41話 目の前に降る金の流星


ざぶざぶと船板を波が叩いている。

湿った闇の中で、水の音は耳に強くこびりついた。


夜半過ぎに出発した小舟は、無事に大きな商家の隠し通路をくぐり抜けた。

古びた倉庫に偽造した扉を開き、誰にも気付かれないように閉じた私達の船は、曇天の闇の中、大きな屋敷の裏口が並ぶ巨大な運河を小魚のように進んでいた。


頭上で、ショーン大叔父さんが甲板で忙しくどたばたと駆け回る音が伝わってくる。ハンモックを繋いだフックから網へ、そして頬や肩が、細かく震える。


「ああ……もう……! 信じられん、くそ……降ってきおった!」


時折、どこかしらの神に文句を垂れるような独り言が聞こえてきたが、もはや彼の愚痴に苛立つことはなかった。

この足音は、私のために駆け回ってくれている人の足音だ。

向いていないと大声で騒ぐくせに、そう言いながらも働く人なのだと、どうして今になって気付いてしまったのだろう。

せめてロープの一本でも巻いて、船を操る手伝いのひとつでもしてあげたかったが「どこかの貴族屋敷から、顔を知っている奴らに見られたらどうしてくれる」の一言で退けられてしまった。

偽造倉庫の扉を閉める時だけは手伝ったが、それが終わればあっという間に船室へ逆戻りだ。もう後は船倉で大人しく丸くなっているしか方法はない。


──私が、王位継承者を選ぶ権利を持つ、竜のレガリアだから……。


様々な不安が胸に去来した。

本当に首都オーブを脱出出来るのだろうか。関所は封鎖されていないだろうか。疑われて掴まったら、私はどうなるのだろう。今、私はどのあたりに居るのだろう。


ヨットに近い一本マストの小さな船に窓などなく、私は今船がどこに居るのかも分からなかった。

ハンモックの寝心地は思ったよりも悪くはなかったが、こんな状況で眠れる訳もない。


──回帰の王が誰かを、私は確かに知っている。でも、ウィルはもう死んでしまった。この世界線に、もう回帰の王が即位する未来は現れない。彼が死んでしまうんだ。この後、この世界の私が生き延びられる保証もない……。


私は目を開いたまま闇を見つめ、ぐるぐると風車のように回る思考の渦に沈んでいた。


──来年の冬、私達は回帰する。ウィルが生まれた時からやり直す。巻き戻された後、この世界はどうなるのだろう……。記憶が消えてしまい、なかったことになるのだろうか。


ブーツの中のつま先が冷たくて、私はぎゅっぎゅと指先を閉じたり開いたりしながら、膝を抱えるように身じろぎをした。

甲板から「……ああ、くそ。……そうだった、ここで外しておかないと……面倒な。もうすっかり忘れてるじゃないか……そうか、アースが生まれる前か……」そうぼやくショーン大叔父さんの声がくっきり聞こえるのは、きっと彼が寝そべるような体勢で、マストを操っているからだ。

全身を深く傾けて、雨に濡れながら夜の運河を進んだことを、回帰すれば彼は忘れてしまう。いいや、なかったことになるのだ。


普通に時が流れたら、きっと、十年経っても恩着せがましく酒の席なんかで口に出して、娘の姿になった私に苦笑いされていたはずなのに。

彼だけではない。

厳格ながら優しいスペラード伯爵も、無口で有能な老侍女アメリも、無表情で好奇心旺盛なイヴリンも、熱血護衛騎士のバーナードも、厳しく賢いシレーネ大叔母さんも、誰一人として、この日々を覚えていくことは出来ないのだ。


──忘れてしまう。なかったことになる。皆、みんな。回帰の王以外の全ては、時間など超えられないのだから……。


寂しさに口元をぎゅっと歪め、鼻の奥がつんとするのをこらえた私は、


「……あれ?」


突然、流星のように落下してきたひらめきに、思わず両手を頭に当てた。


──私は、どうなんだ?


大事な予定をすっかり忘れて、手帳を見て青ざめた時のように、さあっと血の気が引いていくのがわかる。


──私だって、巻き戻された後に記憶を持っている保証も、どこにもない!


どうして、私は自分ばかりを特別扱いしているのだろう。

回帰の王は、亡き王太子ウィリアムだけ。私の幽霊の王子様だけ。


ウィルは、そのことに気付いていたのだろうか? もしかして、幽霊の自分を見てくれる存在に浮かれて、すっかり抜け落ちていたりはしないだろうか? それとも、本当は気付いていたけれど、知らんふりしていただけ?


そもそも、ウィルはずっと孤独に回帰していた。その秘密を共有した相手は、おそらく私が初めてなはずだ。

つまり、彼自身も自分が死んでしまった後の世界がどうなったかは分からないのではないだろうか?


ばくばくと心臓がはやり、背中に変な汗が垂れた。嫌な予想が頭の中で勝手に組み上がり、嫌いな噂話みたいに、嫌なのに聞かずにはいられない。


「もしも……」


ウィルが今まで『回帰した過去』だと認識していたのが、アウローラ王国とそっくり同じだけど少しだけ違う、パラレルワールドのアウローラ王国だったとしたら?

ウィル本人には何の影響もない。

今までと同じように十年前に戻り、全てを忘れた過去の人間と、今度こそ生き延びて王になるよう努力するだけだ。


でも、私は? 置いて行かれた私の立場から考えたら?


「ウィルだけ消えて……私はこの世界に残る……」


私は知らず、乾いた唇を震わせ、口元を押さえた。


嫌だ!


猛烈な悲鳴が内側から吹き上がり、身体の中の熱が逆流するようだった。


嫌だ嫌だ、嫌だ。考えたくもない。


私はお母様を、お父様を、お姉様を、お兄様を、トーラス子爵領のお祖父様とお祖母様を取り戻すんだ。あの優しい家族を、もう一度抱きしめるんだ。

来年の冬までにリチャード王弟にきっちり復讐をして、その後に、心置きなく家族の元へ戻る。それが理想だ。その為に、私はずっとウィルと同盟を組んでいたんだから!


両手を口で押さえ、涙目になりながら必死で悲鳴をこらえる。

私の心に呼応するように、大きく船が揺れた。水路の壁に跳ね返った波が高かったのだろうか。

ハンモックが軋んで揺れて、私の身体も大きくかしぐ。ショーン大叔父さんの悪態が聞こえた。


信じないと泣き喚いていたけれど、私はこんなにもウィルの話を希望として信じていたんだ。


私が竜のレガリアだという事実だけが残ったこの世界で、ありもしない真の王位継承者を無理矢理指定させられる世界に、希望なんかあるものか。

もしもウィルだけ消えてしまって、何も知らない私に再び出会うのだとしたら、私はその見知らぬ自分自身を、誰より嫉妬し、泣きながら恨むだろう。


船が揺れている。ショーン大叔父さんのわめき声が聞こえる。柱に縛り付けた筈の木箱も、ガタガタと蓋が揺れていた。灯のないランタンが細かい砂にぶつかったように音を立てる。

なんて勝手なんだろう。

大切だと思える相手と出会えたこと、彼らと別れることを惜しんだくせに、家族を救えないかも知れないとなったら、狂おしい程に恐怖するだなんて。


でも、駄目だ。絶対に駄目だ。それだけは、許せない。


がたがたと身体が震えだし、居ても立ってもいられない。身体を横たえているのも辛くて、思わず起き上がって床に飛び降りた。

尻餅をついたけれど、揺れる床に膝をついて、壁際の、ショーン大叔父さんの寝床へよたよたと這いずった。

不安が刃のように胸を切り裂き、頭がぐらぐらと揺れる。とにかく身体を温めたくて、置いてあったはずの毛布を手探りする。見つからない。空っぽの酒瓶が、冷たい感触を返すばかりだ。


かたん


その時、船の揺れで留め金が外れたのか、風に押されたのか、甲板の戸板がひとりでにずれた。

天井から細い光が差し込んで、暗い船倉を照らし出す。


ランタンひとつの光にしては、随分と明るい気がした。

狭い倉庫を、金色の粉のような霧雨が吹き込んできているのまでよく見える。

黄ばんだハンモックは芋虫のように大きく膨らみ、探していた毛布が筒状に丸まっていた。

私は毛布なんか掛けていなかった。いつの間に、あんな所に移動したのだろう。


──妖精達のいたずら?


首をかしげた時、甲板に開いた隙間から、知らない声がした。


「本当に、居るんだろうな?」


全身の皮膚が泡立った。

緊張で、何もかもが分からなくなる。一瞬頭がきいんと白くなって、心臓の音だけがばくばくと耳に大きかった。


「もちろん。ただのしみったれた密輸なんかじゃない。王都を出れば、私は宰相だ」


ショーン大叔父さんの小馬鹿にしたような声が、風に紛れて聞こえてくる。

足音が複数。どん、どん、と振動して甲板に増えていく。大きく揺れる船が、ほんのわずか沈んだ気がした。


「中を確認させろ」

「逃げられたらやっかいなんでね。船倉に入るなよ」


がたん、と更に大きく甲板が開き、さしこむ光が大きくなる。知らない人間の声も、またはっきりと聞こえる。


「どこだ」

「あのハンモックだ。眠っている」

「ぼろ布にしか見えないぞ」

「変装させているんだ。この子供を、今夜私のご主人様の元に運ぶ約束をしている。君が今、思い浮かべている方と、私の仕える方は同じだ」


四角く落ちた光を切り取って、二人分の人間の影が落ちる。

私は悲鳴を押し殺しながら、壁際に縮こまって光が当たらぬように膝を抱えた。


「もう少し、早く出られなかったものなのか。我が隊の被害は甚大だ」

「そこまでは私の預かり知らぬところだ。……ほら、見てみろ。私を信頼してあんなに無防備に眠っている。大丈夫だ、私はあの子の大叔父なのだから。しょせん、少し優しくすればころりと信頼する子供だ」


ショーン大叔父さんの、うわずった荒い吐息が嫌に耳につく。舌の奥が強ばって、無意識に掌へ爪がきつく刺さった。


どうしよう、どうしよう、どうしよう!


硬い靴音がまたひとつ増え、床に落ちる光にもうひとつ、影が差した。


「やはり、よく見えない。私はユレイア様のお顔を存じ上げている。確認させてもらう」

「おい、入るなと言っただろう」


大叔父さんの制止を遮って、誰かが船倉へ飛び降りてきた。

背の高い壮年の姿は、王都の警備を任された兵士らしかった。よく街角に、こんな制服を着た兵士が立っているのを見たことがある。


兵士は、暗い船倉にまだ慣れていないのか、目を細めながらハンモックへ近づいてくる。


「顔を確かめるだけだ。傷つけはしない」


全身が鉄の手で掴まれたような緊張で、舌の裏側まで強ばっている。

がたがた全身が震え、気が遠くなりそうだ。理不尽に襲いかかる騎士達の靴の音を、私は世界で一番、恐ろしいと思った。


──でも。


私は、関節が軋む音にすら怯えながら、そろそろと酒瓶を握って、膝に抱え込む。

壮年の兵士は、ゆっくりと揺れるハンモックに近づき、軋む根元に手を当てた。その横顔を睨みながら、私はゆっくりと立ち上がる。


「失礼します……あれ?」


気配を感じたのか、兵士が私を振り返った。瓶を持ったまま私は立ちすくむ。


「おい! こっちを見ろ!」


その瞬間、ショーン大叔父さんの鋭い声がして、兵士が反射的に上を向いた。


今しかない!


私は痺れた足で走り出すと、思いっきり酒瓶を振り抜き、兵士の膝裏に叩きつけた。


「うわぁ!」


つんのめった兵士が崩れ落ちると同時に、甲板の上で、また別の若い兵士の声がする。


「確認が取れました。ショーンと取引などしていないと!」

「ああ、王族の連絡の早さは本当に嫌になる! 情報戦では負け知らずのアウローラ王国に栄光あれ!」


やけくそのように叫ぶショーン大叔父さんの声と共に、もう一人の兵士が甲板から落下してきた。さっき報告をした声が悲鳴になって、甲板に叩きつけられる。


一瞬遅れて、ショーン大叔父さんまでが飛び降りてきて、狭い船室は一杯になった。

ショーン大叔父さんは、倒れた二人の兵士の背中にまとめて乗ると、


「ユレイア、毛布よこしなさい!」


そう鋭く叫んで、体格の良さを生かし、壮年の兵士の首を絞め始める。


「は、はい!」


私は慌ててハンモックから毛布を引きずり下ろすと、ショーン大叔父さんから逃れようと喚いている兵士達の顔に広げて押しつけた。

視界が真っ暗になった彼らの隙をついて、ショーン大叔父さんは何とか二人の兵士を一人づつ締めあげ、昏倒させる。


「すぐ起きるぞ。ああ、最悪だ、関所はだいたい五人組なんだ。面倒なことになった」


そう言いながら、ショーン大叔父さんは私を持ち上げ、甲板に押し上げる。

縄ばしごを掴んで登りながら、私は息を弾ませながら小さく謝った。


「ショーン大叔父さん、ちょっと疑ってごめんなさい」

「悲鳴をあげて騒がなかっただけで及第点だ。……というか、君はもうちょっと疑うことを覚えた方がいいな。そういう面では落第だ」


甲板に出ると、運河の両脇には雑多な民家が連なり、目の前に大きなアーチ型の白い橋がそびえ立っていた。

関所は、霧雨でも消えない松明が、きつい油の臭いをさせながらごうごうと燃えて光を放っている。

橋の上に、白い建物が四角く乗せられ、橋の下には、川面より幾分高い場所に、電車の踏切みたいに木の板が渡されて通る船を拒んでいた。


「あれが関所ですか?」


私は、甲板に開いた船倉への出入り口をはめ直しながら聞いた。


「そう。あの橋をくぐればオーブを出る。跳ね板を上げてくるから、落ちないようにだけ気をつけなさい。さっきから、波も風も妙なんでね」


確かに、言われてみれば妙な天気だった。

関所の内側、首都オーブ側は風もなく穏やかなのに、橋の向こう側はごうごうと風が荒れ狂い、波がやたらと高い。

そのせいで、まるで浜辺のように一方的な波が絶え間なく川を駆け上り、小さな船を翻弄していた。

こんな変な波、妖精のいたずらでも見たことがない。船は大丈夫だろうか。


「船の操縦を教えてください!」

「風圧で飛ばされるだけだ、大人しく……ああ、もう来たか!」


ショーン大叔父さんが、船のへりへ足を向けながら顔をしかめる。

既に新たな兵士が、狭い船に飛び乗ってきた所だった。

ちらりと関所を見れば、運河沿いにのびた桟橋から、また二人、別の兵士が駆け出しているのが見える。


「くそ、こんな小さい運河にまで規定の数が居るのか。夜中なんだから良い子で寝ていればいいものを!」


ショーン大叔父さんは、自分よりもうんと若い騎士の足を綺麗に払って、甲板の向こうへ放り投げた。悲鳴と共に、大きな水音が運河に響く。


「ああ、きつい。こっちはさっきまで濡れながらロープを握ってたんだぞ。何て不運なんだ、信じられん」


ショーン大叔父さんはぶつぶつ言いながら、いつの間にか奪っていたらしい剣の鞘をわずかにずらし、大仰にため息をついてきっちり納め直す。


「なんだこの手入れのなってない剣は。うちの騎士団なら入団からやり直しだぞ」


彼は刃を使うことはしないのか、剣帯でぐるぐると柄と鞘を縛り、感触を確かめるように振った。

また新たに現れた兵士の横っ面を叩いて川面にたたき落とし、また次の兵士は襟首を掴んで甲板へ引きずり込むとうつ伏せに倒し、鞘でうなじを叩いて気絶させる。

私は折っていた指が拳になったことを確認して、五人、と心の中でつぶやき、ぜいぜい肩で息をするショーン大叔父さんをまた見つめる。


「ショーン大叔父さん、戦えたんですね……」

「弓競べで何を見ていたんだ。こんなの、戦えるうちに入らん。スペラード伯爵家の基準で言えば、下の下もいいとこだ」


本気で嫌そうに言われたので謙遜ではないのっだろう。

確かに、これで下の下だとしたら、ちょっと黒翼城で騎士として過ごすのは大変かも知れない。

しかし、このような手際を見せられてそんな事を言われると、流石に格好良くて拍手しか出てこない。


「ですが、素晴らしい手腕です」


私一人が上げる喝采に、ショーン大叔父さんはちょっと動揺した風に目を泳がせてから、ふっと笑い、たっぷりした腹を突き出して、肩をそびやかした。


「まあ、関所程度の兵士には遅れを取るまいよ」


言いながら、ショーン大叔父さんは、気絶した騎士の襟首を掴んで引きずり、甲板の向こう側にある桟橋へと投げ出した。

ごとん、と痛そうな音をさせて呻く兵士の脇を通って桟橋へ登ると、船を繋いでいたもやい綱を手早く外した。


「あー、さっさとマストにでも掴まっていなさい。すぐに出発……」


するから、と言いかけた声が急に強ばり、ショーン大叔父さんは勢いよく身体を地面に投げ出した。

彼が伏せた瞬間、一本の矢が空から闇を貫き、甲板に突き立つ。


「伏せていなさい!」


鋭い声に従おうとした瞬間、次の矢が私のスカートの裾を射貫き、マストに刺さった。

目を見開いているうちに、次の矢が反対側のスカートも射貫き、私はピンを刺された虫のようにマストにへばりつく。


「増援にしても、早すぎるだろう!」


大叔父さんは舌打ちをして私のところに駈け寄ると、次々と矢を抜いて、マストの後ろ側に隠れると、嫌そうに呟いた。


「まともな弓使いがいるな」


まさか、偶然ではなく狙ってスカートの裾を射貫いたのだろうか。

尋常ではない腕前に青ざめる私の横で、ショーン大叔父さんは畳んでいた帆を広げる。

けれど、風は凪いでいて、だらりと力なく垂れ下がるだけだ。

関所の向こうはあんなに風が強いのに。

むしろ、流れに逆らう波が押し寄せているせいで、もやい綱を失った船はじりじりと後ろへ流されている。


「信じられん! 何なんだこの波は! 何だ、俺はこんなところでも運がないのか!」


ショーン大叔父さんがわめき、ほとんど同時に、マストの反対側に矢が刺さる。

その無慈悲な音に、恐怖で全身が震える。足がすくんで涙がにじむ。

浅い息で胸を上下させながら、私は震える唇でショーン大叔父さんを見上げて言った。


「わ……私が、跳ね板をあげてきます」

「馬鹿者! 大人しくしていなさい!」


すごい剣幕で怒鳴られた。私はほとんど泣きながら、猛然と叫び返す。


「わ、私は無事でないといけないはずです! 矢は飛んできません!」

「生意気言うな、私が義兄殿に殺されるわ!」

「しょ、ショーン大叔父さんがハリネズミになったら、私がシレーネ大叔母さんに塔へ吊されてしまいます!」

「いいや、ここで勝手を許したら吊されるのは私の方だね! あいつはアメリと組んで私を吊すに決まってる!」

「では、他に方法があるのですか!」


うっと詰まったショーン大叔父さんの目を見て、私は頷くとマストの影から飛び出した。

思った通りに矢は飛んでこず、甲板を駆け抜けた私は、船縁をよじ登って、既にかなり離れた桟橋へ飛び移った。

気絶している兵士を避け、霧雨に濡れた黒い板の上を駆け抜ける。


「ええい、こら、待ちなさい! ああ、くそ! 跳ね板は手前のロープを巻きあげるんだぞ!」

「はい!」


痛いほど暴れていた心臓は、橋の下に入った時でも収まらなかった。

跳ね板の手前に、取っ手のついた大きなコマのような装置を見つけて、慌てて駈け寄り、取っ手を掴む。

一瞬向きが分からなかったが、回転させてからは早かった。よく手入れされているのか、ぐるぐると回ってロープを巻き上げると同時に、跳ね板が滑らかに上がっていく。


「やった……!」


がこん、と上がりきって思わず快哉を叫ぶ。


ショーン大叔父さんは、甲板にあった櫂を使い、波に翻弄される船を何とか操って、橋の下へ誘導しようと躍起になっている。

何とか再び船に飛び移れないかと桟橋のへりへ駈け寄った時、ショーン大叔父さんの目が大きく見開かれた。


「ユレイア、馬鹿、後ろだ!」


声と同時に、腕を強い力で掴まれた。

悲鳴を上げながら振り返り、私もまた目を丸くした。弓を片手に、矢筒を背負ったのは、知っている顔だった。

かつて弓競べに出場していた美形の神官。確かテラと呼ばれていた男だ。

レイモンド王子が、相談相手だと言っていたけれど、まさかこんな所で会うなんて。


「来ていただきます。私の主の元へ」


彼は、橋の上の建物に隠れて弓を引き、私が桟橋を走るのを見て、階段を駆け下りたのだろう。

髪を振り乱して汗まみれ、薄汚れて息は上がっていたが、腕を掴む力は強く、振りほどけなかった。


「やめて、離して! 嫌がる子供を連れ去るなんて、慈悲深き光の神が嘆きますよ!」

「どうでしょう。神の思し召しは私程度には計り知れないものです」


神官テラの声は乱れて掠れていたが、腕の方はびくともしない。

向こう臑を蹴り飛ばしながら暴れていると、大きな足音がして、桟橋が揺れた。

振り返れば、船を捨てて桟橋に飛び移ったショーン大叔父さんが、剣の鞘をはらってこちらに刃を向けているところだった。


「その子供を離せ。銀鷲の爪は矢音より先にきさまの心臓へ届くぞ」

「……なるほど」


神官テラは、かすかに眉をしかめると、思いの他あっさりと私の手を離した。

慌ててショーン大叔父さんの所に駈け寄ろうとした私の背後で、ぎりりと縄が軋むような音がする。

ぞっとして振り返ったのと、ショーン大叔父さんが喚きながら私の腕を引いたのは同時だった。

カカカッ、と乾いた木を叩くような音がする。

明確に私を狙った矢が、桟橋に三本、ほとんど間を置かずに突き立った。


傷をつけずに保護するつもりじゃなかったの?


混乱する私の真上から、苦しそうなうめき声と、鉄さび臭い赤い雫がどろりと降ってきた。

顔を上げれば、ショーン大叔父さんは、脇腹を押さえて呻いていた。その指から、矢羽根が不気味に延びている。


「大叔父さんっ!」


私は真っ青になって悲鳴をあげた。

彼は硬直する私の頭や肩をぎこちなく撫でて、脂汗まみれの顔を上げ、満足そうに言った。


「よし、刺さってないな」


ぼろぼろと頬に涙がこぼれた。

私はむちゃくちゃに涙を拭いながらショーン大叔父さんの顔を睨みつけた。


「傷の治りが遅いんじゃなかったんですか。命なんか賭けられないんじゃなかったんですか」

「馬鹿言え、避けそこねただけだ」


神官のテラの足音が、無慈悲に私達に近づいてくる。

ショーン大叔父さんは、すがりつく私の手をはらい、長く深い呼吸をしながら再び剣を構えた。

たっぷり太った体型のはずなのに、はっとする程、綺麗な背筋と姿勢だった。

そのたたずまいに圧されてか、神官テラの足音が止まる。

彼は私に顎をしゃくって、船へ乗れと目で指示を出す。


「さあ、走れ。掴まるまでは、精一杯、走りなさい」

「む、無理です」

「自由はな。一度手放したら、なかなか戻らないもんだ」


私は唇を震わせながら首を左右に振った。

神官テラとショーン大叔父さんは、静かに睨みあいながら、じりじりと距離を測っている。


何か、何か方法はないか。何か出来ないか、何か!

連れて帰りたい。この人をちゃんと、黒翼城まで連れて帰ってあげなくちゃいけないのに!


頭がきんとなるほどめまぐるしく考えながら、私は必死に周りを見た。


関所の向こうで、風がびゅうびゅう渦巻いている。

ずっと吹いている変な風。こっちはずっと凪いでいるのに。

向こう側は霧雨が逆巻いて、波がこちら側に打ち寄せている。

やっぱり、こんな妖精のいたずら、聞いたことがない。

物を動かすことも、人を変身させることも、波を起こすこともするが、境界線の一部だけを動かすというのは、あまり聞かない……。


どくんと心臓が跳ねた。


「妖精……じゃない……?」


ふいに頭の中で、何通りも何通りも考えた仮説のひとつが急に輝きだし、ひとつの確信が雷鳴のごとく響きわたる。

今夜の私はさえている。嫌な方向にも、いい方向にも。


両手を霧雨に差し伸べ、声の限りに私は叫んだ。


「入っておいで!」


テラ神官とショーン大叔父さんが、ぎょっとしたように私を見た。

けれど無視してずぶ濡れの身体で、関所の向こうを睨み付ける。

荒れ狂うその風を見つめ、私は両手を伸ばしたまま、悲鳴みたいに叫ぶ。


「入っておいで! 入っておいで!」


この巨大な首都オーブへ入っておいで。私達の船に入っておいで。この甲板に降りてきて。そして、そして……。


「たすけて、ウィル」


最後の声はほとんど掠れていた。


瞬間、すさまじい勢いの冷風が渦巻き、テラ神官が勢いよく吹き飛んだ。彼は悲鳴もあげずに運河へと突き飛ばされ、暴風と共に水柱を立てる。

ショーン大叔父さんまでひっくり返って後頭部をぶつけたのに、私の周囲は静かに凪いで、髪すらなびかない。


「ああもう!」


懐かしい声が、天の声のように降ってくる。


胸を刺されたような痛みは、懐かしさだった。

涙で滲んだ視界の中に、半透明の光が落ちてくる。

関所の橋の上から飛び降りて、金色の流星みたいに真っ直ぐに私の元へ。


「やっっと僕を呼んでくれたね」


回帰の王にして、私の幽霊の王子様が、目の前で金色の髪を翻していた。

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