第3話 十日後 


十日後 


今日は朝から落ち着かない。

リュシエンヌに婚約破棄を申し込まれたあの日、あれから十日が過ぎた。

この十日間、あの紙に書かれていたことすべてが……そう、起こってしまった。


20日、朝からオリバー先生の頬が腫れていた。翌日歯医者に行くため、授業を変更すると連絡があったときは、ダンスの先生に驚かれるほどミスをした。

鳩もそうだ。特に暑くもない日だったのに、突然ミゲルが窓を開けたのだ。マリアは今までに見たことないほど取り乱し、なぜか司書まで泣いてしまった……。

セレーネの絵が教会に飾られるという話は、パーヴァリ家とつながりがある母親から聞かされた。


本当にリュシの言うとおりに事件が起こっていく。

まるで、予言の書を持っている気分だった。


チョコレート店へ向かう二人には、言われたとおり声を掛けなかった。これは我慢したというより、何を話していいかわからなくなりそうだから自然とそうなった。

そして昨日、父から呼び出された。


『明日から「アレシア・カトラン」という賓客がこの国に滞在する。カトラン子爵の親戚ということになっているが、彼女はドゥロール国のアレシア・ロランジュ王女だ。わが国王妃の縁者であり、姓が同じなため偽名を使っている。もちろん彼女が王女ということは内密の話だ。何かあれば手助けをしてほしいと頼まれた』


一瞬、目の前が真っ暗になるほど驚いた。王女だって!? とんでもない話だ。

リュシエンヌはここまで教えてくれなかった……いや、内密と言われていたから、俺は敢えて話さなかったのか? 自分のことなのにわからない。


部屋の時計を確認する。

リュシエンヌとの約束の時間が近づいていた。

廊下へ出ると、お茶の準備を終えた侍女たちが、客間からワゴンを運んでいるところだった。

バターの甘い香りがここまで漂っている。


今日はリュシエンヌの好きなパイだな、この香りは間違いない、きっと喜ぶはずだ。

それにしても、胸が苦しくてたまらない……。

この十日間の答え合わせは完璧だった。

彼女は人生をやり直している、しかも俺のせいで……。


「坊ちゃま、どうなさいましたか」


目の前から突然声が聞こえてきてハッとする。

心配そうに俺の顔を覗き込むヨハンの姿がそこにあった。


「すまないヨハン。あまりに良い香りがしてそのまま考え事をしていたよ」

「そうでしょう! 今日はわたくしが腕によりをかけて林檎のコンポートを仕込みましたから。坊ちゃまも小さい頃からお好きな、あれを作りましたよ」

「おお、ヨハンの林檎パイか。最高だな、楽しみだ。きっとリュシエンヌも喜ぶよ」

「ありがとうございます」


ヨハンは目の周りに優しそうな皺を寄せて微笑むと、頭を下げて廊下を進んでいく。

玄関ホールへ向かう姿勢の良い背中を見つめていると、見計らったように来訪を告げる鐘が鳴った。

ヨハンが扉を開く前に、柱の陰へ移動する。


あれから何度かリュシエンヌと顔を合わせているが、便箋に書かれたことが現実になるにつれ会話が少なくなってしまった。

セレーネには喧嘩でもしたのかと心配されたほどだ。


玄関ホールから、ヨハンとリュシエンヌの楽しそうな声が聞こえてきた。

そうっと覗くと、御者が一礼をして屋敷から出ていくところだった。


今日は付添いの侍女がいない、一人で来ているようだ。

リュシエンヌは、本当に婚約破棄を望んでいるのだろうか……。


確かに彼女の言うことはすべて起こってしまった、彼女からすると繰り返されたと言う事だろう。だが、絶対に俺は繰り返さない。

なぜ他の人を好きになったのか、なぜリュシエンヌを非難したのか……それは、まったくわからない。

でも神に誓って言える、俺は彼女のことが大好きだ!

だから、今日それをはっきりと告げて、婚約破棄したいなんて気持ちを考え直してもらうつもりだ。


思い切って、玄関ホールへ足を踏み出した。


「あれ?」


すでにホールには誰もおらず、廊下の向こうから、客間の扉が閉まる音が聞こえてきた。いそいで客間へ向かうと、ちょうど出てきたばかりのヨハンと目が合った。


「坊ちゃま、良いところに。リュシエンヌ様がお見えです」

「ありがとうヨハン。えーっと、話が長くなるかもしれないから、こちらが呼ぶまでは執務室で休んでいてくれ」

「かしこまりました」


 大きく頷きながら、ヨハンは出てきたばかりの客間の扉をノックした。


「はい」


少し緊張したようなリュシエンヌの声が聞こえる。

扉を開きながら、ヨハンは意味ありげに口の端をあげて微笑み、俺が客間へ入ると同時に「ごゆっくりなさってくださいませ」と言いながら扉を閉めた。

あっヨハン、違う、あれは絶対に勘違いをしている。

そんな甘い状況ではないってのに……。


振り返ると、椅子から立ち上がり、深々とカーテシーをするリュシエンヌの姿がそこにあった。


「ルド、ごきげんよう」

「ありがとう……えー、今日は顔色がいいみたいだね……うん」


俺は何を言ってるんだ、こんなの馬鹿みたいじゃないか、そう思った瞬間、目の前のリュシエンヌが吹き出した。


「もうルドったら。たまに顔を合わせてもそんな感じなんだもん。セレーネが凄く心配してたわ。今日会うって話したら『別れ話じゃないよね!?』って泣きそうな顔してたのよ」

「だって、話しづらくなってしまって」

「そうよね。全部起こったでしょ?」

「ああ、君があの便箋に書いたとおりになった……」

「うん、じゃあこれ」


俺の言葉を待ち構えていたかのように、十日前と同じ、折りたたまれた便箋が目の前に差し出された。

そのまま彼女の目線は、テーブルの上へと移動する。

そこには、ヨハンが用意してくれた林檎のパイや、温かいお茶が既にサーブされていた。


慌ててリュシエンヌに席へ着くように促すと、嬉しそうな顔で椅子に座った。

彼女の目の前の席へ座り、受け取った便箋を開く前に、一旦紅茶で喉を潤した。

リュシエンヌはナイフとフォークを手に取っている。


さて、今度は何が書いてあるんだろう、まさかまた俺の暴言……? 

急いで便箋を開いた。


  アレシア・カトラン

  ドゥロール国の王女、本当の名前はアレシア・ロランジュ

  お忍びでこの国に滞在

  夕日のようなオレンジの赤毛に緑色の瞳の持ち主

  ルドウィク・エルンストと恋に落ちる


「なっ!!」


アレシアの名前フルネームはもちろんこと、父から誰にも口外するなと言われた素性まで書いてある。容姿は知らないが、きっとリュシエンヌの書いているとおりなんだろう。


「あってるよね?」

「うん間違いない……でも最後の一行は違う!」

「違わないわ……だって私……」


林檎のパイに入れようとしたナイフを置き、ナプキンで口の端をぬぐう。リュシエンヌの声が震えている。


「だって、私は全部知ってるもの!」


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