に、仕草が少し雑になっている。私も大変だったけれど、彼もまた苦労していたのだろうか。


「あのさ……本当にこれは、君のせいではないとはわかってるんだけど、その、言わせてくれる?」

「えっ、何?」


私は、ランタンの上に酒と人魚の花を入れたカップを設置しながら聞いた。


「怒らない?」

「内容による」

「えーと、わかった。覚悟だけして言う」


しばらく腕を組んでから神妙な顔で内容を吟味したウィルは、よし、と改めて頷き、私に向き直った。

私もとりあえず真面目な顔をとりつくろって、空中に浮いた幽霊に顔を向ける。

彼は、深く慎重に息を吸ってから、もう限界、とばかりに叫んだ。


「聞いてないよ! 君が竜のレガリアだったなんて! 何で!? 言ってよ! もしそんな事聞いてたら、僕は赤ん坊の君を神殿で見た時、絶対に離したりなんかしなかったのに!」


私が全面的に悪かったら大人しく反省しようと思っていたが、それに関しては非常に言いたいことがあるので、宣言通り猛然と反発した。


「私だって初めて知ったんだから仕方ないじゃない! 言える訳ないでしょ!」

「だから、わかってるって! 君のせいではないことはわかってるけど、でも竜のレガリアなんだよ? 流石に言いたいよ! だいたいユレイア、どうして僕が数日いないだけでこんなになっちゃってるの!? 僕もうここ十数日、胃が切り裂かれそうだったよ!」

「何よ胃袋ないくせに! 私がどれだけ心配したと思ってるの、あなたが自分の幻覚かも知れないって頭の方まで疑ったんだからね!」

「あっ、自分ばっかり心配してると思って! 首都の周りをけなげに飛び回って噂を集めて、そのたびにとんでもない情報しか出てこなくって恐い恐いって叫んじゃった僕の気持ちがわかる? その上こんな事になって、どれだけ幽霊の自分を恨んだか知らないでしょ!」

「私だって、周りに疑われないようにウィルのことを探すために毎晩毎晩悩んで片っ端から色んな方法試したけど!? 副産物で魔術まで見つけちゃったんだから!」

「待って! 恐い! 恐い恐い噂より本物の方が恐い! やめてこれ以上とんでもない情報ぶつけないで、心臓止まっちゃう!」

「止まってるでしょ! そんなに怖がるならちゃんと戻ってくればよかったのに! そもそもウィルが私から目を離したのが悪いんじゃない!」

「僕だって離れたくなんかなかったよ! すぐにだってずっと、君の元に戻りたかったよ!」

「私だって傍に居て欲しかったに決まってるでしょ! ずっとずっと、戻って来て欲しかったに決まってる! どれだけ寂しかったか知らないくせに!」


えっ……? と急にウィルが口ごもったので、私は勢いをつけすぎてつんのめった猫の仔のように、ちょっと気まずくまばたきをした。

ウィルは視線を周囲にさまよわせ、人差し指をつまんでぐにぐにと捏ね、さっきまでの勢いはどこへ行ったのかと思うような小声で尋ねた。


「さ……寂しかったの?」

「当たり前でしょ」


彼の周囲で冷たい風が不規則に渦を巻き、倒れていた木箱がひとりでに部屋の隅に飛んでいってロープで固定されたり、ショーン大叔父さんの毛布が綺麗にたたみ直されて包まれたりした。

ひとしきり黙るから何かと思ったが、ウィルはおずおず空中から降りてきて、私と同じ視線に立って申し訳なさそうに囁く。


「うるさいのがいなくなって、……せいせいしたとか思ってない?」


本気で言っている顔だったのが無性に悔しくて、私はぎゅっと唇をへの字に曲げた。


「ばかっ……!」


鼻の奥がつんとするのが悔しい。今日の私は涙腺がひどく脆いようだった。


「ごめん……」


ウィルは何でかちょっとだけ嬉しそうな顔をして、うつむくように頷いて言った。


何となく、気恥ずかしいような沈黙が落ちる。

そういえば大声で騒いでしまった、と今更気付いてショーン大叔父さんを見たが、彼は未だにぐったりと眠っている。

ひとまず胸を撫で下ろしたその時、ちょうどしゅんしゅんと酒の入ったカップが沸いた音がしたので、私は慌ててランタンの方へ向き直った。


「えっと、これどうするの?」

「あ、いいよ。やるから」


私は蒸気を集めるために金属の小さなお皿をフタのように掲げ、ウィルはぱちんと指を鳴らす。

白っぽい水蒸気は薄い綿のようにまとまって、ひまわり油が入った小瓶に次々と詰め込まれていく。


「そんなことも出来るようになったの? すごいね、ウィル」

「お褒めいただき、虹の神の御手に触れられたような心地です」


ウィルはもったいぶって優雅に頭を下げ、ついでに船倉に積もっていた埃やゴミを瞬く間に部屋の隅へ追いやってみせた。

私が見つけた制約だらけの不便な魔術よりも、彼の力の方がよっぽど便利で魔法めいている。

こんなに不思議な力を持った幽霊の王子様と普通に話して、喧嘩なんか出来るだなんて、改めて考えたら本当に不思議な話だ。

もしも前世の私ならば、交流するどころかニュースで見ることだってまれだったろうに。


ひまわり油の瓶を持ちながら、私はぐつぐつと沸くお皿に向き直る。


「人魚の花、もう少し追加する?」

人魚の花ネレイス・フォリアを取れたてキャベツみたいに気軽に使える人、ユレイアくらいだろうね……。僕が王太子の時だって、こーんなキラキラした木箱に入った干からびた花一本を、慎重に小分けにして使ってたのに……」

「このくらいで十分なら、残りはとっておくけど」

「これ以上危ない品を残さないで。全部使って、残りカスは運河に流そう」

「そういうことは、せっかく摘んできてくれた人魚に失礼なことよ。そんなに食料も豊富じゃないし、食べちゃえばいいじゃない」

「大丈夫なの!?」

「筋肉痛が治るよ」

「経験済みかぁ……」


ぶつぶつと「トーラス子爵領、こわすぎる……」などと呟いているウィルをよそに、私は順調に人魚の花を引きちぎってカップにこんもりと入れた。

海の香りがする花は、酒に溶かすと驚くほど縮んで雪のように溶け、酒に青い色が濃く深くなっていく。カエルレウム公爵令嬢の瞳のようだ。

ふいに、あの幼さを感じさせない完璧な令嬢のことを思い出したら、目の前で腕組みをしているウィルがひどく不思議に感じた。


「……トーラス子爵領より、王宮の方が変だったわ」


カエルレウム公爵令嬢みたいに小さな女の子が、完璧に貴族として大人の扱いを受けていて、誰もそれを変だなんて思わない。

着る物ひとつ、髪飾りひとつ。誰に話しかけるかひとつにも明確な規則があって、破れば親戚一同が破滅するかも知れないなんて、妖精に声をかけられるくらい変なことだと思う。

ウィルは、ふっとしかめっ面の私に気付くと、腕をほどいて苦笑した。


「ただの常識の違い、ってわかってるんだけどね」


うん、と私は頷いた。

前にもこんな話をして、喧嘩になった気がする。

その時よりも随分穏やかな気持ちで、私は自分とウィルが違うことを受けとめられる気がした。

私は、ぐにゃぐにゃした人魚の花の茎をぷちんと引っ張って千切りながら、囁くようにして尋ねた。


「ねえ、ウィルはずっとどこに居たの? どうして、あの夜から帰って来られなくなったの?」


ウィルはちょっとだけ口ごもり、それから諦めたように静かに言った。


「どんなに変なことを言っても、信じてくれる?」


幽霊の王子様が、回帰の王が何を言っているのと笑い飛ばそうと思ったけれど、その表情があまりにも静かだったから、私は戸惑った。

感情豊かなウィルが静けさをまとうと、彼が人形のごとく整った、神様が丁寧に作り上げたような完璧な美貌だということを思い出してしまう。


きっと、私が竜のレガリアだと数多の神官達に告げられたのと同じように、ウィルにも何かあったのだ。


「……わかった」


神妙な顔で頷くと、ウィルはほんの少しだけ微笑んで、よかった、と呟いた。


「……僕はね、あの日君と別れてから真っ先に……第一王妃様の宮殿に行ったんだ」

「お母様の?」

「うん。……寝込んでた。すごく痩せてしまって、ずっと起きなくて……」


大切な一人息子を失ってしまったのだ。その悲しみは想像するだに痛ましく、私は唇を噛みしめた。


「かわいそうに……」

「恐い人で、冷たい人だと思ってたから……すごく驚いた」

「知らなかったの?」

「だって、幽霊になるのは初めてだからね。僕のことを失った人を見るのも、初めてで……」

「そうじゃなくて、人生を三回もやっているのに、お母様のことを誤解してたの、ってこと」

「けっこう遠慮無く耳の痛いこと言うよね、ユレイア」

「そう?」


とぼけて見せたけれど、そうかも知れない。

私は前世からずっと言いたいことを我慢して、何にも言えないまま過ごしたし、今世だってトーラス子爵領の家族や、黒翼城の人達に隠している事が沢山ある。

だから、逆に何の秘密も持たなくてもいいウィルには、思いのほか何でもかんでもずけずけ言ってしまうような気はした。


「……でも、確かに、僕は第一王妃様を誤解していたと思う。僕のことに興味がないんだって、ずっと思っていたから。それで、動揺しちゃって……逃げ出したんだ」

「どこに? 自分の部屋とか?」

「惜しい。……自分の棺がある所だよ」

「行くんだ! そういう場所」

「そりゃ、行くよ。何かの機会で幽霊になったら、結構な人が行くと思うな」

「それは……そうかも」


私だったらどうだろう。親しい人の所に行った後は、その人の近くにくっついて回っていそうだけれど。


「知っている? 王太子の棺はアウローラ大神殿の地下深くに納められているんだ。青石の儀が行われるまでは、相応しい衣装に包まれ、豪華な調度品と共に眠っている。第一王妃様は神殿に関わりが深かったから、僕もそのあたりの地図は頭に入っていてね、普段は行けない、アウローラ大神殿の奥深くまで進んでいった。そうしたら……僕の棺の周りに、物凄い数の妖精が居たんだ」

「妖精!?」


私は喧嘩の時よりも大きな声を出して身を乗り出した。


「どんな妖精? 小さな人の形? 羽の生えたトカゲみたいなの? 小さなキノコみたいなのとか、羽が沢山ある鳩とか?」

「え、食いつくのそこなんだ。えっと、トカゲが多かったかな……」

「トカゲかー! そうよね、オーブだもんね、首都オーブをうろついてるのは大体トカゲだもの!」

「話、続けて良い?」

「あ、はい」


失礼しました、とばかりに咳払いをした私にちょっと笑って、ウィルはまた静かな口調で続けた。


「棺に集まっていた沢山の妖精が、僕の所に集まって、僕のことを押したよ。大神殿の奥の開かずの扉の方に、行け、行けって言ってるみたいに……。絶対にこれは何かがあると思って、僕もそれに従った」


私は息を飲んで話に聞き入った。

不思議と、その景色すら見えるようだった。


古びた、回帰の竜と妖精姫の文様が刻まれた金属の板に手を置き、吸い込まれていく半透明の幽霊。

その周囲を、羽を持ったトカゲや、細長い蛇のような妖精が行き交い、時折頭突きや、尾で撫でるようにして急かしている……。


「鍵がかかった神殿の扉をすり抜けて、長い地下の通路を、ずっとずっと進んだ。君の元に帰ろうかと思ったけど、全部確かめてからの方がいいと思って、前に進み続けた。……通路は真っ暗だったから、妖精達が光っているのが、とても綺麗だった。入れ替わり、立ち替わりする妖精達と共に、今が朝なのか昼なのかも分からなくなるくらい進んで、進んで……ある時、ようやく大きな広間に出たよ。アウローラ王城がまるごと入りそうな、大きな大きな洞窟だった」


淡々と静かに語るウィルから、だんだんと表情が消えていった。

その声の静けさと、語る言葉の異様さに、私は心臓がどくどくと逸るのを感じていた。


地の底を歩き続けるウィルは、何を思ったんだろう。

闇の底で行き交う妖精達が淡く輝き、彼らに先導されて、あるいは追い抜いて、音もなく進んでいる金の髪の少年は。


「そこでね、僕は」


ウィルの声がかすかに震えた。

豪華なまつげの大きな金色の瞳が、わずかに揺れて私を見つめている。そのくせ、柔らかく巻いた金の髪は彫刻のごとく固まって、時が止まっているようだ。

血の気のない白い唇がゆっくりと動き、かすれた吐息に近い言葉を吐いた。


「回帰の竜を見たんだ」


私は静かに息を飲んだ。

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