第6話

 私は突風を前から受け、目を開けた。


 気を抜けば体ごと吹き飛ばされてしまう風圧に耐えるため、両足を地面に踏ん張り、身構える。

 質量のある風は山肌をこそぎ落とし、空の彼方へと吹き飛ばしていく。

 風は、真っ赤な両翼が起こしたものだった。


「レッドドラゴン……!」


 ヤサカサンの柱よりも赤く、燃え盛るひとつの山のような巨体が、目の前に存在した。私たちを襲ったドラゴンだ。


 周囲を見回せば、ここは山頂だ。なだらかで見通しの良い稜線が続き、超常の脅威に対して隠れるべき場所すらもない、あの絶望的な惨状、オーエ山。

 私は慌てて、ライオネルの姿を探す。すぐに見つかった。ごつごつした岩が目立つ険しい道の途上で、体の半分も炭化した筋骨隆々の男が、倒れている。


「ライオネル!」


 私は名を呼び、駆けつける。

 ドラゴンは私に気づいたようだ。私に向けて、その酷薄な瞳をぎょろりとめぐらした。

 私は構わず、ライオネルの元へ馳せ参じ、その重い体を抱き起こす。

 何の奇跡が起こったのかは知らない。だが、ここに、ライオネルの元に、戻れたのだ。


 神に、ヤサカサンに、感謝をささげる。彼とともにドラゴンに屠られるのならば、それも悪くない。もとより望んだ運命だ。

 ライオネルはまだ息があった。しかし、私の瞳を一心に見上げるそこには、哀しみがあった。言葉はもう出ないのだろう。ひゅうひゅうと、か細く浅い息だけを繰り返しながら、それでも私の身を悼み、助けてやれないおのれを悔いているようだった。


 私はライオネルに微笑みかけた。


「オマエに出会えてよかった」


 再び出会いたかった。この窮地に彼をひとりだけを残し、私だけあの安穏と幸福な都で生きていくなど、到底自分を許せそうにない。

 この人生でライオネルに出会えてよかった。私に、ひとりはさみしいのだということを教えてくれた。しがみつきたい隣の細胞という存在を、私に教えてくれた。


 ドラゴンが、再びその禍々しい口を開いた。口の端からはめらめらと炎が漏れ、その喉奥に質量が増していく。エネルギーが集積していく。まもなくブレスが放たれるだろう。そうすれば、私とライオネルの身は、まとめて炭のクズへと変えられるに違いない。


 私は覚悟を決めた。

 彼とともに死ねることは、きっと神の奇跡の御業、それこそが恩寵なのだと。


 しかし、放たれたのは、ブレスではなく、咆哮だった。地を揺るがす大音量、音波の衝撃で身が一瞬、宙に浮くほどの。


「な、なんだ……!」


 しかも、それは二つ、重なって咆えられている。


 私は空を見上げた。

 真っ赤なドラゴンは、もう私たちを見ていなかった。空に翼を広げ、空中に静止したまま、憎悪の瞳は別の対象を凝視している。

 相対しているのは、ブルードラゴンだった。


「あれは……まさか、セイリュウ……!」


 私たちの良く見知ったドラゴンの形ではなかった。まるで蛇のように細長い骨格は、たなびく雲のように空の上を悠々と泳いでいる。華奢な手足は、しかし獰猛に長い爪がぞろりと生えそろい、そこには宝玉と見られるものが握られている。顔には長いひげが生えており、さながら年老いた賢者のように理知的な面差しだ。


 セイリュウは咆哮一閃、獲物に食いつくヘビのように素早くレッドドラゴンへと襲い掛かった。レッドドラゴンは間一髪でそれを避ける。避けがてら、空中で身をひるがえし、返す刀か、セイリュウへと食らいつこうとする。それをひらりと避けたセイリュウは、またレッドドラゴンへと攻撃を加え……。

 二匹のドラゴンは、もつれあい、絡まり合い、じょじょに私たちの居場所から遠ざかっていく。


 私は、はっと正気に戻った。


「ライオネル」


 そうだ。人知の及ばぬセイリュウの御業に見とれていてはいけない。私は、私の手にできることを為さねばならない。


 ライオネルの容態は、今にも事切れそうだ。体の半分ほども重度のやけどを負ってしまえば、生きていることは不可能。回復魔法を使ったところで、焼け石に水だ。

 そう、以前の私ならば判断した。

 確かにそうなのだ。私の全力をもってしても、ライオネルをこの負傷から救うことは難しいだろう。


 しかし、私は、ライオネルの体を抱きしめ、回復魔法を発動させる。


「サチコ、オマエに教わったこと、なんとか生かしてみせるぞ」


 かつての私は、人間は、それだけでひとつの物体だと考えていた。

 しかし、そうではなかった。多くの小さな生き物の集まり、かたまり。その細胞というものは、いろんな種類があり、それぞれが求めるものは、それぞれ違っている。まるで大きな国のように、いや数十兆という数だから、人よりも、星よりも多く。それだけの小さな生き物が、個性を持ち、生きているのだ。この、ライオネルの体にも。

 私は数十兆のいきものそれぞれに、回復魔法がいきわたるように念じる。それぞれが求めるだけ、求める種類、求める質の魔法が届くように。ひとつひとつの細胞の声を、丹念に、綿密に、耳を澄ませて聞くようにして。

 失われていくものもいる。だが、残ったものが分裂し、それを補って、再び『ライオネル』という個を形成してくれるように。


 どれほどの時間、私は魔力を、祈りを捧げていただろうか。


「……シャーロット」


 あの懐かしい、ごろごろと雷鳴のように響く低い声が、私の名を呼んだのだ。


「ライオネル……! どうだ、体は動かせるのだろうか」


 まるで細胞のように、つながることで同じひとつの生命となりたがるあの丸いもののように、ぎゅうとライオネルにしがみつく私ごと、ライオネルは起き上がった。その身のこなしは普段通りに軽く、いかにも肉体じまんといった躍動感にあふれている。


「オマエのおかげだ。シャーロット」


 朴訥で、言葉の少ないライオネルの、その目を見れば、万感の思いは伝わってくる。私への愛と、私が生きていたことへの喜び、それから再びともに歩んでいけることへの希望が、そこにきらめいている。

 そしてその瞳の真ん中には、私の姿が映っているのだ。


「ライオネル、ライオネル、私はな、オマエと二人で長く住める、そんな街を探したい」


 あの京都のような。サチコのような人々が住む街を。

 私が息せき切り提案する内容を、ライオネルは温かい目で見守り、聞いている。


「それで、私はそこで、寿命が尽きるまで、古いものを守り、新しいものを受け入れ、街を守っていきたいのだ」


 黙ってうなずくライオネルは、その太く不器用な指で、注意深く力加減をしながら、私の頬の涙をぬぐってくれた。


「そして、私はその街に、ヤサカサンを祀るジンジャを建立するのだ」

「……?」


 ライオネルはその提案にはあからさまに不思議そうにした。けれど、特に異論は出さず、


「シャーロットが、それがいいって思うんなら、いいんだろうな」


 とにこやかに、


「オレも、てつだう」


 と笑って承諾してくれた。


「さあ、シャーロット、いつまでもここにいてちゃ、いけない」

「ああ、そうだな。急いで山を下りよう。ドラゴンが戻ってくる前に、さっさと立ち去るぞ」


 私たちは立ち上がった。新たな希望に燃えていた。

 いつの間にか、空には夜のとばりが下りていた。山頂から眺める星空は広い。視界の下方にまで広がる地平線の、そのぎりぎりの位置までも星が瞬いている。


 真上を見れば降り注ぐような星の奔流だ。

 この星の数よりも多いというキラキラを思い出した。あのサチコの研究室で見た、キラキラだ。そのキラキラは、私の中にも、ライオネルの中にも、無数に詰まっているのだ。


 私は朝が待ち遠しい。きっと、これまでと違う世界が見えるはずなのだ。

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