第9話【第二章】

【第二章】


「で、やっぱり来てくれたんですね、弦さん……」

「はい。わたくしめは朔柊也様直属のハウスキーパー兼執事でございますゆえ」


 僕と月野姉妹が岩浅警部補に続いて表の通りに出ると、いつもとなんの変りもなく、弦さんが立っていた。すぐそこには自動車が停まっている。ってロールスロイスじゃないか。

 高級車でやって来る必要性など全く感じないんだが。


 一方、摩耶は大はしゃぎだった。執事や高級車を生で見たのが初めてだったのだろう。


「こ、これ、めっちゃ高い車なんじゃねえの!? どうしてこんなもん持ってんだよ、柊也!?」

「これは失礼、こちらはわたくしめの趣味と申しますか、十年ほど前に柊也様に許可をいただいて購入したものです」

「へえ~!」


 次に、本物の執事さんなんて初めて見たぜ! といって、摩耶が弦さんに絡み始めた。

 一方の美耶はといえば、むっつりと黙り込んで沈黙を継続している。


「どうした、美耶? 気分でも悪いのか?」

「違います。でも……、姉のあのはしゃぎようが見ていられなくて」

「どうして? 君の姉さんはご機嫌じゃないか。お前ももっとはしゃいでもいいんだぞ? なんなら、乗ってもらってから弦さんの運転でドライブしてもいいだろうし」


 その言葉に反応したのは、やはり弦さんだった。


「それには及びませんよ、美耶様。わたくしめの今日の仕事は、柊也様と月野摩耶様、美耶様をわたくしたちの住まいに案内するところでございます。しばらくこちらで様子見をするのです。ちょっとした契約ごとがございまして」

「なんだよ弦さん、あたいたちにも教えてくれよ!」

「摩耶様、申し訳ございません。この情報は秘匿レベルが高く、わたくしが単独で請け負ったものでして。柊也様も、どうかお許しを」

「ああ、大丈夫ですよ。弦さんのことは信頼してますから。主人とはいえ、弦さんにどうこう言う筋合いじゃないっていうか、そんな権利はないっていうか」


 すると、弦さんはやや目を細めてこう言った。


「確かに、柊也様にはご存じないままでいてくださった方が好ましいですね。知らなかったのだと仰っても、嘘にはならないでしょうから」

「ふむ……。そういうもんですかね」

「これは失礼致しました、とんだご無礼を」


 僕が手をパタパタさせるのを前に、改めて深いお辞儀をする弦さん。この人、何かの秘密を僕に明かそうとしたのだろうか?

 だったら教えてもらいたいものだが、今は月野姉妹を落ち着かせるのが先決だった。


「さ、月野摩耶様からこちらへ」


 後部ドアを開ける弦さんに従う摩耶、続けて美耶。


「うわっ、すげえ! ソファがふわふわだ! あっ、これって最新の強化ガラス? 耐弾性もあるの? うわあ、超VIPにでもなった気分だ!」

「気分だけはな。そんじゃ皆、シートベルトを。弦さん、安全運転で頼みます」

「畏まりました」


 それから数秒後には、ロールスロイスは風を切るようにして左車線に進入していた。

 

         ※


 それからまた約十分ほどの間を置いて、ロールスロイスは僕の邸宅に滑り込んだ。

 弦さんのテクニックはかなりのもので、車体前方を軸に後方を半回転させた瞬間、手狭な駐車場にすっぽりと車体を収めてしまった。


「な、なんか映画のアクションシーンみたいな感じしなかったか?」

「いつものことだよ、ねえ、弦さん?」

「左様でございます、柊也様。どこで習ったのか、ということに関しては、敢えて述べることは致しませんが」

「そう、ですか」


 僕は弦さんの、唯一と言ってもいいような『怪しさ』を思い出していた。

 弦さんが、あまり使われない別宅に時々立ち入っているのは、何かを僕たちに悟られないようにするためか。

 気にはなる。が、弦さんは僕に本当によくしてくれているのだ。その事実を脇において、弦さんの心に土足で踏み込むようなことはしたくない。


 僕がそんな思索に耽っていると、玄関ホールのあたりから声がした。

 ああ、やっぱり。摩耶がこの邸宅を見てはしゃぎだしたらしい。


「何なんだ、このだだっ広い畳の部屋は!?」

「客人を招く時の部屋なんだ。それなりの広さは必要だろ」

「あ! これ知ってる! 掛け軸、って言うんだろ? 安く見えるけど実際高いやつ!」


 ふむ、確かに。

 そういえば、出された貴重品の真価を確かめる番組があったな。小さい頃はよく見ていたものだけれど。

 ふっと、僕は気分の悪さと居心地の悪さを同時に感じ取った。なんだか胃袋の底あたりがざわざわする。

 どうしたものかと考えた僕は、頭を使うことで悪い空気を振り払おうと試みた。何故今、このタイミングで気分が害されたのだろう?


 きっと理由は二つある。

 一つ目は、まさにここで家族が談笑している幻想が見えてしまったから。

 二つ目は、とりわけ妹の姿が鮮明に、家族の像に混じって見えてしまったから。


(お兄ちゃん、約束だよ! 私の身に何かあったら、必ず助けに来てね!)


 僕はお前を守れなかったよ、春香。本当にごめんよ。


「わーい、ローリングアターーーック!」

「ちょっ、お姉ちゃん、はしゃぎすぎ……」

「そういうお前はどうなんだよ、美耶? 最後にこんな広い部屋に入ったのって、いつだったっけ?」

「そんなこと、今は関係ないよ」

「そぅら、ローリングアタック、セカンドモード!」

「……」


 僕はぼんやりと、月野姉妹の姿を眺めていた。僕の妹が存命だったら、こんな遊びがあったのだろうか?


「おっと、やば……」


 再び鼻血を噴出させそうになった僕は、慌てて上を向きながらタオルを鼻先に押しつけた。


 ちょうどその時。

 襖がノックされて、するするとスライドした。そこには正座バージョンの弦さんがいて、さらにそのわきには、飲み物を注いだグラスが三つ載せられていた。


「失礼致します。お飲み物をご用意いたしました」

「うむ! かたじけない!」

「お前が言うなよ、摩耶……。とにかくありがとうございます、弦さん」

「いえ。昼食の準備ができましたら、またお声がけさせていただきます。それでは」


 すとん、と子気味のいい音を立てて、襖は閉じられた。

 僕はじっと、弦さんの去った廊下を想像しながら襖を眺めていた。


 今朝。いや、ついさっき。

 そう、この邸宅を出発してからここに帰ってくるまで、ざっと四、五時間ほどしか経過していない。それなのに、妙に懐かしい感じがするのは何故だろう。

 自分だけ時間の経過が遅くて、周囲の事物が先行してしまった。もっといえば、僕は時間に置き去りにされた。

 そんな気分によって、僕は妙に落ち着かないような、そして何かを諦めるような、奇妙な感覚に囚われた。


 何もかも遠い昔の出来事に思われる。そんな僕を一気に現実に引き戻したのは、たった今目の前で戯れている月野姉妹だ。

 特に摩耶。さっきから寝っ転がることにハマっているらしく、ぐるぐる回転しながら美耶の足元にぶっつかっている。

 美耶も、最初は嫌そうな顔をしていたが、やれやれと肩を竦めてしゃがみ込んだ。姉の面倒を見る気になったらしい。


 しかし、それも長くは続かなかった。


「どうかしたんですか、柊也さん?」

「え? ああ、いや。何でもないよ」


 美耶の言葉に視線を上げると、純粋な、しかし心配の気持ちが降り立ったような眼球が二つ、僕の顔に向けられていた。


「何か失礼だったらごめんなさい。私たち、その……。さっきまでまともな生活を送っていなかったものですから」

「お前が気にすることはないよ、美耶。きっと今頃、弦さんが風呂の準備をしてくれているはずだ。サッパリしてから、ガッツリご飯にありつけばいい」

「は、はい。ありがとうございます。今のところ……及第点、ですね」


 ん? 聞きそびれた。


「美耶、どうかしたのか?」

「あっ、いえ。何でもありませ――」

「くらえっ、サイクロン・バスター!」

「おい摩耶、そのくらいにしておけよ。美耶だって怒る時は怒るんだ」

「へえ、そんなことあるんだ」


 あるに決まってるだろ。人間なんだから。


「この部屋はしばらく使っていいから、お互い迷惑をかけるようなことをするんじゃねえぞ。たとえ姉妹でもな」

「ちぇっ、面白かったのに」


 やれやれ。困った姉貴である。


(他人の兄弟姉妹は助けるの? 私のことは見捨てたくせに?)

「ぐぶっ!?」


 あまりにも唐突な出血に、僕は驚き、慌ててタオルを鼻に当てた。さっき付いた血は赤褐色になっていたが、そこに今の鮮血がドクドクと沁み込んでいく。

 やがて足元の畳みに、ぽつぽつと滴り始める。


「あ、やべ」

「どうしたんですか、柊也さ――って大変!」


 美耶が悲鳴に近い声を上げる。


「ああ、大丈夫だ。なんともないんだよ」

「早く処置をしないと!」

「うん、だから弦さんのところに行ってくる。鼻血くらい、すぐ止まるよ」


 なんとかそれだけを言い切り、僕は畳の間を辞した。

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