第5話

 歩道という、歩行者のみが歩くことを許されている側道で、サチコは風を真正面から顔に受けて気持ちよさそうに笑う。


「ごめんなあ、ちょっと歩かなアカンねん。ウチ、五条にあってな。ここは神宮丸太町やから、京阪に乗ったほうがエエねんけど、交通費、節約しててなあ。研究者って、貧乏やねん」


 そういうが、どうやら聞けば、徒歩で一時間もかからないらしい。それくらいならば、私からすればご近所だ。歩いて数日、あるいは数週間をかけて移動するのが当然の冒険者稼業なのだから。


「あ、そうや、どうせやし、鴨川を歩いていこか」


 サチコはそう言い、せっかくの平らな道から外れ、そのわきから伸びる舗装をされていない坂道を降りていった。その先には土のままの道がある。大きな川の、堤なのだろう。川沿いにはずらりと、同じ種類と思われる樹木が並んでいる。きっちりと同じ間隔で、同じ種類、それに樹齢も同じくらいだから、人の手で一本ずつ植えられたのだろう。


 広い堤に両側を囲まれた川は広かった。大声を出しても、向こう側に声が届くかどうか。水の流れはゆったりとしながらも豊富だ。そして透明で美しい。どこまで見ても家が立ち並ぶほどに人がいる、その真ん中にある川だとは思えない水質だ。そこに鳥がのんびりと水上を滑っている。


「ほら、あの鳥がカモや。鴨川と同じ名前やな」

「鳥の名前なのだな」

「あっちの空を飛んでる大きいほうの鳥は、トンビや。けっこう襲われるから、気をつけてな」

「襲われるのか⁉」

「まあ、食べ物を持って歩いてない限りは、たいてい大丈夫やけどな」


 なるほど、私はうなずく。鴨川の両岸は非常にゆったりと自然の美しい道だ。たしかにここで軽食を愉しむのはよい余暇の過ごしかただろう。リラックスして食事と歓談を愉しむ人間たち。しかしながらそれは野生動物からすれば、まさに、カモだ。


「ああやって、座って話している者たちが襲われるのだな」


 並んで座り、楽しげに談笑する男女の姿が、川沿いに点々と続いている。私がそれをさすと、サチコはおかしそうに笑った。


「そういえば、昔、ヘンな論文を読んだことがあるわ」

「ヘンなロンブン? それは、どんなものなんだ?」

「鴨川のカップルが、他人にどれくらい近寄られたら場所を移動するか、の研究。確か、昼よりも夜のほうが反応距離が短くなる、みたいな結論やったかなあ。その研究な、フィールドワークっていうて、ゼミの学生にな、男女二人組を作らせて、鴨川への張り込みをさせるんよ。カップルからの距離三メートルのところへ座れ、次は二メートルまで近づいてみてって、指示出したりしてな。そうやってデータを取って、統計処理して、めっちゃ真面目に論文書いてるのが、もうおかしくって」


 私には何がおかしいのかさっぱりわからないが、サチコはウフフと笑い続けている。それをひとしきりした後に、


「昔よりだいぶキレイな水になってんよ」


 と、急に話題を変え、鴨川を、懐かしい風景を偲ぶように、目を細めて眺めている。


「人が増えているのに、水がきれいになるということがあるのか?」


 人口が増えれば水は汚れる。それは自明の理ではないのだろうか。


「そりゃまあ、詳しくはよう知らんけど、いろんな人が努力して、キレイにしようとがんばったんや」


 堤を作った人間。樹木を植えた人間。水をきれいにした人間。そのほかにも多くの人の手と年月によって、この風景が成り立っている、そういうことなのだろう。

 両岸には、さまざまな建物が見える。どれも高さは控えめだが、画一的ではない。趣向を凝らした建築様式を見るたびに、私は


「サチコ、あれは何の建物だ?」


 と尋ねた。


 しかし、サチコはたいがいの場合、首をかしげては、


「なんやろうなあ……。ずっと京都に住んでるし、この道も何年も歩いてるけど、研究室と家とを行ったり来たりしてるだけで、ぜんぜん知らんなあ……。せっかく、世界中から『一目見たい』って観光客が来るような都市に住んでるのに、私、もったいないことしてたんやなあ」


 なんて、また一人で語りはじめている。


「京都はなあ、観光に行くにはいいけど、住むところやない、なんて言われてんねん。一年中どこかでお祭りやらイベントやらあってな、道も電車も車も、しょっちゅう大混雑や。タクシーなんか乗ってもうたら、ぜんぜん進めへんこともようある。お店もどこいっても混んでてな、落ち着いてニシンソバでも食べようかと思ったら、なじみの店やのに、入ってみたら日本人は私だけやった、みたいなこともようある。通勤電車も観光客でいっぱいや。せやからね、確かにまあ、ゆうたらテーマパークの中に住んでるようなもんかもしれへんね。私かて、有名な観光地には、どうせゆっくり眺めたりできへんしって、よう行けへんようになった。けどなあ、こうやって歩いてて、桜やらなんやらが毎日色を変えてるのを眺めてるだけでも、なんや京都は風情があるんやなあ。京都のこと、住んでるくせによう知らんけど、鴨川の桜なら、もう何年も毎日見てるで」


 サチコはこの街のことを、愛しているのだろう。その話しぶりは絶賛でないどころか、文句や愚痴に相当するようなものかもしれない。だが、自分の住む土地に対する愛着が、ひしひしとせつないほどに伝わってきた。

 それは、私にはないものだ。根無し草として土地から土地へと渡り歩く、冒険者の私には。


 私は、ライオネルを思い出す。もしも、また会えたなら。さみしさゆえの弱気のせいか、ふらりとそう願う。ふたり、愛せる土地で根を下ろす生活も、いいかもしれない。


 私がそんな望郷の思いにとらわれた、その矢先だ。


「さて、そろそろ四条や。上にあがるで」


 サチコは先導して、堤から上の歩道へと移動した。

 そこで、私はぎょっとした。あまりにも様相が一変したからだ。

 鴨川の堤では、行きかう人はいれど落ち着いた雰囲気だった。


 ところが、上。


 鉄でできた馬のいない馬車が、まるで旬の魚が川を遡上するように道いっぱいをギッチリ埋めて、右へ左へとあわただしく走行している。

 人はと言えば、アリの巣をつついたような大騒ぎだ。国対国の戦場や、大国のお祭りに集まった行商人たちの市場でも、こんなに詰めかける大勢の人を見たことはない。かきわけかきわけ、ようやっと進めるようなありさまだ。


 サチコが先ほど言っていたことを思い知った。


「すごい人やろ」


 サチコもなかば呆れたような顔をしている。


「これが毎日や。すごいよなあ。この街、千年以上前からあるんやで」

「そんなに古くから続いているのか」


 熱気と活況。千年という途方もない年月も、これを目前にすれば納得せざるを得ない。この街は、きっと、こうやって遠い過去から続き、未来へもまた続いていくのだろう。


「私な、ココ来るたびに思うんや。この四条通、大動脈みたいやって」

「ダイドウミャク?」

「そうや。大動脈っていうのは、人間の体の中にある、太い血管のことや。そこに、小さな赤血球とかの細胞が流れてるみたいにな、私らが、毎日たくさん行き来してる。四条通にはたくさんの建物があるやろ。その建物、つまり内臓や骨や筋肉にも、私ら細胞が、入ったり出たりしてる。そうやって新陳代謝をしてるんやな。細胞と同じで、人間は生まれて死んでは、入れ替わっていく。せやけど、この街からしたら人間の一生、数十年は一瞬やろ。人間が世代交代していっても、京都は京都や」


 サチコは、四条通の濁流のような人の流れを、懐かしげに見つめている。


「私の体もな、あと何年か何十年かしたらなくなるけど、私の体の中の細胞は、そんなことは関係なく、今を必死に生きているんやろな。而今ってやつやな。私も細胞と同じ。今を必死に生きている。過去を悔いて、将来を不安に思ったりしながら、今どうしよか、一生懸命、考えて生きてる。百年前や千年前の人たちもきっと同じように生きとった。だから、京都の街も、きっと同じ、私らを構成物質として、今を一生懸命に生きて、それで次の千年の先も、こうやってるんやろうなあ」


 街をひとつの生命体としてとらえる考え方は、さきほど細胞を見たばかりの私には、なぜだかしっくりと納得できた。


 私の体の中では、私のような小さな生き物がそれぞれに必死で考えて、生きて、構成している。私は、私の体は自分ひとりきりのもの、自分だけしかいないひとつの独立した、孤独なものだと考えていた。しかし、何十兆という小さな生き物の集合体ならば、私はそれらの生き物たちの、それぞれにそれぞれが考え迷っている存在たちの、運命を握っている存在なのだ。


「サチコの考え方はおもしろいな」


 私は心底からそう称賛したのだが、サチコは照れ笑いをするばかりだ。


「わりとポピュラーな考え方やねんよ、実はね。細胞社会学っていう、れっきとした学問もあるし、そこまで堅苦しくなくても、細胞ひとつひとつに感情移入するっていうのは、アニメでもやってて、今や小さい子どもでもイメージ持ってる話やねんよ」


 私にはアニメという単語はわからなかったが、


「そうか、この街では、幼い子供のころからそういう考え方に触れるものなのだな」


 と感心した。


 ごった返す歩道の上をサチコとふたりで歩く。


「研究もな、京都の街と同じや。たくさんの人の手で、歴史を積み重ねていくもんやねん。巨人の肩の上に立つって言葉もあるねんけど、先人たちが何十年も何百年も前から積み重ねてきた研究と発見の歴史、その積み重ねたものの上に、私がちょっと何かを乗せる。私の一生でできることなんて、それで精いっぱいや。けど、科学の発展に、小石ひとつでも積み重ねることができたら、私の人生はそれで大成功なんやね。シャーロットのおかげで、私にもそうわかったわ。私はそのために、巨人がたくさんいてはる、京大におるんや。積み重ねるのが得意な京都に、京大があるのも、なんやようわかるわ」


 大きな三角の屋根をした、特徴的な建物がある。前面には、文字が書かれた木の札がびっしりと張り付けられていて、垂れ幕がひらひらとたなびいている。人の頭より少し上の位置に、大きな赤い、紙でできた丸い物体が提げられている。


「それはな、提灯。南座、って書いてるねん」


 サチコが私のかわりに読んでくれる。


「このへんで一番目立つなあ」

「いかにも歴史のある建造物という姿だな。美しい」

「せやなあ。今日は入るのは無理やけど、そのうち、ふたりで行ってみよか」


 人並みに押されて歩き続けながらも、私はその『南座』とやらからしばらく目を離せない。こんなに美しく、並々ならぬ威厳を持つ建築物に対しても、元来の住人であるサチコにとっては、あって当たり前、ごく普通の光景なのだろう。また今度、それだけでさらりと通り過ぎてしまえるもの。なんともったいないことか。


 しかし、私だっておそらくは、元の世界において、サチコと同じようなふるまいをしていたに違いないのだ。価値あるものを、それと知らず、あって当たり前と通り過ぎてしまうような無作法を。

 知らず見落としてきただろうものの価値を想像して、私は空恐ろしい思いにとらわれた。すべてを取りこぼさずに生きていくことは不可能でも、私はもっと、目の前のものに誠実に目を向ける、そんなふうに丁寧に生きていくことも、必要なのではないだろうか。


 その先に進めば、素晴らしくエキゾチックな様相の脇道が現れた。なぜかその横道だけは、私にも見慣れた石畳でできているのだ。そして、左右の建物の雰囲気と言えば、周辺と格段の差がある。真っ白か黄土色の土壁を、まるで格子を入れるように黒い木の柱が支えている。植物のツルか茎で編んだと思われるカーテンを日よけとして窓にかけ、家の囲いも木で組んだ柵を用いている。何もかも植物でこしらえたその上質な細工の数々は、フェアリーテイルの中の小人たちが丹精をこめて作り上げた町並みのようで、メルヘンチックでいてなぜかノスタルジーを感じさせる。品よく抑えた色調の景観であるにかかわらず、整ったデザインはセンスが良く、思わず心躍るほどに魅力的だ。


「ここだけ、別の国のようだな」


 私はため息交じりにそうつぶやいた。


「ここは花見小路の入口や。こういう街並みも、まごうことなくウチの国やし、京都やで。まあちょっと昔風やけどな」

「昔? どれくらい昔なのだ?」

「え? えーっと……どれくらいやろ。まあ、昔は昔や。お寺や神社なら五百年や千年前も珍しくないんやけど、ここはどうなんやろうなあ」

「千年……そんなに古いものも現存しているのか」


 私が感心を示すと、サチコは、首をひねり、それから、


「あるよ。この先にある八坂さんもそうやけど……。シャーロットはエルフなんやろ? いや私もエルフって初めて見るし、ほんまにおるって思ってなかったし、よう知らんくせに言うけど、エルフって長命なんちゃうの? 昔のこと、よく知っていたりするんちゃうの?」


 と矛先を向けられた。


「……そうだな、私はまだそれほど長くは生きていない。が、せっかく長命のエルフに生まれたのだ。寿命どおりに生きられるのならば、この先はまだまだ長い。ならば、これからは、古きよきものを未来に残す。そういったコトをしてもいいのかもしれないな」

「あ、エエやん。百年後には生き字引ってやつやね」

「ああ、まさしく歴史の証人というやつだ」


 私ならば、その五百年、千年という時間を、私の手で守り続けることもできるだろう。短命な人間がここまで世代を超えて引き継ぎ、先人からの贈り物を大切に守り続けているのだ。私にできないわけはないだろう。


 そんなふうに献身的になれる自分を、私は知らなかった。私は、元の世界を、愛しているらしい。ちょうど、サチコが京都を愛しているように。無自覚に、素朴に。


「……あの、石段の上の建物は、なんだ?」


 行く手は、道のどんづまりだ。そこに広い石段があり、登っていった先には、朱塗りの門構えがどんと、王城の門よりも立派にそびえている。さきほどの花見小路のつつましやかな色合いとは違い、朱に碧に白と、いかにも目を惹く鮮やかさだ。


「ああ、あれが、八坂さんや」

「ヤサカサン?」


 サチコが先ほども口にしていた単語だ。


「神社や。えーっと、宗教施設? お参りでもしていく?」

「宗教施設? いや、それは、信徒でもない私が立ち入ってはマズイのではないか?」

「八坂さんはそんな細かいこと気にしはれへんやろ」

「ヤサカサンというのが、その神の名前なのか?」

「え、名前?」


 サチコはまたもや困惑気に首を傾けた。


「そういや、なんとなく八坂さんって呼んでるけど、神様の名前とはまたちゃうやろなあ。八坂さんって、何の神様なんやろ」

「何の神なのかも知らずに祈っているのか?」

「いやー、そういわれると確かにヘンやなあ。せやけど、八坂さんは八坂さんやし。んー、そうやなあ、八坂さんの境内の中やったら、どっかに由来とかご祭神とか書いてると思うし、ちょっと寄っていこか」


 石段をのぼる人は、私たち以外にも多く見られる。私は、敬虔な信者からは叱られてしまうのではとおびえたが、そのようなことは一切なかった。誰もが自分自身と、その隣の友人や家族とのおしゃべりに夢中で、私のことなど気にも留めていない。みな幸福そうで、楽しそうだ。


 赤い門をくぐると、開けた空間だった。人口密度が下がったからだろうか、それとも聖域だからだろうか、まるで気温が一度か二度ほど下がったような、清涼な心地がする。吹き抜ける風を感じられるのは、鴨川を歩いて以来だ。

 敷地内は、ここも石畳が敷かれている。まるで順路を示すようにきちりとまっすぐに敷かれたその道に従って歩くと、自然と最も大きく立派な建物の前へと訪れることができる、という寸法だ。

 屋根はどっしりとした三角だ。どうやら京都では、新しい建物は天上がぺたんこだが、古い建物は三角形をしているようだ。それから、古い建物は木や土、石を使っている。ぺったんこのほうの新しい建物は、残念ながら私には建材が何であるか見た目では判別つかない。


「あ、そうや、八坂さんのことで、私が知ってること、あるわ」


 石畳を並び歩きながら、サチコは今思い出したと口にする。


「京都の四方の守りのひとつやな。この街には都がたてられた当初から、東西南北にそれぞれ神獣がおってな」

「シンジュウ?」

「『神様』の『獣』って書くねん。まあ、なんというか、めっちゃ強いモンスターというか、神様そのものっていうか」

「神とあがめられるほどに強いモンスターが、四方にそれぞれいる、だと? 京都とは、そんな恐ろしい立地だったのか!」

「いやいやいや、想像上のイキモノやから、ほんとにはおらんよ、大丈夫」

「……いないのか?」

「いないいない。風水とか、オマジナイとか、そういうアレやから」


 私はサチコのように、首をかしげる。


 モンスターというのは私にとっては現実的な脅威だ。町や人を襲う、すぐそばにある危険。恐ろしく強いモンスターならば、ときには国の存続すら脅かすこともある。それらに対抗し、駆逐、あるいは討伐をするのが、冒険者の主な仕事でもある。モンスターからみずからの身を盾にして、力なき人々を守る、それが私たちなのだ。

 しかし、サチコは、実際にはいないという。実在しないのだと。そのくせ、まるで本当にいるかのように、東西南北にそれぞれ存在すると話すのだ。

 私にとっては、存在しないモンスターを恐れるのは、理にかなっていない行為のように思われる。


「で、そのうちの東を守っているのが、ココ。王城鎮護の青龍」

「セイリュウ?」

「いうたら、ブルードラゴンやね」

「……ドラゴンだと⁉」


 私の反応は、サチコにとってはおかしなものだったらしい。笑い飛ばされてしまった。


「いや、しかし、ブルードラゴンだと? 私はレッドドラゴンによって、転移させられ、ここに来たのだ。それならば、もしかしたら……」


 すると今笑い飛ばしたばかりのサチコは、はっと表情を変えた。察したのだろう。痛まし気に私を見つめ、優しく私の肩を抱いた。


「期待させたらかわいそうやからね、あえてハッキリ言うことにするな。……さっき言ったように、神獣は想像上のモノやし、八坂さんはその……転移魔法とかは、使いはらへんと思うよ」

「……そうか」

「シャーロット、ゆっくり考えよな。大丈夫やからな」


 サチコの慰めに、私も微笑みを作って返した。


「まあとりあえず、今はお参り、すましてしまおか」


 サチコは私に、コインを渡した。


「そうやな、シャーロット。八坂さんに、『元の世界に戻れますように』ってお祈りしみよか。私もそうお祈りすることにするわ。もしかしたら、霊験あらたかな八坂さんのことや、お願い聞いてくれはるかもしれへん」


 真似するようにと言い、サチコはコインを目の前の木箱へと投げ入れた。そのまま礼を二回、手を二回、打ち鳴らし、手を合わせ、祈りを捧げはじめる。

 私はそれを見よう見まね、横目で盗み見ながら行う。


 不思議なものだ。何の神かも知らぬ、異国の宗教施設で、祈りをささげているのだ。


 そして私は、藁にも縋る思いで、必死に、五臓六腑の底から絞り出すように、願うのだ。


『元の世界に戻れますように』


 ヤサカサン、ブルードラゴンよ。

 この京都の民でないどころか、異世界のエルフである私があなたへ願うのは、はたして筋違いだろう。よくよく承知の上だ。

 だが、どうか、私の願いを聞き届けてほしい。


 私を、ライオネルの元へ、戻してくれやしないだろうか。


 あの武骨な男。人から恐れられるような容貌の、あの男こそが、私にとっては何よりも、しがみついていたい存在なのだ。

 あの男がいなければ、私はどこにいようとも、ずっと迷子のままなのだ……。

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